〜Midnight Eden Sequel〜【Blue Hour】
 顔色を変えたのは宮越だけ。震える足で立ち上がった巨匠は愛弟子に寄りかかるように、彼女の身体を後ろから抱きすくめた。

『綾菜、馬鹿な真似は止めなさい』
「いいえ、先生。私は先生を守る。先生の絵は売れなくてはいけないの。これからもずっと……」

 綾菜の宮越への崇拝に近い感情は、歪んだ正義だ。
その正義は宮越のため? 綾菜自身のため?

 この短い期間に綾菜と交わした言葉の端々から、堀川綾菜は非常に用意周到で合理的な、頭のいい人間だと窺える。

ナイフを隠し持つタイミングは宮越にコーヒーを頼まれた時か。店の鍵を開けて九条を招き入れた時点では、まだ彼女はナイフを所持していなかった。

 綾菜が最初から九条を殺すつもりなら九条が店に入った時、キスをせがむフリをして九条を刺していた。
無論、その可能性を想定して九条も身構えていた。女の誘惑に気を取られて、むざむざと殺されるつもりは毛頭ない。

「ねぇ、九条さん。二階堂が死んでも誰も悲しんでいないじゃない。それよりも先生が芸術界からいなくなることの方が、この国の損害よ」
『ひとりの人間の命よりも宮越さんの存在の方が重たいと?』
「二階堂の命に価値なんてない。皆、二階堂に迷惑していたから、いなくなってくれてせいせいしたはず。でも宮越先生は違う。先生の存在には価値がある」

 残念ながら綾菜の言うように、二階堂の周辺人物の間には二階堂がこの世を去ったことによる安堵の空気が流れている。

二階堂に恐喝されていた者、セクハラやストーカー行為を受けていた者は苦しみから解放され、二階堂の死に涙を流す人間など誰ひとりいなかった。

『どんなに迷惑な人間でも殺していい理由にはならないし、人の命に優劣はつけられない。君と宮越さんがしたことは紛れもなく犯罪だ。俺は絶対に殺人を肯定しない』
「ずいぶん冷たいのね。私と過去の女が似ているんじゃなかったの?」
『似ていないよ。アイツと君は違う。それにどんなに外見が似ている人間でも、結局は別人だ。……宮越さんがサキ子さんをいつまでも見つけられないようにね』


 ──“九条くんは太陽の下を歩いている人だもの。だから平和主義で呑気な綺麗事を平気で言える。九条くんは本気で誰かを憎んだことも、誰かを殺したいと思ったこともないでしょう?”──


 忘れられない女の言葉が心を駆ける。綺麗事やお人好しなだけでは誰も救えないと弱気になった九条に対して、“彼女”は正義とは何かを思い出させてくれた。


 ──“だけど綺麗事を吐き続けるお人好しに救われてる人もいる。私もお人好しでお節介な九条くんの綺麗事に救われてるよ。あなたがバディで良かったと思ってる”──


 どんな理由があっても人を殺してはいけない。綺麗事だと笑われてもいい、お人好しと罵《ののし》られてもいい。
お人好しな九条の綺麗事で、ひとりでも救われる人がいるのなら。

そして“彼女”の太陽で居続けるためにも、九条は殺人を認めない。認めてはいけない。
それが九条が貫く、彼の正義だから。
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