🍶 夢織旅 🍶  ~三代続く小さな酒屋の愛と絆と感謝の物語~
第八章:シャンパーニュからの卒業
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 そろそろ……、 
 白鳥開夢のメゾンで修行をしていた咲は帰国に向けた準備を始めていた。瓶内二次発酵などのシャンパーニュ製造技術の基本を習得できたと思ったからだ。
 あとは日本に帰って実際にやってみるしかない、
 それは、泡酒に挑戦する時が来たことを自覚した証だった。

「そうですか、帰りますか」
 開夢は残念そうな表情を浮かべたが、すぐに気を取り直したようにいつもの笑顔で大きな声を出した。
「盛大に門出を祝いましょう」

 シャンパーニュを離れる前の日、送別の宴が開かれた。そこには奥さんや子供だけでなく、メゾンの関係者全員が集まっており、全員の顔を見渡してから開夢が口を開いた。
「月日が経つのは早いものです。この前、咲さんを迎えたと思ったら、もうお別れの時が来てしまいました。『泡酒を造りたい』と目を輝かせて我々の前に現れた咲さん、製造技術習得のためにメモを取り続けた咲さん、週に一度は料理を作りますと言って日本食を振舞ってくれた咲さん、メゾン全員でピクニックに行った時に日本の歌を披露してくれた咲さん、おはじきやお手玉など日本の遊びを子供に教えてくれた咲さん、ホワイトバードの出荷祝いの席で酔っ払って饒舌(じょうぜつ)になった咲さん、あなたとの毎日は何物にも代えがたい素晴らしいものでした」
 グッと来た。今までのことが走馬灯のように思い出されて目が潤んできた。それは他の人も同じようで、誰もがしんみりとしていた。しかし、そんな雰囲気を開夢の明るい声が吹き飛ばした。
「お別れは再会の始まりとも言われています。ですから、別れを悲しむのではなく、再会に胸を膨らませる喜びの会にしたいと思います。今日は咲さんの前途を祝って大いに飲み、大いに食べて愉快に過ごしましょう。それでは準備はいいですか?」

 全員のグラスにホワイトバードが注がれたのを確認して、開夢が乾杯の発声を上げた。
サンテ(乾杯)!」
 全員が咲に向かってグラスを掲げた。咲もグラスを掲げたあと皆に向かって頭を下げると、奥さんの明るい声が響いた。
「さあ、いっぱい食べてね」
 奥さんと子供が大皿が二つ乗ったカートの横に立っていた。
「先ずはニース風サラダを召し上がれ」
 トマト、ゆで卵、ツナ、スプリング・オニオン、黒オリーブ、アンチョビの酢漬け、バジルなどがオリーブオイルとガーリックと塩でシンプルに味つけされていた。
 しかし、それだけではなかった。ニースから取り寄せたロゼワインが用意されていた。その相性は抜群で、絶妙なマリアージュに舌を巻いた。

 あっという間に皿が空になると、奥さんが新たな料理を運んできた。
「今度はブルゴーニュの料理よ。これは辛口の白ワインと合わせてみてね」
 奥さんが指差す皿を見るなり歓声が上がった。エスカルゴだった。殻の中にパセリ、ニンニク、エシャロット、バターを詰めて熱々に焼き上げたエスカルゴが12個入る専用の皿で食べられるのを待っていた。
 火傷しないようにフーフーしてから口に入れると、いっぱいに広がるガーリックの風味がたまらなかった。それに、ブルゴーニュ産の白ワインを合わせると絶妙だった。キリっとした辛口が最高に合っていた。
 しかし、他のワインも試してみたくなったのでロゼと合わせると、これもいけた。ロゼは万能だと思った。
 次にホワイトバードを口に含んだ。合わないわけがなかった。開夢の造ったホワイトバードは極上な上に万能だった。

 あっという間にエスカルゴが無くなると、絶妙のタイミングで鴨のテリーヌが運ばれてきた。そこにはバゲットが添えられていた。
「少し粗挽きにしているから鴨本来の旨味が味わえるはずよ」
 奥さんがちょっと自慢気な顔をしたので、先ずテリーヌだけを口に入れると、濃厚でまったりとした感触が口の中に広がり、深い味わいに味蕾が驚いた。
 次に、バゲットに塗って食べると、パリパリ感とテリーヌのしっとり感が最高のハーモニーを奏でて言うことなかった。
「これにはこれを合わせてね」
 奥さんが手にしていたのは南西地方カオールの赤ワインだった。マルベック種から作られた濃厚な赤ワインで、色は黒みがかっている。しかし、渋味は少なく飲みやすかった。それにテリーヌとの相性が抜群で、奥さんのワイン選びは半端ないと感心した。

 テリーヌとバゲットがなくなった頃を見計らうように主役が現れた。
「さあ、メイン料理の登場よ」
 奥さんの声に反応して皆の視線が料理に集まった瞬間、ワッと沸いた。子羊背肉のローストだった。骨付き肉が大皿二つに山盛りになっていた。皆は待ちきれないというように奥さんを見つめた。
「ボナペティ」
 声を合図に、一斉に手が伸びた。奥さんはそれを嬉しそうに眺めながら、「メドックのグラン・クリュを用意したから合わせてみてね」と微笑んだ。
 頬張って赤ワインを流し込むと、「最高~」と思わず声が出た。一瞬にして恋に落ちた。少し癖のある背肉と複雑な風味のあるメドックの濃厚なワインがピッタリ合っていて、こんな素晴らしいマリアージュを考える奥さんが魔術師のように思えてきた。

 大皿が空になると、チーズの盛り合わせが運ばれてきた。
「フランスの誇りを召し上がれ」
 白カビタイプ、青カビタイプ、ウォッシュタイプ、シェーブルタイプ、ハードタイプの個性あるチーズが並んでいた。
「白カビタイプのブリーチーズにはローヌのミディアムを、青カビタイプのブルーチーズにはアルザスの白を、ウォッシュタイプのモンドールチーズにはブルゴーニュの赤を、シェーブルタイプのヴァランセチーズにはロワールの軽い赤を、そして、ハードタイプのコンテチーズにはプロヴァンスのフルーティーな赤を合わせてみてね」
 その通りに合わせてみると、どれも最高の組み合わせだった。完璧なマリアージュに感激して、思わず奥さんに抱きつきそうになった。
 しかし、皿とボトルが空になると興奮は静まり、静寂が戻ってきた。すると、それを見計らったように開夢が口を開いた。
「楽しい宴も残念ながら終わりが近づいてきました。名残り惜しいですが、皆を代表して送別の辞を述べさせていただきます。咲さん、私の果たせなかった夢、泡酒を造るという夢に挑戦して下さるとのこと、本当に嬉しく思っています。シャンパーニュでの経験が必ずや役に立って、日本初の泡酒が完成することを心から祈っています。しかし、新しいことへの挑戦は困難との戦いでもあります。咲さんの前には高い壁が立ちはだかるかも知れません。悩み苦しむ日々が続くかもしれません。それでも、常に前を向いて挑戦を続けてください。そうすれば、必ずや幸運の女神が微笑みます。課題解決のための知恵が湧いてきます。諦めなければ、必ず誰かが、必ず何かが助けてくれます。成功を信じてください。自分を信じてください。そして私たちシャンパーニュの家族がいつも応援していることを忘れないでください。私たちはいつでもあなたと共にいます」
 そして、奥さんに視線を送ると、彼女は頷いてピンクのリボンで装飾した二つの包みを差し出した。一つ目からはメゾンで過ごした数々の写真とメゾン全員のメッセージが書かれた色紙が、二つ目からは記念すべき第1号ロットのホワイトバードが現れた。
 見た瞬間、感極まりそうになった。しかし、泣くわけにはいかない。お礼の言葉を伝えなければならないのだ。
「シャンパーニュ製造の実務経験のない私が泡酒への想いだけを携えてこちらに飛び込んだのは、無謀ともいえる行為だったと思います。しかし、白鳥さんご夫妻始め皆さんに温かく迎えていただき、今日まで充実した日々を過ごすことができました。未熟な私に手取り足取り教えていただいたお陰で多くのことを学ぶことができました。いくら言葉を尽くしても尽くしきれないほどの感謝の思いでいっぱいです。もし私が皆さんにお礼ができるとすれば、それは日本に帰って泡酒を完成させることです。そして皆さんに味わっていただき、おいしいと言っていただくことです。その日を楽しみに全力を尽くしてまいります。これからも見守ってください。本当にありがとうございました」

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