🍶 夢織旅 🍶  ~三代続く小さな酒屋の愛と絆と感謝の物語~
第十章:泡酒
 やっと、できた……、
 グラスに注いだ酒を飲み終わった咲は安堵の余り、力が抜けてしまった。目指す泡酒ができ上ったからだ。
 長かった……、
 帰国して崇の跡を継いで蔵元になってから2年近くが経っていた。

 瓶内二次発酵の技術を習得して自信満々で取り組んだ咲だったが、製造設備や原料の違いなどもあり、思ったような品質の泡酒を造ることはできなかった。そこそこのレベルの泡酒はできるのだが、その程度で満足するわけにはいかなかった。本場シャンパーニュに負けないレベルに達しない限り、合格点を出すわけにはいかないからだ。
 咲は自らの知識や経験をフル回転させて自問自答を繰り返したが、いくら試行錯誤を重ねても好転する兆しは訪れなかった。それだけでなく、当初応援してくれていた杜氏や蔵人の反応が冷ややかに変わってきたのも辛かった。
 孤立無援になった咲は窮地に陥った。そんな時、手を差し伸べてくれたのが開夢だった。
「シャンパーニュの香りや味わいは葡萄の品種によって変わる。泡酒も同じだと仮定すれば、今と違う酒米で試すことが必要だと思う」とアドバイスをくれたのだ。更に、杜氏や蔵人に対して「私の夢を継いでくれた咲さんを応援してやって欲しい」と手紙を書いてくれた。
 咲はアドバイスに従って色々な酒米を取り寄せては一つ一つ試していった。杜氏や蔵人も人が変わったように協力してくれるようになった。しかし、これはという酒米に出会うことはなかった。どれを試しても満足のいく結果が得られないのだ。気持ちを前向きにして頑張ってきたが、どうにもならなくなった。遂に八方塞がりになってしまったのだ。今まで一度も弱音を吐いたことがなかったが、さすがに頭を抱えた。
 万事休す! 
 心が凍るほど落ち込んだ時、朝陽が差し込むように東の方から救いの神が現れた。
 崇だった。咲の窮地を知った崇はすべての伝手を頼って新たな酒米を見つけ出そうと、駆けずり回ってくれたのだ。
 すると、東北で新たな酒米が開発されたという情報が入ってきた。そこは東北随一と言われる技術力を持つ農業試験所だった。アポイントを取ってすぐに向かうと、応対に出た担当者はその酒米の特徴を詳細に説明してくれて、もしかしたら泡酒に適しているかもしれないと期待を持たせてくれた。その上、命名したばかりだという酒米の名前を聞いて心が震え、崇は天を仰いだ。その名前は華咲夢(はなさきゆめ)。正に咲のために開発されたと言ってもいい酒米だった。

 崇が持ち帰った酒米の名前を聞いて、咲も運命を感じた。これこそ待ち望んだものだと直感で理解した。早速瓶内二次発酵を試みると共に、醸がペネデスで収集してくれた情報を再度精読して、製造工程から補糖を外した。
 すると、遂に求める泡酒が出来上がった。きめ細かな泡、爽やかな香り、すっきりとした味わい、そして、あとから感じるほのかな甘み、シャンパーニュに負けない泡酒が出来上がった瞬間だった。

 それを持って真っ先に父親の元へ向かった。飛行機の中で父親の喜ぶ顔を想像する度に頬が緩むのを止めることができなかった。
 家に着くなり紙袋を父親に渡すと、「できたのか」と顔をほころばせ、大事そうに抱えてリビングへ行って椅子に座った。そして、(おもむろ)に取り出したスリムなボトルをテーブルの上に置いたが、それ以上何かをしようとはしなかった。ただじっと見つめていた。
「飲んでみて」
 焦れた咲が肥前びーどろのグラスに泡酒を注ぐと、父親はその泡をじっと見ていたが、「きれいな泡だな」と言った瞬間、声が揺れた。体の奥から熱いものが溢れてきたような感じで、グラスを持つ手が小刻みに震えていた。目が潤んでいるようにも見えた。
「もったいない」
 グラスを口に持っていこうともしないので、更に促すとなんとか飲んでくれたが、「ありがたい」と呟いたあとは、ボトルに向かって両手を合わせたまま動かなくなった。

 翌日の午後、咲は華村酒店へ泡酒を持参し、奥の間に入るなり、遺影の前に座って手を合わせた。
「一徹じいちゃんに飲ませたかったな」
 もっと早く完成していたらと思うと残念で仕方がなかった。しかし、醸が笑っているのでどうしたのかと思っていると、「飲ませてやれよ」とグラスを渡された。
「そっか~。そうだね」
 さっそく泡酒を注いで遺影の口元にグラスを付けて「おいしい?」と語りかけると、「咲ちゃん、おいしいよ」と醸が祖父の声を真似た。それがとてもよく似ていたので笑ってしまったが、それで一気に悔いのようなものが消えた。あの世に行っても応援してくれているのは間違いないのだ。あの優しい笑顔で見守っていてくれるのだ。
「これからもよろしくお願いします」
 両手を合わせて頭を下げた。

「ところで、白鳥君も喜んでいるだろう」
 崇の声でフランスでのことが蘇ってきた。
「はい。すぐに送りました。白鳥さんに飲んでいただこうと思って。それに、おじ様と醸にもいっぱい助けていただいて」
 華咲夢とベネデスの情報がなければこの泡酒は完成しなかったと、心からのお礼を言った。すると、「そんなことより早く乾杯しようよ」とちょっと照れたような醸が促すので、皆のグラスに泡酒を注いで姿勢を正した。
「皆様のご支援のお陰で泡酒が完成しました。本当にありがとうございました。心からの感謝を込めてグラスを掲げさせていただきます。乾杯!」
 一口含むと、爽やかな香りが鼻に抜けて、すっきりとした味わいが口の中に広がった。と同時に「いけるね。うまいね」と醸が顔を綻ばせ、「乾杯の酒に最高だね。それに和食だけでなく洋食にも合いそうだから、すべての料理の食中酒としてもいけると思うよ」と崇おじさんが最高の誉め言葉を贈ってくれた。それで不安が消えたので本題を切り出した。
「この泡酒を扱っていただけますか?」
「もちろんだよ。華村酒店のイチ押しとして扱わせてもらうよ」
 間髪容れず社長の顔になった崇が断言してくれたのでホッとしたが、醸が不思議そうにボトルを一回転させたので、気になった。
「名前が書いてないけど」
「えっ、名前?」
「そう。この泡酒の名前」
「あっ」
 泡酒を完成させることばかり考えていて名前のことまで頭が回っていなかった。それでも、何か言わなければと思って「日本夢酒造『泡酒』ではだめかな」と問うと、「悪くはないけど、でも、もし他の会社から同じようなものが出てきたらどうする? 固有の商標がないと差別化が難しくなるんじゃないかな」と指摘されてしまった。
「そうだよね。わ~どうしよう。どうしたらいい?」
 救いを求めたが、「急に言われても思いつかないよ」と頭を振られた。
「そうよね……」
 袋小路に入ってしまった。それでも知恵を絞り出そうとしたが、名案は浮かんでこなかった。その時だった。
「華村咲にしたら?」と百合子の口から突然の提案が飛び出した。
「えっ、それって」
 百合子は笑った。
「ひらがなで『はなむらさき』。どう?」
「おば様……」
 天から舞い降りてきたような名前に咲は声をなくした。何か言おうとしたが、声は出ていかなかった。うるうるしながら百合子を見つめることしかできなかったが、「決まりだね!」という醸の声が涙を止めた。
「ありがとうございます」
 まだ涙声だったが、もう心は揺れていなかった。その場で泡酒のブランド名を『はなむらさき』に決定し、フランスへ出荷するブランド名を『HANAMURASAKI』にすることも決めた。

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