🍶 夢織旅 🍶  ~三代続く小さな酒屋の愛と絆と感謝の物語~
最終章:祖父と父の声
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「おめでとう」
 祝い事が重なった華村家は喜びに包まれた。翔が20歳になった。醸は50歳になった。そして、2000年代が幕を開けた。2000年1月1日の東京は雲一つない快晴だった。
 朝8時には家族全員が居間に集まっていて、テーブルの上にはシャンパングラスが出番を待っていた。翔は待ち切れないというような表情を浮かべていた。
「解禁だな」
 父親がしたように、醸も未成年の翔には酒を飲ませなかった。翔も我慢した。見ていない所ではわからないが、少なくとも自分の前では飲まなかった。だから、一滴も飲まなかったと信じることにしている。そんなことはあり得ないだろうという声が聞こえてきそうだが、それには耳を貸さない。自分が信じていればいいのだ。余計な詮索(せんさく)は必要ない。醸は飲酒デビューを祝して翔のグラスにはなむらさきを注いだ。
「乾杯!」
 翔と醸と幸恵、そして母の声が部屋中に響いた。テーブルの上にはとっておきの古酒が並んでいた。北海入魂酒造の北海誉、灘生一本酒造の六甲錦醸、佐賀夢酒造の一献盛、房総大志酒造の芳醇大漁。そして、咲が心血を注いで造り上げた日本夢酒造のはなむらさき(・・・・・・)はなゆり(・・・・)
「好きなものを好きなだけ飲んでいいぞ」
 ゴーサインを出すと、翔は切子グラス5個に酒を注いでくっくっと飲んでいき、そのすべてを飲み干しても、けろりとしていた。
「血は争えないわね」
 幸恵が目を細めた。
「本当だね。酒の血筋をひいているな」
 醸は頼もしく翔を見つめた。
 翔は東京醸造大学で理論を、華村酒店でアルバイトをしながら現場を、同時並行で学んでいた。父親と同じく大学院に進むことも決めていたし、卒業後の進路も思い描いていた。日本夢酒造で咲から学び、その後はフランスへ渡って音から学ぶことを考えているのだ。それが終われば、世界中を回って日本人が知らない隠れた銘酒を探し出すという目標を定めている。
 我が子ながらたいしたものだ、
 先を見据えて頑張っている翔のことを誇らしく感じた。
「うちの酒はうまいね!」
 翔の大きな声で醸は現実に戻った。かなりの量を飲んだ翔はさすがに酔いが回ってきたようで、顔に赤みを帯びている。しかし、絶好調になってきたのか、いきなり立ち上がった。そして、「僕の時代が始まる。イッツ翔タイム!」と大きく手を広げて、二つの遺影に顔を向けた。

        *
         
 翔の成人を祝うように、華村酒店に強いフォローの風が吹き始めた。それは、事業を大空に舞い上がらせるような上昇気流をもたらした。
 2000年代に入り、本格的な焼酎ブームがやって来たのだ。芋焼酎が脚光を浴び始めると、九州圏外の消費が大きく伸び始めた。特に、東京での消費量が一気に跳ね上がった。原料となる芋が足りなくなるという現象まで起こった。そして、その盛り上がりは芋以外の焼酎にも波及した。蕎麦焼酎にもスポットライトが当たったのだ。
 一方、23区外への出店を加速していた蕎麦割烹『ゆかい』は、中央線沿線、京王線沿線、総武線沿線、東横線沿線へと店を広げ、東京都内で50店舗を展開するまでになった。
 湯山は女性客に的を絞っていた。おじさん向けの蕎麦屋ではなく、お洒落な蕎麦割烹を目指していたからだ。だから、佐久乙女の蕎麦湯割りを新しいお洒落な飲み方として提案していた。
 グラスにも凝っていた。カラフルな肥前びーどろを使ったのだ。もちろんそれは醸が紹介したもので、咲に頼んで送ってもらった肥前びーどろを湯山はたいそう気に入った。だから全店で採用して積極的にアピールすると、女性客の反応は予想以上で、「素敵」「お洒落」「可愛い」と、その評判は口コミでどんどん広がっていった。その結果、肥前びーどろで佐久乙女の蕎麦湯割りを飲む女性客が増え、佐久乙女の消費量がうなぎ上りに増えていった。
 それは独占契約を結んでいる華村酒店への発注数量の大幅な増加につながった。そのことは醸にとってとても嬉しいことだったが、同時に欠品しないように在庫を確保する必要に迫られ、少なくなるたびに信州佐久酒造の蔵元に確認の電話を入れた。
「問題ありません」
 蔵元は息子に代わっていた。
「ゆかいの出店計画に合わせて増産投資をしています。ご心配なく」
 あの時の青年は立派な経営者に変身していた。

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