Deception〜私たちの恋の裏にはそれぞれの思惑が渦巻いている〜


 それから一週間もしないうちに母の病室が特別な個室へと移された。アップライトピアノが業者によって搬入され、想乃は母の前で久方ぶりに鍵盤を鳴らした。

 まだ母に意識のあったころ、自宅でよく弾いていた曲なので楽譜を見ずとも演奏できた。

 よく晴れた日の午後。その日は仕事の一環として慧弥も同席し、母の様子をビデオカメラに記録していた。弟の郷も学校を早退して見守った。

 これまではただ無意味に虚空を見つめるだけの母であったが。想乃のピアノ演奏が始まって数分が経つと、瞼がかすかに震え、瞳になにかしらの変化が見られた。想乃は愛情を込めて母に語りかけ、一日に二、三曲を弾いて聴かせることにした。

 ピアノの音が母の意識を覚醒させているのだと思った。また、慧弥の記録した映像を見て気づいたこともあった。単なる思い込みかもしれないけれど、なんとなく母の表情が穏やかになったような気がして、胸が熱くなった。

 音楽による試みに確かな手応えを感じて、想乃はことさらに喜んだ。

 専門の音楽療法士が決まったのはそれから数日後のことだった。すみやかに治療が開始され、想乃も時間の許すかぎり病院へ足を運んだ。
< 155 / 480 >

この作品をシェア

pagetop