🍶 夢織旅 🍶  ~三代続く小さな酒屋の愛と絆と感謝の物語~

第一章:崇と百合子

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 醸の父・(たかし)は1950年に酒屋の主になった。その当時は日本酒がよく飲まれていて、ビールの消費量は増えていたが、焼酎や洋酒の存在感はまだ大きくはなかった。ワインに至ってはほとんど飲まれていないに等しい状態だった。
 酒屋の主になる前の崇は軍需工場に勤めていたが、それがある出会いによって一変することになった。崇の運命を変えてしまったのだ。
 35歳になっても独身だった崇は母親から盛んに見合いを勧められていた。しかし、崇にはまったくその気がなかった。結婚したっていつ死ぬかわからないからだ。
 母親の考えが違っていることは知っていた。いつどうなるかわからない状況だからこそ、せめて結婚だけはさせたかったのだ。女性を知らないまま死なせるわけにはいかないと必死だったようだ。だから崇が何度断っても母親は諦めなかった。
 ある日、正対した母親は崇にすがりつき、「一生一度のお願い」と涙ながらに訴えた。それは最後の賭けのような迫力で、まさか泣かれるとは思ってもみなかったので狼狽えてしまった。しかも両手を掴まれて逃げ出すこともできなくなり、観念するしかなくなった。残された選択肢は首を縦に振ることだけだった。

華村(はなむら)百合子(ゆりこ)です」
 見合いの相手は広いおでこが印象的な女性だった。1922年生まれで、今年23歳になるという。干支が一緒だった。
 一回り年下か……、
 崇は艶々とした彼女の肌に思わず見とれてしまった。
「初めてのお見合いなのです」
 頬を染めてうつむいた姿に心が揺れた崇は自身の反応が信じられなかった。
 どうしたんだろう……、なんだ、この気持ちは……、
 彼女はとても控え目で、清楚で、自分を押し出すといったところがまったくなかった。それに、しゃべり方がゆっくりで、声も小さかった。聞き取るのに苦労したほどだった。

 彼女の実家が酒屋だということは母親から聞いて知っていた。戦時中の生産統制で商いは細り、配給制が始まってからは閉店状態が続いていた。だから、彼女の父親は娘を早く嫁に出したかったようだ。店を再開できる可能性が見いだせない状態では苦労させるのが目に見えていたし、それ以上に戦争の行方が心配だったからだ。東京への空襲が激しくなっており、いつ死んでもおかしくない状況だった。それならせめて結婚だけでもと、仲人に縁談を持ち込んだのだ。

 見合いが終わってからも崇の心は揺れ続けていた。こんな気持ちになったことはかつて一度もなかった。それくらい惹かれていた。
 もう一度会いたい、すぐにでも会いたい、
 夜、布団の中で彼女の顔や仕草を思い出しては寝返りを何度も打った。眠る事なんてできそうもなかった。まんじりともせず朝まで過ごした。

 しかし、その気持ちを表に出すことはできなかった。もう一度会いたいとも言えず、かといって一度しか会っていないのですぐに結論を出すこともできず、当然母親に相談することなんてできるはずもなく、次の夜もまんじりともせず朝を迎えた。

 母親は落ち着いて見えた。あれほど見合いを勧めていたにもかかわらず、結婚のことをせっつかなかった。とにかく焦る様子は微塵もないのだ。

 しかし、3日が過ぎた夕食時、いきなり母親に追い詰められた。
「どうするの? 嫌だったら断ってもいいのよ」
 その瞬間、沢庵(たくあん)をかじる音が止まった。何か言おうとしたが、口から言葉は出てこなかった。すると、それに焦れたのか、「あんまり返事が遅くなるのもね」と追い打ちをかけてきた。
「いや、」
 どう言ったらいいかわからなかったので、取り敢えず声を出したが、その後が続かなかった。嫌でもないし断るつもりもなかったが、といって、嬉しそうに尻尾を振るのも(はばか)られた。
 しかし、そんな曖昧な態度が母親に通じるはずはなかった。
「はっきりしなさい」
 逃げ道を塞ぐように強い声の壁が襲ってきた。
 もう降参するしかなかった。
「結婚……」
 箸に視線を落としたまま唾を飲み込んだ。
「……してもいいよ」
 すると母親の顔つきが変わった。それまでの厳しい表情から一転したのだ。唇が震え始めると、右手で口を押えたが、それでも止められないのか、顔の筋肉が痙攣しているように見えた。目は明らかに赤くなっていて、今にも溢れそうだった。
 ヤバイと思った。自分の目からも変なのが落ちそうになっていた。慌てて上を向いたが、こらえきれず零れ落ちた。しかし、それを拭うこともできなかった。泣いていることを認めることになるからだ。鼻をすすることもできなかった。
 どうしようもなくなって沢庵を噛むことしかできなくなり、珍しく空襲警報が鳴らない夜、ボリボリという音だけが親子を包み込んだ。


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