お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
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 しまった。お帰りなさいませ旦那様が先だった。と気付いて、思わず手を口に当ててみれば、目の前で瑛士がぽかんと口を開けて沙織を見ていた。

 他の人がすれば間抜けな表情だろうに、この男だとそれさえも格好いいと思えてしまうのは妻の欲目だろうか、あるいは美形の特典なのか。
 そう考えつつ沙織は瑛士の顔をじっと見詰め返す。

 緩く波打つ焦げ茶の髪をビジネスマンらしくきっちりと後ろへ流した頭。
 それでも仕事終わりでヘアスタイルが乱れたのか、一筋、二筋の髪が形の良い額にかかっているのが、なんとも悩ましげ。

 朝はいつだって鋭くくっきりとした目も、疲れているのか、どこか物憂げに閉ざしがちとなっていて、それがまた得も言えぬ色気を出している。
 鼻筋が通っているのはもちろん、唇だって凜々しく引き締まっていて格好いい。

 難点といえば一般的な男性に比べて線の柔らかい輪郭だが、それだって目と眉がはっきりしているのを和らげ、厳しくなりがちな表情を和らげ、人好きのする顔に仕立てる役者となっていて。

 総合してとてもイケメンだ。

(あら、私ったら、イケメンなんて言葉を使うなんて)

 最近テレビで見知った美形を言い換えた単語を使えたことが嬉しいのと、そんなことを知ったと知れたら、実家の父が卒倒するだろうと思うと、なんだか可笑しくなって、ついふわりと微笑んでしまう。

 だが笑っている場合ではない。
 言うべきことは伝えた。あとは荷物を持って出ていくだけだ。

 よいしょ、と内心でかけ声をかけつつ正座から流れるように立ち上がる。こういう時、日舞と茶道を習わされていてよかったと思う。そうでなければ、緊張で膝が揺らいでしまったろうから。

「それでは、ごきげんよう。元旦那様。離婚届はテーブルの上にございますので」

 と伝え、玄関にあらかじめ用意していたキャリーバッグに手を伸ばす。

 当面の宿泊先であるマンスリーホテルのチェックイン時間もそろそろ終わりに近い。急いで外に出てタクシーを捕まえなければ。などと、考えていられたのもそこまでだった。

 あと三センチでキャリーバッグのハンドルに指が触れるというその時、唐突に元夫――いや、まだ離婚届を出してないから夫なのか――の守頭瑛士が沙織の手首を掴む。
 普段着にしている、ミルクティーのような胡桃染色(くるみぞめいろ)をした結城紬の袖が揺れ、自分の手首が掴まれているのを見て沙織は目を瞬かす。

「あ、晩ごはんでしたら、一週間分作り置きがあります。温め方はメモ通りに。それとも、離婚届に不備がないかご心配でしょうか?」

 それでしたら、知り合いのまた知り合いの弁護士に確認し、問題ないと太鼓判いただいておりますので。と続けようとした時だ。

「違う、そうじゃない」
「でしたら、ええと。洗濯物は全部終わっております。寝室の分は除いてですが」

 さすがに妻とはいえ、旦那が最も無防備になるプライベート空間に足を踏み入れるのははばかれる。それも伝えたようがいいだろうかと小首を傾げた時だ。

「なんで、君と離婚しなければならない」
「なんで、離婚してはいけないのでしょうか?」

 考えるより先に反する台詞が出てきて、あら、と目を大きくすれば、守頭は額に手をあてて、大きく溜息を吐いた。

「君は、この結婚をなんだと思っているんだ」

 言われ、沙織は今度こそ、内心で台詞を吟味して続けた。
 ――それはもちろん、借金のカタでございますでしょう? と。

※※※

 そもそもの話。

 沙織の実家である御所頭家と言えば、京都どころか関西でも知る人が知る旧家で、ちょっと前の明治維新(古い家柄の人は、御一新の一言ですませるが)の折も、伯爵だか公爵だかの爵位持ち。

 それよりさらに昔の平安だか室町時代に遡れば、右近のなんちゃらかんちゃらで、皇族の住まう御所を警護する任にあたっていたとかで、だから名前が御所をお守りする頭。御所頭と名字を頂いたなどと、亡き祖父が語っていた。

 今を生きる沙織にとっては、なんだか眉唾だなあ。と思う話ではあるが、先祖が信じて居たなら、そうなのだろう。

 ともあれ、御所頭家は新たな名字を名乗りだした当初こそ、財閥とはいかないまでもそこらの小金持ちよりだいぶいい暮らしをしていたし、資産もたんとあったらしい。

 ところが、昭和に入って祖父の代あたりから、下落していく円の価値を危ぶんだのか、あるいはたんにバブルという世相もあってか、固定資産を担保に投資にのめり込みだした。

 最初は、あれよあれよに資産が増えて、札束の風呂に入れるとか、タバコを吸う時に一万円札を燃やしていた(なんてバチあたりな!)とかで、調子よくいっていたが、世の中の例に漏れず、バブルが弾けた時に、御所頭家の資産もパチンと弾けて消えた。
 膨大にあった土地や山は、今や高級リゾートホテルと、湯豆腐屋になっていて、そこが御所頭の土地であったことさえ忘れられている始末。

 だったら、残った資産を手堅く運用して、地味に暮らしていけばいいのに、祖父の代の豪遊が忘れられないのか、それとも先祖に顔向けできないと嘆いたのか、沙織の父までもが投資にはまった。

 それで上手くいけばいいが、戦後最長と呼ばれる不況の最中、簡単に資産が増える訳もない。 まるで砂山を崩す遊びのように、手元に残った資産もじわりじわりと削られていった。

 たまに増えることがあるが、そのほうが重症で、増えたのだからもっと行けるはずと、倍ぐらい投資して消してしまう。
 そんなことを繰り返しているうちに、いよいよ最後の土地も担保に入って、家と、その周りにある小さな畑ぐらいしか残らなくなる。

 いよいよ地味に堅実に生きる時が来たと目を覚ませばいいのに、父は、外聞が悪いとか、沙織は旧家の娘らしく育てるべしとの信条の元、借金してまで身の丈に合わぬ名門私立小中高へと通わせた。しかも黒塗りの外国車で。

 それも卒業し、女に学問は必要ないと言われ、やれやれ、これで浪費も終わるかとひと息ついた頃だった。
 得体の知れない黒スーツの男が度々御所頭家を訪ねるようになって、そうして、いい投資話だとかそんなことを父に吹き込んで――土地もお金もほとんど失ってしまい、残ったのは山奥にある和風建築の実家とそれに付随する倉が三つのみ。
 一年は食っていけるが、それから先はというとまるで収入の目処が立たない。

 ならば、家を売ればいいと言われるだろうが、嵐山の奥にある年代ものという以外さしたる価値のない、明治に改築してしまったため、微妙になんとか文化財にもなれない、観光名所や旅館にすることもできない、大きいばかりの古い家を誰が大金はたいて買うだろうか。

 沙織からすれば、売却する手間がかかるからくだんの詐欺師に手を出されなかっただけで、価値があるならいっとう先に売られたに違いないと思う。

 大きな倉も、そこにしまい込まれている家財も同様で、売るに売れない、買い手がつかないから、手元に残っているというのが正しい。

 とはいえ早く収入の目処をつけなければ、沙織たち家族はともかく、運転手や家政婦、執事などの古くからいる使用人たちにまで迷惑がかかってしまう。
 そう考え、倉の中にある骨董品のいくつかに目星をつけ、売って、それを元手に手堅く商売すべきだと主張したものの、女になにがわかると父に一蹴されたあげく、見合いをしろと命じられた。
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