〜Midnight Eden〜 episode2.【蛍狩】
 帰宅した光は玄関に雑に脱ぎ捨てられたパンプスに気付いた。西日の差し込む部屋には、滅多に家に戻ってこない母親がいる。

「帰ってたんだ」
「着替え取りに来ただけ」

娘が帰宅しても見向きもしない母はドレッサーの前を動かない。フランス製のドレッサーは前の家にいた頃から母が使用している、この家で最も高い家具だ。

 短大卒業直後に結婚した母は社会の厳しさも知らないまま大人になった。男の経済力に頼らなければ生きていけない彼女は、いつまでも豊かだった生活を捨てきれないお嬢さんだ。

「学校辞めようと思うんだけど」
「そう。いいんじゃない?」
「……お母さんには迷惑かけないよ」
「私もあんたのお守りはうんざり。私が思い描いていた幸せをあんたがぶち壊してくれたんだもの」

 濃い色の口紅を塗り終えた母が、初めてこちらを向いた。今年四十歳を迎える母の化粧は年々濃くなっていると感じる。

「お母さんは娘より男が大事なんだよね。私があんな目に遭ったのに、私の心配じゃなくて自分がお父さんに捨てられないかを心配してた。今も男がいればそれでいいんだ」
「悪い? 私は子どもを産んでも女を諦めたくないの。学校辞めたいなら好きにしなさい。学費が浮いてこっちは助かるから」

 昔はもっと勉強しなさいと光を叱責していた母親の発言とは思えない。結局この女の人生の軸は、男と贅沢な暮らしなのだ。

子どもは自分の承認欲求を満たすための道具。周りのママ友に優越感を感じたいがために、光をエリートに育てようとしていただけ。
その必要もない今は、光が学校を辞めようとエリートコースを外れようと、どうでもいいと思っている。

「じゃあ、どうして産んだの?」

何のために産まれてきたの?
答えてよ、お母さん……。

        *

 真っ赤に染まるひとりきりの部屋。彼女は窓辺に寄りかかり、眠る太陽に目を細めた。
手元のスマートフォンが振動する。画面を見るとトークアプリの新着通知、ジョーカーからの返信だった。


[どこの刑事?]


相変わらずの一行返信に笑えてきたのは、変わらないジョーカーの対応に安堵したからかもしれない。


[警視庁。名前は神田美夜]


 メッセージに既読はついても、返信はそれっきり来なくなった。向こうの既読スルーもいつものこと。

 頭からぬるめのシャワーを浴びた時、産まれた瞬間もこんな気持ちだったのかと記憶のない18年前を追想する。
生まれたての赤ん坊は皆、母親の血まみれだ。

「じゃあどうして産んだの?」と問いかけても母は答えない。
母はもういない。……もう、いない。

 闇に沈んだ部屋に背を向け、二つのスマートフォンを携えて四号棟を後にする。向かう先は六号棟。
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