【手直し中】野いちご源氏物語 〇二 帚木(ははきぎ)
恋愛博士と一緒に、もうひとりこの場に加わった若者がいたわよね。この人はちょっと大人しい人なのかしら、ずっと黙って話を聞いていただけだったの。
それで頭中将が、
「あなたにもおもしろい思い出話があるでしょう。聞かせてくださいよ」
と水を向けてごらんになった。
「私のような身分の低い者には、お聞かせするような話はございません」
控えめに遠慮なさる若者に、
「さぁ、せっかくだから。早く早く」
と重ねてせがまれる。
何をお話ししたらよいかしばらく考えて、若者はやっと口を開いた。
「私がまだ学生だったころの話でございます。とても賢い女性に出会いました。
政治の話もできますし、普段の生活についての助言もしてくれる人でした。そこらの学者にも負けないほどの知識があったのでございます。
その女性は、私が学問を教えてもらうために通っていた学者の娘でした。娘がたくさんいると聞いて、そのうちのひとりにちょっと声をかけてみたのです。それに気づいた父親が、娘と結婚するよう催促してきました。約束のための酒を杯に注いで、『貧しい家の娘ですが、あなたと結婚すれば謙虚なよい妻としてお仕えしますでしょう』と申します。
私は乗り気ではなかったのですが、父親の気持ちを考えるとはっきりとは断れず、うやむやにしたまま通っておりました。娘はとても真剣に私の世話をしてくれました。ためになる話や、朝廷で働くときの心構えなどを、寝室でもするのです。
手紙もそうでした。女性の手紙はひらがなで書いてあるのがふつうですが、その娘はひらがなを使いません。すべて堅苦しい漢字です。男性が書いた書類みたいな手紙を送ってくるのでございます。
そうなると私も背筋が伸びるような気持ちになって、彼女のところに頻繁に通うようになりました。まるで先生と生徒のようでございました。おかげで私は中国の詩なども少しは作れるようになりましたので、いまだにそのことは感謝しております。しかし、彼女といても心が安らぎませんでした。知識が浅い私は、恥をかくことを恐れてはらはらしどおしだったのです。
皆様のようなご身分の高い方々には、こんなふうに教え導こうと世話を焼く女性はご不要でございましょうね。私の場合は、恋人が自分より賢いのは悔しいと思う一方で、妙に気に入るところもあり、なんとなく運命を感じて離れなかったのです。男など他愛ないものでございます」
「なかなかおもしろそうな女性ではないか」
頭中将が続きを促される。
若者は案外うれしそうに続けた。
「ひさしぶりに訪ねていったときのことでございます。何かのついでに立ち寄ったのですが、いつもとは違うぎくしゃくした様子で、ついたての向こうに隠れているのです。『長く顔を見せなかったので怒っているのだろうか、それならば別れを切り出すよい機会かもしれない』と思いましたが、彼女はそんな子どもっぽい嫉妬をする人ではありません。何ごとも感情ではなく、論理で考える人でございますから。
彼女は堅苦しい口調で、『重症の風邪のため、治療薬としてにんにくを服用いたしました。悪臭により対面いたしかねます。御用がございましたらついたて越しに承ります』と言うのです。私は何も言葉が出てこず、かろうじて『その旨承知いたしました』とだけ言って帰ろうとしました。
すると彼女は慌てたのでしょう、『悪臭が消散いたしましたころ、またご訪問くださいませ』と高らかに言います。
返事をしないのも気の毒ですが、とにかく臭いがきつすぎて早く帰りたかったのです。私は立ち上がりながら、『にんにくのせいにして私を追い返そうとするとは』と皮肉を言ってやりました。すると彼女は、『あなた様がもっと頻繁にお越しになって、気安い関係になっておりましたら、にんにくの臭いなど気にせずお迎えいたしましたけれど』と皮肉で返してきたのです。本当に頭の回転が速い人でした」
淡々と話を締めくくった。
どなたもお笑いになる。
「嘘だろう。なんだその話は」
「そんな妙ちくりんな女がこの世にいるものか。恐ろしい鬼の方がまだましではないか」
恋愛博士がつまらなそうに言い、頭中将も、
「もっと色っぽい話になるかと期待していたのに」
とあきれて苦笑いなさる。
「これ以上にめずらしい話はございますまい」
話した本人は開き直っている。
それで頭中将が、
「あなたにもおもしろい思い出話があるでしょう。聞かせてくださいよ」
と水を向けてごらんになった。
「私のような身分の低い者には、お聞かせするような話はございません」
控えめに遠慮なさる若者に、
「さぁ、せっかくだから。早く早く」
と重ねてせがまれる。
何をお話ししたらよいかしばらく考えて、若者はやっと口を開いた。
「私がまだ学生だったころの話でございます。とても賢い女性に出会いました。
政治の話もできますし、普段の生活についての助言もしてくれる人でした。そこらの学者にも負けないほどの知識があったのでございます。
その女性は、私が学問を教えてもらうために通っていた学者の娘でした。娘がたくさんいると聞いて、そのうちのひとりにちょっと声をかけてみたのです。それに気づいた父親が、娘と結婚するよう催促してきました。約束のための酒を杯に注いで、『貧しい家の娘ですが、あなたと結婚すれば謙虚なよい妻としてお仕えしますでしょう』と申します。
私は乗り気ではなかったのですが、父親の気持ちを考えるとはっきりとは断れず、うやむやにしたまま通っておりました。娘はとても真剣に私の世話をしてくれました。ためになる話や、朝廷で働くときの心構えなどを、寝室でもするのです。
手紙もそうでした。女性の手紙はひらがなで書いてあるのがふつうですが、その娘はひらがなを使いません。すべて堅苦しい漢字です。男性が書いた書類みたいな手紙を送ってくるのでございます。
そうなると私も背筋が伸びるような気持ちになって、彼女のところに頻繁に通うようになりました。まるで先生と生徒のようでございました。おかげで私は中国の詩なども少しは作れるようになりましたので、いまだにそのことは感謝しております。しかし、彼女といても心が安らぎませんでした。知識が浅い私は、恥をかくことを恐れてはらはらしどおしだったのです。
皆様のようなご身分の高い方々には、こんなふうに教え導こうと世話を焼く女性はご不要でございましょうね。私の場合は、恋人が自分より賢いのは悔しいと思う一方で、妙に気に入るところもあり、なんとなく運命を感じて離れなかったのです。男など他愛ないものでございます」
「なかなかおもしろそうな女性ではないか」
頭中将が続きを促される。
若者は案外うれしそうに続けた。
「ひさしぶりに訪ねていったときのことでございます。何かのついでに立ち寄ったのですが、いつもとは違うぎくしゃくした様子で、ついたての向こうに隠れているのです。『長く顔を見せなかったので怒っているのだろうか、それならば別れを切り出すよい機会かもしれない』と思いましたが、彼女はそんな子どもっぽい嫉妬をする人ではありません。何ごとも感情ではなく、論理で考える人でございますから。
彼女は堅苦しい口調で、『重症の風邪のため、治療薬としてにんにくを服用いたしました。悪臭により対面いたしかねます。御用がございましたらついたて越しに承ります』と言うのです。私は何も言葉が出てこず、かろうじて『その旨承知いたしました』とだけ言って帰ろうとしました。
すると彼女は慌てたのでしょう、『悪臭が消散いたしましたころ、またご訪問くださいませ』と高らかに言います。
返事をしないのも気の毒ですが、とにかく臭いがきつすぎて早く帰りたかったのです。私は立ち上がりながら、『にんにくのせいにして私を追い返そうとするとは』と皮肉を言ってやりました。すると彼女は、『あなた様がもっと頻繁にお越しになって、気安い関係になっておりましたら、にんにくの臭いなど気にせずお迎えいたしましたけれど』と皮肉で返してきたのです。本当に頭の回転が速い人でした」
淡々と話を締めくくった。
どなたもお笑いになる。
「嘘だろう。なんだその話は」
「そんな妙ちくりんな女がこの世にいるものか。恐ろしい鬼の方がまだましではないか」
恋愛博士がつまらなそうに言い、頭中将も、
「もっと色っぽい話になるかと期待していたのに」
とあきれて苦笑いなさる。
「これ以上にめずらしい話はございますまい」
話した本人は開き直っている。