お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
プロローグ
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 みりんと醤油、それに生姜を煮詰めるいい香りが鍋の中から漂ってくる。
 ああ、和食を作ってるんだなあと感じながら沙織は立ち上る湯気から外へと視線を移す。
 途端、キッチンという至極普通の風景から一面に広がる夜景が見えて、やっぱり最後まで慣れなかったなあと心の中でぼやく。

 場所は港区、豊洲にほど近いハイグレードマンションの最上階。
 ワンフロアぶち抜きの部屋の中でも、一番面積があるリビングに置かれたカウンターキッチンの中からの眺め。

 産まれてからつい去年まで、いかにも京都といった和風建築や竹林に囲まれ育ってきた沙織にとって、二十四時間消えることのないビルの群れを見下ろし、飛び立つ飛行機の尾翼灯が流れ星のように行き来する東京の空に加え、外部からの騒音を一切許さない完璧な防音仕様の部屋の中はどこか異世界じみていて、なんだかやっぱりしっくり来ない。

 きらめく夜景は美しいが、十月も半ばだというのにまるで秋の気配が読み取れないのが少し困る。

(今の季節ですと、やはり竹林で笹が擦れる音に虫の音色あたりでしょうか)

 京都の実家を思い出しつつ、鍋にブリの切り身をそっと入れた。

 もう少ししたら、雪が降って静かになるのだが、それだってこの東京の嫁いできた家では静けさがまるで違うだろう。
 なんだかこの近代的なマンションの、全体が平らに引き延ばされた金属みたいな鋭く冷たい静寂と、京都の実家の冬にある、雪の降り積もるしんとした静けさは異種のものに思える。

 たぶん、自分たちの結婚もそのようなものだろう。
 静寂という大雑把さでくくられていながら、都会の静けさと嵐山の奥まったところにある実家、御所頭(ごしょがしら)家の静けさが違うように、自分と夫――守頭(しゅとう)瑛士(えいじ)も、結婚という大雑把さでくくられてはいるものの、その有りようはまるで違う。

「今更、気にしても仕方がないことですけれど」

 鍋から立ち上る湯気を溜息で散らすと、沸騰した煮汁の中でブリがちょうど良く色づいていた。

「煮魚はこんなものですかね。お味噌汁は……と」

 隣の小さめのコンロを見れば、弱火にした鍋の中で豆腐とわかめがゆっくりと踊っている。こちらもいい塩梅だ。

(旦那様んが好きな煮込みハンバーグは冷蔵庫の中、肉じゃがと彩りに野菜を入れた卵焼きにほうれん草のおひたしも入ってる。……お味噌は出汁で練って味噌玉にして冷蔵庫に入れてありますし、カボチャなんかの具材に名残のお茄子も切って冷凍済み)

 うん、これなら一週間か十日ぐらいは、瑛士一人でも帰ってきて温めれば食べられるだろう。
 その間に新しく妻か家政婦を見つければ、問題はなにもない。

 我ながら今日は頑張った。沢山料理を作ったし、掃除も洗濯もいつも以上に気合いをいれて、ワイシャツは全部アイロンがけしてクローゼットの中だ。

(すぐ切らさないようにトイレットペーパーなんかも補充済み。掃除機のゴミも捨てて綺麗にしたし)

 これ以上、手を入れる処はない。と結論を出しかけた沙織はそこで苦笑する。

 夫婦の寝室だけは、結婚した日以来、一度も入ってない。
 胸を高鳴らせつつ夫を待ち、だが事などまったくないまま、一人ベッドで眠った初夜以外、一歩だって入っていない。
 書斎ですら、週に一度は掃除に入らせて頂いていたのに。と。

「まあ、お飾りの妻、人形妻なのですからそれも当然でしょうが」

 守頭と沙織の結婚について、社交界でそう噂されているのは知っている。が、別になんとも思わない。事実自分たちは利害関係だけで籍を入れた夫婦なのだから。

 味噌汁の火を止め、沙織は着物の上に纏っていた白い割烹着を脱いで畳んで、洗濯に出しかけ、ふと手をとめ畳んで、それを手提げの中へと入れる。
 考え事をしながら盛り付けたブリの煮物やお新香にラップをかけ、味噌汁は温めてお召し上がりくださいのメモを添えてテーブルの上。
 キャリーバッグは二度も確認して荷造りした上で玄関の横。

「あとは、旦那様の帰りを待つだけですね」

 うん、とうなずいて玄関前へと移動する。
 小さな段差を挟んでフローリングと大理石の床を隔てる玄関には、不似合いなほど豪華な絨毯が置かれていて、膝を落として正座した沙織の足を柔らかく受け止める。

 そうしてぼうっと扉を見ていると、まるで測ったようにドアが開いて一人の男が姿を現す。
 守頭瑛士、沙織の夫だ。

 相変わらずの美丈夫ですこと。と、さらりとした焦げ茶の髪や秀でた額、なによりやや伏せがちでまつげが影を落とす、切れ長の目元などを見て思う。

 結婚当初は、こんな美丈夫な方と結婚してよいのかしらとときめいたものだが、一緒に出歩くどころか、まったく生活の折り合わない日々を繰り返すうちに、ほとんど心が動かなくなった。

 けれど、これが最後だと思うと、なんだか妙に感慨深い。

「旦那様」

 できればお写真の一枚も取って置きたかったと思いつつ、沙織はいつものように正座した自分の膝の前に三つ指をついて頭を下げる。
 おかえりなさいませ、といつもなら言うはずの唇から漏れた台詞は、今日のために考えに考え抜いた離縁の言葉。


「本日をもって、人妻終了させていただきます!」

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