ツイッター和歌集・1

河童(3)生活教か厭世主義か?

その教えは「食へよ、交合せよ、旺盛に生きよ」と云うのですが但し、同教の大伽藍に聖人像として祭られているのが人間界のストリントベリイ、ニイチエ、トルストイ、国木田独歩、ワグネルなど自殺未遂をした人物かあるいは気狂い然となった者など、とにかく自分が奉ずるものと自分の実態との間に甚だしい乖離を覚えた人物たちが、謂わば芥川と同類項と云うか少なくも彼が非常に共鳴した人物たちばかりが祭られていたのです。しかしこれはいったいどういうことでしょうか?生活教の宗旨はそんな愚にも付かぬ厭世・自殺指向などを捨てて、ただ「食へよ、交合せよ、旺盛に生きよ」だった筈。前期の自殺した詩人トック君の存在と云いこれは明らかな矛盾です。では果たしてこの河童国は芥川の理想郷ではなかったのか…?
 いいえ、違います。ここは間違いなく彼の理想郷でした。なぜなら人間界同様にここが〝人生(河童生?)は畢竟不合理にして無明〟を体現しているからですし、それでいながら「(雄を求めて)雌の河童は遮二無二雄の河童を追ひかける」とか「(解雇して不要になった)職工をみんな殺してしまつて、肉を食料に使ふのです」あるいは人を殺すのに「お前は蛙だ(河童の間ではこれが最大の殺し文句)」とか「お前は盗人だ」と云えばそれで済む、それで相手が死んでしまう…など、芥川にしてみれば万事に本音が露呈して居、それが現実に〝効く〟ことや、資本家の偽善などはなくその赤裸々な本性が現れていること、などなどが実に痛快であったからです。
 自分同様に迷い苦しむ詩人トック君や学生のラツプ君、あるいは常に第三者的で理知的な哲学者マツグ、激情家の音楽家クラバツクらは恰も皆我が分身ででもあるかのように常に傍らに居てくれるし、硝子会社の社長のゲエルなどは政治や実社会の実態を一刀両断にしてくれて実に痛快だ。
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