夏の序曲

第22話 コンクール前日

コンクール前日、ブラスバンド部員たちは多目的ホールに集まっていた。普段は練習に使うことのないこのホールだが、コンクール直前の特別な時期だけは、ここでの練習が許されていた。
ステージへの入場、パーカッションのセッティング、演奏、退場、楽器の撤去までの流れを確認するため、部員たちは全員集中した面持ちでスタンバイしている。
ステージには椅子と譜面台が整然と配置され、部員たちはそれぞれ楽器と譜面を手に準備を整えていた。

「入場!」
木村部長の掛け声で、ステージ横に並んでいた部員たちが一列になって静かに入場を開始する。パーカッション担当の部員は、事前に決めた配置通りに楽器をセッティングする。その一連の動きには、普段の練習では味わえない独特の緊張感が漂っていた。

指揮台に向かって歩を進める田嶋先生の足音がホールに静かに響いた。
誰もいない観客席に向かって一礼した後、田嶋先生は指揮台に立ち、ステージ全体を見渡す。その視線が部員一人ひとりに向けられると、全員の緊張感がさらに高まった。
「それでは、アパラチアン序曲を通してみよう。本番のつもりで。」
落ち着いた声がホールに響く。部員たちは深呼吸をし、それぞれの楽器を構えた。
指揮棒が振り下ろされると、華やかなトランペットのファンファーレがホールに広がった。それに続くホルンとユーフォニアムの主題が力強く演奏され、曲の躍動感を一層際立たせる。
トランペットの悠斗は、緊張しながらも、自分のパートに集中した。指の動きや音の響きを確認しながら、これまでの練習で体に染み込ませた感覚を信じる。隣では錬のトロンボーンが低音をしっかりと支え、二人の音の響きは安定したハーモニーを奏でていた。
中間部の繊細なフルートソロに移ると、部員たち全員が宮原結衣の音に耳を傾ける。彼女の柔らかな音色が曲全体を包み込み、ホールに緊張感の中にも穏やかな空気をもたらした。
最後のクライマックス。金管と木管、そして打楽器が一体となって壮大な音の波を作り出す。
曲の最後の一音が消え、静寂がホールを満たすと、田嶋先生が指揮棒を下ろした。

「いい演奏だった。あとは、本番でこれまでの練習で身につけたものを出すだけだ。自信を持っていこう。」
田嶋先生の言葉に、部員たちは小さく頷き、張り詰めていた空気が少し和らいだ。
悠斗もまた、軽く息を吐き、これまでの努力が形になりつつあることを実感していた。

退場を終えた後、片付けに追われる部員たちの中で、田嶋先生が木村部長を呼び止めた。
「木村、少し来てくれ。」
木村は神妙な顔で頷き、田嶋先生の後をついていく。二人はステージの隅に移動し、話を始めた。
「何話してるんだろうな。」悠斗が片付けながら小声で錬に言う。
「さあな。」錬も軽く肩をすくめるが、その視線は田嶋と木村に向けられている。
二人の会話は距離があって聞こえないが、田嶋先生が時折厳しそうに頷きながら、木村に何かを話しているのが見える。木村は真剣に聞き入っているようだが、微妙な表情を浮かべていた。やがて、田嶋先生は一言何かを言い、軽く木村の肩を叩いてその場を去った。
木村はため息をつきながらステージから降りてきた。その表情は、どこか困惑と苦笑いが混じったものだった。

「部長、何か話してたんですか?」
悠斗が声をかけると、木村は肩をすくめて苦笑いを浮かべた。
「表情が硬いって。本番は、これより緊張するから、本番の緊張を和らげるために何かした方がいい、といわれたのよ。例えば、チューニング室で気勢をあげるとか。」
「気勢を上げる?田島先生がそう言ったの?」悠斗は首をかしげる。
「そう、チューニング室で『気合入れていこう!』みたいな感じで、全員を鼓舞するってこと。」
木村は説明しながら、少し困ったような表情を浮かべた。

その言葉を聞いて、錬の目が輝いた。
「それ、俺に任せろよ!」
木村と悠斗は一瞬驚いた顔をして、錬を見つめた。
「お前に?」悠斗が慎重に尋ねる。
「そうだよ!俺そういうの得意だし、盛り上げるのは任せとけ!」
錬は自信満々に胸を叩いてみせた。
木村は一瞬考え込むような素振りを見せたが、すぐにふっと笑った。
「確かに、錬なら部のみんなもついてきそうね。よし、リード役はお願いするわ。」
「おお、さすが部長!」錬は満面の笑みを浮かべながら、拳を握りしめた。
「ただし、ふざけすぎて逆に緊張感を壊さないでよ?」
木村は念を押しながらも、どこか安心したような表情を浮かべている。
「任せとけって!」錬は明るく応じると、楽器ケースを片付け始めた。
悠斗はそんなやり取りを見ながら、笑いをこらえるようにして言った。
「まあ、錬が仕切るなら、みんな笑顔で本番に臨めるかもな。」
「それでいいんだよ!」錬が豪快に笑う声が、多目的ホールに響き渡った。
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