🍶 夢織旅 🍶 ~三代続く小さな酒屋の愛と絆と感謝の物語~
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終戦のどさくさの中でひっそりと親族だけの結婚式が執り行われた。
新婚初夜は空襲の被害を免れた崇の実家の一間で過ごした。しかし、襖一枚隔てたところに両親がいるのと緊張が重なって、百合子を抱くことができなかった。バツの悪い時間だけが新郎新婦に添い寝していた。
これではだめだと思った崇は実家から少し離れたところに小さな貸家を見つけて引っ越した。そして、すぐに子供を作ろうと励んだが、その望みが叶えられることはなかった。3年経ってもなんの兆候もないのだ。原因は自分にあるとしか思えなかった。25歳の健康そのものの妻に問題があるはずはなかった。だから妻に対して後ろめたい気持ちをいつも感じていた。
それでも毎日の生活は楽しかった。妊娠のことなどまるで気にしないかのように振舞う百合子の明るい性格が後ろめたい気持ちを打ち消してくれたし、それだけでなく、一回り年下の彼女の話を聞くのが楽しくて仕方なかった。知らない世界ばかりで、すべての話が新鮮なのだ。だからいつも聞き役に徹して、趣味である将棋の話は一切しなかった。
結婚する前の崇の毎日は仕事と将棋がすべてだった。軍需工場での仕事が終わると、過去の名勝負が詳しく書かれた本を見て研究するのが楽しみだった。戦争が激しくなる前は将棋道場で終日対局に臨むこともあったが、空襲が始まってからはそれも敵わなくなった。それでも防空壕の中で暗記した棋譜を思い浮かべながら一人対局を続けていた。仕事と将棋だけの毎日、それが崇のすべてだった。
しかし、結婚を機に生活は一変した。平日に将棋の解説本を見ることは無くなった。趣味が将棋から百合子に変わったからだ。言葉にすることはなかったが、『百合子、命』というのが偽らざる心境だった。
それでも月に一度は将棋道場に通っていた。「仕事と家庭だけではだめですよ。趣味は大事にして下さいね」という百合子の優しい心遣いと笑顔のお陰でその日は1日中没頭することができた。妻に対する感謝の気持ちは日に日に膨らんでいった。
その日は突然やってきた。結婚して4年後、百合子が妊娠したのだ。崇は飛び上がって喜んだ。40歳まで1年を切った中で完全に諦めていたから余計に嬉しさが込み上げてきた。
「いつ頃生まれるの?」
「年末か、お正月の頃って、お医者さんが言っていました」
「本当かい? 元旦に生まれたら」
そこで声が詰まった。1月1日生まれの崇にとって望みうる最高のプレゼントだったからだ。こんなに嬉しいことはなかった。
次の日、崇は大きな箱を持って帰って百合子の前で蓋を開けた。有り金をすべてはたいて外国製のカメラを買ったのだ。これから少しずつ大きくなっていくであろうお腹を記録するためだった。早速百合子のお腹を前から横から斜めから撮影した。繰り返し撮影した。その日から崇の趣味は百合子のお腹の撮影に変わった。
次の日曜日、百合子の実家に妊娠の報告をしに行くと、両親はとても喜んで、その夜、盛大にもてなしてくれた。
「初孫か……嬉しいね」
秘蔵の日本酒をぐいぐい飲みながら、一徹は何度も同じことを言い続けた。
「初孫か……嬉しいね」
一升瓶が空になると、店の倉庫から大事そうに両手で抱えて別の日本酒を持ってきた。
「これは新潟で手に入れた幻の酒と呼ばれている特別な酒だ。旨いぞ!」
崇に大きなぐい吞みを渡して、並々と注いだ。
一徹は戦時中中断していた酒蔵巡りを再開していた。日本全国の酒蔵を巡り、なかなか手に入らない逸品を仕入れることに情熱を燃やしていたのだ。そんな各地での逸話をとても嬉しそうに夜が更けるまで話してくれた。
一徹の家に泊まった崇は飲み過ぎたせいか、深夜に喉が渇いて目が覚めた。隣で眠っている妻を起こさないように静かに布団を抜け出して台所へ行き、棚から湯飲み茶碗を取り出して水道水を飲むと、砂漠に降った雨のように細胞の隅々にまで染み渡っていった。もう一杯飲んで椅子に座ると、一徹がポツリと漏らした言葉が蘇ってきた。
「わしの体力も限界だ。それに、孫もできるし、店を畳む良い機会かもしれないな……」
寂しさと嬉しさの入り混じった言葉が頭の中でぐるぐると回って離れなくなった。
一徹は人生を賭けて日本中の旨い酒を探し続けていた。正に人生を賭けていたと言っても過言ではなかった。
しかし、物事に永遠はない。仕入、店頭販売、配達と店の切り盛りを一人でこなしていた一徹は引き際が近いことを悟っていたのだ。
そうだとしても、このまま華村酒店を終わらせていいのだろうか……、
崇の呟きが深夜の台所を当てもなく彷徨い続けた。
あの日以来、子供ができたことを報告しに行ったあの日以来、崇はちょくちょく百合子の実家へ遊びに行くようになった。とにかく一徹の話が面白いのだ。
ある日のこと、愛媛県の名産品や地酒の話になった。
「じゃこ天を焙って山葵醤油で食べるのが最高でな。それに、蒲鉾もいける。そこらで売っている柔らかい蒲鉾ではなく、ギュッと身が締まって歯ごたえがあって、なんとも言えない旨さがある。これも山葵醤油が合う」
焙ったじゃこ天と歯ごたえのある蒲鉾が居間に運ばれてくると、早く食え、というように顎を突き出した。
「おいしいです。それに、どちらも山葵醤油との相性が抜群です」
「そうだろう。旨いだろう。それに愛媛の地酒が合うだろう。その土地の名産品と地酒の相性は言わずもがななんだよ。それから、〆は鯛めし。宇和島の鯛めしは旨いぞ。卵をくぐらせた醤油だれが最高でな。それに茶漬けにしても旨いんだ。行く機会があったら絶対食べてこいよ」と箸を動かすふりをした。
「ところで、下関に行ったことがあるか?」
崇は頭を振った。東京から外に出たことは一度もなかった。すると、『ふく刺し』がどれだけ旨いかの蘊蓄が始まった。
「ふくって、フグのことですよね」
「そうだ。下関ではフグではなく『ふく』と呼ぶんだ。『福につながる』とか、『フグは不遇に通じる』からとか色々言われているが、わしにはわからない。でも、その旨さは天下一品。それに、絵皿が透けて見える程の薄切りの技は芸術と言ってもいいくらいだ。本場もんは違う!」
そして現地で食べた時の写真を見せてくれた。薄切りの『ふく』が大皿に並べられた様は正に芸術といっても過言ではなかった。
「冬といえば」
別の写真を見せてくれた。
「広島で食べた牡蠣の土手鍋は最高だったね。牡蠣と味噌の相性が抜群で。それに広島の地酒を合わせるとまた格別で」
ぐい吞みをグイっとあおった。その時の顔が最高だった。旨い日本酒を飲んだ時はこんな顔をするんだ、という顔なのだ。
「広島の酒は旨いぞ」
一徹は店の棚からとっておきの酒を持ってきて振舞ってくれた。
一徹から話を聞くことが人生の楽しみの一つとなった崇は、休みの度に一徹の家に入り浸るようになり、毎回必ず日本地図を持って行くようになった。一徹とその地図をなぞりながら、写真を見ながら、疑似体験を重ねていたのだ。
「鮒ずしは旨いぞ」
一徹は滋賀県の琵琶湖を指差した。
「独特の酸味と匂いがあって好き嫌いがはっきりする食いもんだが、わしには最高のツマミだね」
鮒ずしは卵を腹いっぱいに抱えたニゴロブナを塩と米飯で乳酸発酵させたもので、日本最古の鮨とも言われている。
「ツマミとして最高。そして、茶漬けでも良し。滋賀の地酒をぬる燗で合わせると」
も~たまらない、というような顔で舌舐めずりをした。一徹は酔うほどに饒舌になり、酔うほどに名調子になっていった。崇は相槌専門、頷き専門であったが、「二人は名コンビね」と百合子がからかうくらい相性抜群だった。
終戦のどさくさの中でひっそりと親族だけの結婚式が執り行われた。
新婚初夜は空襲の被害を免れた崇の実家の一間で過ごした。しかし、襖一枚隔てたところに両親がいるのと緊張が重なって、百合子を抱くことができなかった。バツの悪い時間だけが新郎新婦に添い寝していた。
これではだめだと思った崇は実家から少し離れたところに小さな貸家を見つけて引っ越した。そして、すぐに子供を作ろうと励んだが、その望みが叶えられることはなかった。3年経ってもなんの兆候もないのだ。原因は自分にあるとしか思えなかった。25歳の健康そのものの妻に問題があるはずはなかった。だから妻に対して後ろめたい気持ちをいつも感じていた。
それでも毎日の生活は楽しかった。妊娠のことなどまるで気にしないかのように振舞う百合子の明るい性格が後ろめたい気持ちを打ち消してくれたし、それだけでなく、一回り年下の彼女の話を聞くのが楽しくて仕方なかった。知らない世界ばかりで、すべての話が新鮮なのだ。だからいつも聞き役に徹して、趣味である将棋の話は一切しなかった。
結婚する前の崇の毎日は仕事と将棋がすべてだった。軍需工場での仕事が終わると、過去の名勝負が詳しく書かれた本を見て研究するのが楽しみだった。戦争が激しくなる前は将棋道場で終日対局に臨むこともあったが、空襲が始まってからはそれも敵わなくなった。それでも防空壕の中で暗記した棋譜を思い浮かべながら一人対局を続けていた。仕事と将棋だけの毎日、それが崇のすべてだった。
しかし、結婚を機に生活は一変した。平日に将棋の解説本を見ることは無くなった。趣味が将棋から百合子に変わったからだ。言葉にすることはなかったが、『百合子、命』というのが偽らざる心境だった。
それでも月に一度は将棋道場に通っていた。「仕事と家庭だけではだめですよ。趣味は大事にして下さいね」という百合子の優しい心遣いと笑顔のお陰でその日は1日中没頭することができた。妻に対する感謝の気持ちは日に日に膨らんでいった。
その日は突然やってきた。結婚して4年後、百合子が妊娠したのだ。崇は飛び上がって喜んだ。40歳まで1年を切った中で完全に諦めていたから余計に嬉しさが込み上げてきた。
「いつ頃生まれるの?」
「年末か、お正月の頃って、お医者さんが言っていました」
「本当かい? 元旦に生まれたら」
そこで声が詰まった。1月1日生まれの崇にとって望みうる最高のプレゼントだったからだ。こんなに嬉しいことはなかった。
次の日、崇は大きな箱を持って帰って百合子の前で蓋を開けた。有り金をすべてはたいて外国製のカメラを買ったのだ。これから少しずつ大きくなっていくであろうお腹を記録するためだった。早速百合子のお腹を前から横から斜めから撮影した。繰り返し撮影した。その日から崇の趣味は百合子のお腹の撮影に変わった。
次の日曜日、百合子の実家に妊娠の報告をしに行くと、両親はとても喜んで、その夜、盛大にもてなしてくれた。
「初孫か……嬉しいね」
秘蔵の日本酒をぐいぐい飲みながら、一徹は何度も同じことを言い続けた。
「初孫か……嬉しいね」
一升瓶が空になると、店の倉庫から大事そうに両手で抱えて別の日本酒を持ってきた。
「これは新潟で手に入れた幻の酒と呼ばれている特別な酒だ。旨いぞ!」
崇に大きなぐい吞みを渡して、並々と注いだ。
一徹は戦時中中断していた酒蔵巡りを再開していた。日本全国の酒蔵を巡り、なかなか手に入らない逸品を仕入れることに情熱を燃やしていたのだ。そんな各地での逸話をとても嬉しそうに夜が更けるまで話してくれた。
一徹の家に泊まった崇は飲み過ぎたせいか、深夜に喉が渇いて目が覚めた。隣で眠っている妻を起こさないように静かに布団を抜け出して台所へ行き、棚から湯飲み茶碗を取り出して水道水を飲むと、砂漠に降った雨のように細胞の隅々にまで染み渡っていった。もう一杯飲んで椅子に座ると、一徹がポツリと漏らした言葉が蘇ってきた。
「わしの体力も限界だ。それに、孫もできるし、店を畳む良い機会かもしれないな……」
寂しさと嬉しさの入り混じった言葉が頭の中でぐるぐると回って離れなくなった。
一徹は人生を賭けて日本中の旨い酒を探し続けていた。正に人生を賭けていたと言っても過言ではなかった。
しかし、物事に永遠はない。仕入、店頭販売、配達と店の切り盛りを一人でこなしていた一徹は引き際が近いことを悟っていたのだ。
そうだとしても、このまま華村酒店を終わらせていいのだろうか……、
崇の呟きが深夜の台所を当てもなく彷徨い続けた。
あの日以来、子供ができたことを報告しに行ったあの日以来、崇はちょくちょく百合子の実家へ遊びに行くようになった。とにかく一徹の話が面白いのだ。
ある日のこと、愛媛県の名産品や地酒の話になった。
「じゃこ天を焙って山葵醤油で食べるのが最高でな。それに、蒲鉾もいける。そこらで売っている柔らかい蒲鉾ではなく、ギュッと身が締まって歯ごたえがあって、なんとも言えない旨さがある。これも山葵醤油が合う」
焙ったじゃこ天と歯ごたえのある蒲鉾が居間に運ばれてくると、早く食え、というように顎を突き出した。
「おいしいです。それに、どちらも山葵醤油との相性が抜群です」
「そうだろう。旨いだろう。それに愛媛の地酒が合うだろう。その土地の名産品と地酒の相性は言わずもがななんだよ。それから、〆は鯛めし。宇和島の鯛めしは旨いぞ。卵をくぐらせた醤油だれが最高でな。それに茶漬けにしても旨いんだ。行く機会があったら絶対食べてこいよ」と箸を動かすふりをした。
「ところで、下関に行ったことがあるか?」
崇は頭を振った。東京から外に出たことは一度もなかった。すると、『ふく刺し』がどれだけ旨いかの蘊蓄が始まった。
「ふくって、フグのことですよね」
「そうだ。下関ではフグではなく『ふく』と呼ぶんだ。『福につながる』とか、『フグは不遇に通じる』からとか色々言われているが、わしにはわからない。でも、その旨さは天下一品。それに、絵皿が透けて見える程の薄切りの技は芸術と言ってもいいくらいだ。本場もんは違う!」
そして現地で食べた時の写真を見せてくれた。薄切りの『ふく』が大皿に並べられた様は正に芸術といっても過言ではなかった。
「冬といえば」
別の写真を見せてくれた。
「広島で食べた牡蠣の土手鍋は最高だったね。牡蠣と味噌の相性が抜群で。それに広島の地酒を合わせるとまた格別で」
ぐい吞みをグイっとあおった。その時の顔が最高だった。旨い日本酒を飲んだ時はこんな顔をするんだ、という顔なのだ。
「広島の酒は旨いぞ」
一徹は店の棚からとっておきの酒を持ってきて振舞ってくれた。
一徹から話を聞くことが人生の楽しみの一つとなった崇は、休みの度に一徹の家に入り浸るようになり、毎回必ず日本地図を持って行くようになった。一徹とその地図をなぞりながら、写真を見ながら、疑似体験を重ねていたのだ。
「鮒ずしは旨いぞ」
一徹は滋賀県の琵琶湖を指差した。
「独特の酸味と匂いがあって好き嫌いがはっきりする食いもんだが、わしには最高のツマミだね」
鮒ずしは卵を腹いっぱいに抱えたニゴロブナを塩と米飯で乳酸発酵させたもので、日本最古の鮨とも言われている。
「ツマミとして最高。そして、茶漬けでも良し。滋賀の地酒をぬる燗で合わせると」
も~たまらない、というような顔で舌舐めずりをした。一徹は酔うほどに饒舌になり、酔うほどに名調子になっていった。崇は相槌専門、頷き専門であったが、「二人は名コンビね」と百合子がからかうくらい相性抜群だった。