たった1mmの恋

『髪』

 自分の髪が自慢だった。胸元で切り揃えられた毛先に眉を隠す程度の前髪、艶のある黒髪は日の光によって輝いているようだった。それも全ては彼のため。彼が私に言った一言のためだった。
「俺、髪の綺麗な子が好きなんだ」

 空高く建てられた緑のネットをそっと掴む。校庭には青春を切り取ったような光景が広がっていた。その切り取りの一部に視線を向けると、彼は幼い笑顔でボールを蹴っている。遠い筈なのに、顔に滲む汗が眩しいと思った。
 どこからか耳を刺す笛の音が鳴って、校庭にいた彼らの動きが緩やかになる。汗で濡れた髪をかき上げる仕草に、やっぱり眩しいなと目を細めた。動いていないはずなのに手に汗が滲む。
私は鞄に手をかけ、まだ未開封のスポーツドリンクを取り出した。今日こそは、と買い始めてから何日が過ぎただろう。きっとあの自動販売機には、私の好物だと勘違いをされていそうだ。冷たいペットボトルも、すでに汗をかいている。
 深呼吸をする。シミュレーションは完璧だった。彼を探すと、ベンチに座り友人達と楽しそうに会話をしている。その笑顔が、また私の心を締める。眩しい。呼吸を整え足を一歩前に踏み出す、その時だった。

 目の前の光景に、次の足は歩みを止めてしまった。すぐ横で彼の名前を呼ぶ声がして、迷いのない足音が遠ざかって。走る少女の黒髪が揺れる。彼女の声に顔を上げた彼の瞳が、柔らかく細くなる。立ち上がると、彼の手は躊躇うことなく彼女の頭に乗せられた。私と同じ髪色、私と同じ髪の長さ、でも光はない髪質。絶対に、私の方が綺麗な髪なのに。
「なんだ」
彼女は彼にペットボトルを渡している。それは今私の手の中にあるものと同じスポーツドリンク。受け取る嬉しそうな彼の顔。私は誰に気付かれることなく、二人に背を向けた。

 *

「あれ、髪切ったの?色も染めた?」
友人の声を背中に受け振り返る。彼女の視線は私の髪を捉え、何度か瞬きをした。
「さっぱりしたでしょ」
「うん、でもちょっと勿体ないね。あれだけ拘っていたのに」
苦く笑う友人の言葉に、微笑みを返す。
「でも突然どうしたの?」
「ちょっとね」
私の返事に、友人は訝しげに目を細める。少し考えるような沈黙の後、「ああ」と息を吐と一緒に声を漏らした。
「分かった、失恋でもしたんでしょう」
いたずらをする子供のような顔。でもその探るような目つきに、苛立ちは感じなかった。
「違うよ」
言葉が私の体の軸から抜け、真っすぐと口から出る。

「あの人が、綺麗な髪が好きだから切ったの」

困惑した顔の友人に背を向け歩きだす。温かい日の光は、私の髪に反射してキラキラと光っているだろう。空気を肺いっぱいに吸い込み、大きく吐き出した。さて、次はどんな髪形にしてみようか。
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