🍶 夢織旅 🍶  ~三代続く小さな酒屋の愛と絆と感謝の物語~
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 無念の思いを抱いて帰国した醸だったが、そのことに落ち込んでいる暇はなかった。アルバイトを迎えることになっていたからだ。『古酒』と『はなむらさき』の販売増加で業務量が増えたため、醸と幸恵だけで店を回すのは限界に近づいていた。
 それに、駐日外国公館への取り組みに備える必要がある。今後の事業発展に備えるためにも人員増が必要だった。更にその先のことも考えていた。アルバイト学生の中から、勤勉で、かつ、創造力のある優秀な学生を見つけて、社員として採用するという将来設計だった。

 その日がやってきた。午前10時に男子学生と女子学生が訪ねてきて、自己紹介ののち、「よろしくお願い致します」と頭を下げた。二人は共に東京醸造大学大学院に在籍していた。
「よろしく頼むね、後輩たち」
 そして、将来の社員候補への第一声に力を込めた。
「勉強や実験だけでなく、販売現場の実態を知ることはとても重要なことだと思う。現場・現物・現実をしっかり見て欲しい。お客様の声に耳を傾けて欲しい。そしてその声を華村酒店へフィードバックして欲しい」
 二人が大きく頷くのを見て、醸の心は一瞬だけ無念の思いから解放された。

        *

 アルバイト学生の指導を始めて2週間後、音が突然店にやってきた。
「ボルドーから?」
 驚いていると、音はにこやかに頷いた。ボルドーのフランス人シェフが銀座にフレンチレストランを出すにあたって、音を招待したのだという。店で出すワインのアドバイスを得るためだった。ブルゴーニュとボルドーの両方で高い技術を習得した音にシェフは高い信頼を寄せているらしい。
 更に、日本人であることも理由一つで、舌の肥えた日本人を唸らせる料理とワインのマリアージュを実現させるためには、フレンチワインのことを知り尽くした音が最適だと思ったようだった。
 ひとしきりその店のことで盛り上がったあと、醸はイーグル・エステートのことを音に話した。
「そうか……、あのイーグル・エステートが……」
 フランスにまで名が轟いているカルトワインの作り手が廃業することが信じられないようだった。
「俺に力があれば受け継ぐんだけどな」
 無念を表すと、「それはこっちも同じだよ」と頷きが返ってきた。できることなら自分の手で再建してみたいという。
「でも、どうしようもないよな」
「ああ、残念だけどどうしようもない」
 目を逸らした音が店の天井を見上げた。

        *

「なんとか力になってもらえないかな」
 実家に戻った音は父親に協力を求めた。
「う~ん」
 いつも前向きな父親にしては歯切れの悪い反応だった。それでも諦めるわけにはいかなかった。カルトワインを生み出した土壌で腕を試したいと強い気持ちをぶつけた。
「やってみたいんだよ。だから、お父さんの会社で買収してくれないかな。佐賀夢酒造を買収した時のように上層部を説得してよ」
 しかし、期待した返事は返ってこなかった。
「そうはいかない」
「なんで?」
「畑の半分が焼け落ちた上に、残った半分の樹も煙や高温に晒されてしまったというんだろ。その影響がどんなものになるか想像もつかないし、葡萄畑としての価値はほとんどなくなってしまったとオーナーが言っているんじゃ、手を出すことは出来ない」
「でも、やってみないとわからないだろ」
「そうかも知れないが、リスクが大きすぎる。その上、いつまた山火事が起こるかわからない。そんなビジネスに手を出すつもりはない」
 そして、もうこの話は終わりだというように視線を音から外した。
「でも、せめて現地調査くらいしてみてよ」
 音は食い下がったが、視線を戻した父親の目は厳しかった。
「デューデリジェンス(適正評価手続き)にどのくらい金がかかるのか知っているのか」
「知らないけど……」
「現状分析、将来予測、会計や財務、更に法務的なものを合わせると、数百万円から数千万円になることもあるんだ。ちょっとやってみるというわけにはいかないんだ」
 金額を聞いた瞬間、望みは完璧に消えてしまった。
「わかった」
 出した声は、父親に届いているのかどうかわからないほど小さかった。

        *

「そうか……」
 事の顛末(てんまつ)を聞いて、声が沈んだ。
「でも、ありがとう。そこまでやってくれて嬉しいよ」
 受話器を持ったまま頭を下げると、「熱い想いだけじゃどうにもならないことがあるんだと思い知らされたよ」と音の声も沈んだ。
「そうだな。學おじさんのようなプロから見れば、俺たちの考えは甘すぎるんだろうな」
「うん、そうだと思う。まだまだだな」
 最後はため息がシンクロして電話を切るしかなかったが、オーナーの疲れ切った顔が浮かんできて、なんともやるせない気持ちになった。
 しかし、そのことで落ち込んでいるわけにはいかなかった。はなむらさきの在庫の件が気になって仕方がないのだ。店の在庫はまだ少し余裕があったし、次の出荷ももうすぐ始まるのでなんとか回せるのではないかとも思っていたが、ふじ棚の弟子たちからの注文が増えていたし、在外公館からも大量ではないにしろ安定した注文が入っていた。
 それに加えて、外国公館での試飲説明会も好評で、採用の連絡が続々と入っていた。綱渡り状態が続く可能性を否定することはできないのだ。咲からは最小量予測に対しては数年にわたって十分対応できるとの返事が来ていたが、最大量予測については確認中という言葉しか貰っていなかった。

 不安な状態のまま日が過ぎていったが、1週間後、配達から戻ると、「30分ほど前に咲さんから電話があったわよ」と母から伝えられた。
 醸は取る物も取り敢えず咲に電話をかけた。すると、「なんとかなりそうよ」と気楽な声が返ってきた。
「ほんとに?」
 信じたかったが、疑わしそうな口調になるのを止められなかった。そんな簡単なことではないはずだからだ。しかし、咲の説明は明確だった。
「2年後以降の最大量が心配だったから増産投資の可能性について詰めていたの。設備だけはこっちの努力ではどうしようもないから、メーカーに入ってもらって検討していたの。その結果、なんとかなりそうというか、してくれることになったの。最初は無理だって断られたんだけど、強引に押し切っちゃった」
 そこで何故か含み笑いのような声が聞こえた。
「ま、私の魅力に逆らえなかったということかな」
 それを聞いて呆れたが、「ということで、ご心配なく」とあっけなく電話が切られた。醸は受話器を持ったまま、狐に化かされたような思いで母を見つめた。

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