あなたが涙をこぼすから
「別れてほしい。ごめん」
 芳玉華月(よしたま かづき)は恋人である薄野俊太(すすきの しゅんた)の一言を理解するのに、しばらく時間がかかった。

 喫茶店のBGMも喧騒もいっきに遠ざかり、耳はすべての音を右から左へと通過させるだけの空洞になり果てる。
 テーブルの向かいに座る彼は気まずそうにコーヒーを飲み、華月はその姿をぼんやりと見つめる。

 別れの予兆なんてなかった。
 昨日まではいつも通りに仲良く過ごしていたのに、どうしていきなり。
 そうして昨日を思い出し、華月は声を上げて笑い出した。

「なんだよ急に」
 彼は引き気味につぶやくが、
「だって、おかしくって!」
 彼女はさらに大きな声を上げて、あはははは! と笑う。
 店の人の目が集まるが、気にする余裕などなかった。

 昨日の日曜日は俊太の三十歳の誕生日で、二十九歳の自分とは一歳差になった。
 華月の部屋に招き、お昼に料理を振る舞い、手作りケーキを一緒に食べた。

 プレゼントは俊太が欲しがっていたブランドの財布だ。
 カードが何枚入ってこの形で……でもちょっと高いんだよな、と彼が買うのをためらっていたのを見たから、奮発したのだ。財布——しかも他人の——に十万円を出すなんて初めてのことだ。

 だけど一年つきあった彼とは結婚を考えていたし、喜ぶ顔を見たくてプレゼントした。
 俊太はすごく喜んでくれて、絶対に大事に使うから、と華月を抱きしめてくれた。
 なのに、翌日の夜にはもう別れ話。
 欲しいものを手に入れたから用済みだと言わんばかりだ。
 そんなこと、笑わずにはいられない。

「二股でもしてたの?」
 華月の問いに、俊太の顔がひきつった。
 本当に浮気してたんだ、と彼女は悟った。

「サイテーね」
 華月はさらに笑った。
 昨日は夕方から用事があると言って帰ったが、浮気相手と会っていたのだろう。

「笑うな!」
「笑うに決まってるじゃん、こんなの! あはははは!」
 滑稽だ。乗り換えの予定が決まっている男に結婚を夢見て尽くして高額なプレゼントをするなんて。

「で、次の女にはなにを買ってもらうの? バッグ? 車?」
「彼女はそんなんじゃない! 部長の娘で、俺の大事な人だ」

「へえ……将来を買ってもらうんだ」
「やめろよ、最後にみっともない姿を見せるなよ。きれいに別れてきれいな思い出だけにしようぜ」

「は! なんて自分勝手なの!」
 華月は吐き捨てた。
「もういいわ、クズになに言っても一銭の得にもならないし。お財布、せいぜい大切に使ってよね」
 彼女は伝票を手に取り立ち上がる。財布だったのは自分かもしれない、と思いながら。

「ここはおごってあげるわ。せいぜい女にたかってなさい」
 嫌味を言ってコートを羽織り、会計を済ませて店を出る。
 冷たい空気に身を縮め、華月は駅とは反対の方向へ歩き始めた。



 川べりに来ると空気が一段と冷えていて、華月はぶるっと身体を震わせた。
 遊歩道のベンチに腰掛け、ため息をつく。白い塊が生まれ、はかなく消えた。

 俊太との出会いは一年前、会社の同僚としてだった。
 営業として異動してきた彼に事務としてサポートして来た。彼は気さくで、すぐに仲良くなった。
 日頃のお礼がしたいと食事に誘われ、そのときに告白されてつきあうことになった。

 会社のみんなには秘密の交際だった。
 スラックでのふたりだけのやりとりや、会社から離れた場所での待ち合わせ、バレたらいけないというスリルと、公認ではないさみしさ。

 ああ、もう……。
 なんのために秘密にしていたのか。浮気をしやすくするためなのか。だったら浮気相手は会社にいるのか。いや、部長の娘と言っていたから部長に知られたくなかったのか。交際はいつからなのだろう。
 せめて、自分が先なのだと思いたい。自分こそが浮気相手で、なにも知らずに利用されていたのだとしたら情けなさすぎる。

「十万円あれば、あれもこれも買えたのに……」
 ふふ、と笑うと同時に涙がこぼれた。
 泣きたくないに、一度こぼれたそれは次々とあふれ、とどまることをしらない。

「うう……」
 涙は嗚咽を連れてきて華月の胸を痛くする。

「芳玉さん?」
 呼びかけに顔を上げると、知らない男性がいた。
 外灯の薄暗い光の下、夜の化身のように妖艶だった。

 斜めに分けられた黒髪は艶やかで、背の高い細身にシャドウストライプの入った濃紺のスーツが似合っている。悪魔的に優しいまなざしを携えた顔は均整がとれていて、こんなときだというのに見惚れてしまった。

 夜が現れた、と思った。
 都会の嘘臭い明るい夜じゃない、闇にあふれた真正の夜。

「どうぞお使いください」
 彼はポケットから白いハンカチを取り出すと、彼女に差し出した。
「ありがとう。大丈夫です」
 彼に断り、自分のバッグからハンカチを取り出して涙を拭った。

「なにがあったんですか」
 男は隣に座り、心配そうに尋ねてくる。
「大丈夫ですから」
「放っておけません。変な男に絡まれでもしたら……あ、俺が変だと思われてます!?」
 男は慌てたように身体を離した。

 華月はくすっと笑い、その拍子に目尻から涙がこぼれた。

「覚えてないかもしれませんが、俺はあなたに恩があるんです」
 男性の言葉に華月は首をかしげる。

「先月、喫茶店で傘を忘れたんです。あなたが追いかけて渡してくれて……あなたは会社の同僚らしき人に芳玉さんと呼ばれていて、だから名前を知ってました」
 言われて、思い出した。
 その日、朝はどしゃぶりだったが午後はきれいに晴れていた。
 遅めのランチをいただいた喫茶店で、彼はあとから入ってきた。持ち手がステッキみたいで珍しい、と見ていたから印象に残っていた。だから忘れたことにもすぐに気がついて追いかけることができた。

「あのときの……」
「覚えていてくれたんですね」
 彼はにこっと笑う。

「お礼を断って去っていくあなたを素敵だと思ってました。そんなあなたが泣いているなんて、気になって仕方がありません。なにがあったんですか?」
「……大丈夫です」
「大丈夫だったら泣いてないんじゃないですか? 知らない人間だからこそ話せる、そんなこともあるんじゃないですか?」
 言われて、また涙があふれた。

 男性にそんな優しいことを言われたのは久しぶりだった。
 つきあっていた彼は最初こそ優しかったが、すぐにそれは消えた。

 楽しく笑わせてくれることもあったが、彼女に甘えることのほうが多かった。ありがとう、うれしい、と喜んでくれたからそれでいいと思っていたが、振り返ってみれば、彼が華月のためにしてくれたことはどれくらいあっただろうか。

 最近はいつも華月の家でデート。ごはんは彼女が作ってかたづけも華月。風呂に入っても掃除なんてしてくれたことはない。一緒にいてもスマホゲームばかり。今しかやってないイベントだからと言うが、四六時中イベントが開催されているから華月は常に放っておかれた。半年以上も体の関係もない状態で、なけなしの情を集めて必死に彼は恋人だと自分に言い聞かせていた気がする。

 つまるところ、とっくに恋は冷めていて、愛があったかあやふやだ。なのにどうしてこんなに涙が生まれるのだろう。
「私、失恋したんです。一年つきあってた彼にふられて」
「その男は見る目がないですね」
 驚愕と憤りの混じった口調に華月は苦笑する。

「見る目がないのは私です。二股されていたみたいなのに、ぜんぜん気づいてなくて」
「二股! 許せないな……」
 男が怒りを見せたので、彼女はまた苦笑した。

「部長の娘さんだそうです。彼女は知ってるのかどうかわかりません。知らないならかわいそう……」
「教えてあげるのですか?」

「でも、私から言うのは嫉妬しているだけに見られそうで……部長ににらまれるのも怖いですし、娘さんなんて会ったこともないので難しいです」
「そうですね。もし伝えて娘さんにふられたとなると、よりを戻そうとしてくるかもしれない。そんな厄介を背負い込むよりは、放っておいたほうが正解ですね」
 男は自分の言葉に頷く。

「そんな奴のために泣く必要なんてないですが……でも、泣けるときには思い切り泣いたほうがいいですよ」
「優しくしないでください」
 これ以上、みっともない泣き顔を他人に、ましてやこんなイケメンに見せたくはない。

「我慢しないでいいんですよ。ここには俺しかいないんで」
 言われると、もうこらえきれなかった。嗚咽をもらしながら涙をこぼす。

「私のなにがだめだったの? なんで私とつきあったの? なんで……」
 顔を両手で覆うと、ふわりと肩を抱かれた。
「あなたはだめじゃない。悪いのはその男だ。自分を責めないで。あなたはすごく魅力的だ」
「嘘よ」
「本当ですよ。こっちを見て」
 顔を向けると、優しい微笑があった。

「涙に濡れた瞳が美しい。これほど泣き顔が美しい人には出会ったことがない」
「やめてください」
 顔をそらすと顎に手を当てられて、そっと彼のほうへ向かされた。

「あなたは世界で一番美しい。さしずめ朝露に濡れた咲きかけの薔薇。心を誘う美だ。誰にも渡さず俺の手で花開かせたい」
 彼女は喜びと悲しみに目を細めた。
 こんな言葉、俊太はくれなかった。優しいね、とは言ってくれたが、心を溶かすような言葉をくれた覚えは記憶にない。

 彼を見つめ返すと、彼の瞳の奥で輝きが妖しく揺れた。が、その暗い妖光にこそ魅了される。
 まるで月のない夜のようだ、と華月は思う。
 闇は怖いのに、同時に安らぎがある。闇の神秘を覗いてみたい興奮を覚え、様々な感情をゆさぶり、感傷と酩酊が入り混じる。

 彼の両手が、ほころんだ薔薇を包むように優しく彼女の頬を包み、ゆっくりと彼の顔が近づいてくる。

 キスされる。
 そう思ったのに、逃げる気にはなれなかった。

 目を閉じると、優しく温かい感触が目元にふれる。唇が涙をすくい、舌が優しく撫でる。
 彼の唇は涙をたどるように頬をなぞって華月の唇に到達する。

 舌がそっと彼女の中に入り、彼女を撫でる。
 やわらかで温かかった。痛みに震える心を慰めるように、彼の舌は華月を抱擁する。
 華月はそれに応えるように唇を押し付け、深く彼を受け入れる。
 遠慮がちだった動きはすぐに情熱的になり、彼女をすっかり翻弄する。

 彼の片手は彼女の背に周り、もう一方の手で首筋を撫でられ、華月は甘美に震えた。
 会ったばかりの彼と、こんなキスをすることになるなんて。
 そう思うのに、頭の芯がとろけてしまい、思考が役に立たない。

 ようやく唇が離れたときに見た彼の目は獲物を狙う気配が宿っていた。彼のオスとしての興奮に思えて華月の女性としての自尊心がくすぐられる。
「俺達……つきあいませんか」
 彼女を抱きしめ、彼は言った。

「え?」
「会ったばかりでは信用できないかもしれない。だけど俺はもう、あなたに心を奪われている」
 言葉は真剣そのもので、嘘だと否定することなどできなかった。
 だが、だからといって付き合います、とも言えない。

「すぐには答えられませんよね。ですが、復讐のためにもいかがですか」
「復讐?」
 華月は思わず聞き返す。

「ふった女にすぐに男ができた、そんなのは男からしたらプライドを傷つけられます。せめてもの復讐ですよ」
「そんな理由でつきあうなんて」

「あなたは根っからの善人ですね。美しい上に人柄が良いなんて最高だ」
「……褒め言葉にならない気がします」
 善人だなんて言い方は他人を利用する悪人が使う言葉に思えてならない。
「今のあなたには、そうなのですね」
 彼は少し悲しそうに微笑する。

「ならば……偽装恋人ということでいかがですか」
「偽装ですか」

「私のために、お願いします。あなたを泣かせた男をこのままにしておきたくありません」
「そんな……」

「すぐにお返事できませんか? それも仕方ありません。まずは連絡先を交換しましょう。私は沖之条静久(おきのじょうしずく)です」
 スマホを差し出され、彼女は困惑して彼を見た。そこには邪気のない笑顔をたたえた静久がいる。
 復讐と言いながら、どうして笑顔はこんなに無邪気なんだろう。

「さあ、早く」
 催促されて、彼女はスマホを取り出した。
 結局のところ、自分は押しに弱い。
 こういうところがだめなんだな、と思いながらも華月は連絡先を交換していた。



 翌日の仕事は気詰まりだった。
 彼は今まで以上に他人のふりをして、彼女もまたそうして過ごした。

 休憩時間には同僚と笑い合い、なにごともなかったかのように振舞う。
 交際は秘密にしていたから誰も知らず、だから誰も彼女の失恋を知らない。

 部長の太原義男(たはら よしお)も当然ながら知る由もなく、あなたの娘の恋人は二股野郎ですよ、と言いつけたい気持ちと戦いながら仕事を続ける。果たして部長はこのことを知っているのか……知らないだろう。
 ときおり静久を思い出してはどきっとして、慌てて思考を紛らわせた。
 昨日はいろいろありすぎた。帰ったらゆっくりしよう。

 夕方、もうすぐ終業というときだった。

「なんか外にすごい車が止まってたよ。真っ黒な外車」
「株式会社阿古屋(あこや)の御曹司が来てるらしいよ」
「見た見た、すっごいイケメン! 大事な取引先よね」
「阿古屋って、真珠養殖から始まって今は世界的なジュエリーショップを経営してる会社よね」
「黒薔薇の開発もしてるって」

 同僚が他の同僚ときゃいきゃいと言い合いながら入ってきた。
 御曹司なんて縁がないなあ、と思いながらパソコンの作業に戻ったときだった。

「噂の御曹司だ」
「どうしてここに」
 同僚たちにざわめきが広がる。

 なんとなく振り返り、驚いた。
 入口に昨夜のイケメン、静久がいる。

 濃紺のスーツに流星のようなストライプの入った青いネクタイをしている。明るい中で見る黒髪はよりいっそう艶やかで黒い瞳もまた夜を切り取ったかのように美しい。

 輝く夜が降臨した。
 そんなことを思い、なんて矛盾、とも思うがそれ以外に彼を形容する言葉が思いつかなかった。

 彼は華月と目が合うとにこっと笑い、輝きが増した。
 静久はつかつかと彼女に歩み寄る。
 彼は、なにが起きているのかわからないままにすくむ華月の前に立つ。座っていると、背の高い静久はなおさらそびえるように見えた。
「迎えにきましたよ」
「え?」
 彼は姫にかしずくように華月に跪く。

「デートしましょう」
「えええええええええ!?」
 彼女はただ唖然とした。

「何回も連絡しましたが、返事がないから来てしまいました。もう終業ですよね。太原部長、彼女を連れて行ってもかまいませんか」
「も、もちろんです! 芳玉さん、遠慮なく行ってきなさい」
 慌てたように太原が答える。

「え……」
 華月は言葉をなくした。

 気がつけばフロア中の視線が自分に集まっている。
 女性からは羨望の眼差し、男性からは好奇の眼差し、そして呆然としている元彼の俊太からは嫉妬の混じった眼差し。

 気が付いた瞬間、心は決まった。
「行きましょう」
 言って、彼女は立ち上がった。



 彼に車に乗せられ、向かった先は高級レストランだった。
「一日一組限定ですからゆっくりできますよ。ドレスコードがあるので控室で着替えてきてください」
 押し込まれた部屋には女性が待機していて、問答無用で服を着せ替えられ、メイクを直され、髪を結われた。

 準備が終わると、同じく着替えた彼が部屋まで迎えに来てくれた。
 ドアを開けた瞬間、彼は目を見開き、次いでうっとりと彼女を見つめる。

「やっぱり君は美しい。月の雫とも人魚の涙とも言われる真珠がよく似合う」
「やめてください、恥ずかしい」
 彼女は思わず顔を覆った。
 イヤリングの銀鎖が揺れ、その先の白い粒も揺れた。

 髪飾りもネックレスも真珠が使われており、花手綱(ガーランド)様式の銀の台座にたくさんの真珠がダイヤをお供にして輝いている。
 ワンピースはパールが映える明るいネイビーで、銀糸の花がさわやかに可憐さを演出していた。エレガントに伸びる裾はひきずるほど長いがフロントは斜めにカットされていて銀色のハイヒールが覗き、つま先飾り(トゥキャップ)の真珠が光を浴びてきらりと輝く。

「使われている真珠はオーロラ花珠でオーロラ天女に次ぐ高級品ですよ。これほど粒ぞろいで揃えられるのは流石、沖之条様です」
 女性の言葉に華月は驚く。
 そんな高そうなもの、緊張してしまう。

「彼女には真珠が似合うと思ったからね。予想以上に似合っている。美しい」
 彼は目を細めて眩しそうに言う。
「あなたも素敵です」
 華月が言うと、彼はにっこりと笑った。
 青味を帯びたグレーのスーツはジャストサイズで彼のスタイルの良さを際立たせている。清潔な白いシャツにチャコールグレーのネクタイを締めているが、よく見ると図案化された月が描かれていておしゃれだ。袖口から覗くカフスは華月とおそろいの真珠で銀の花を象られ、セットのタイタックはラペルピン代わりに襟のフラワーホールにつけられていた。

「さあ、行こうか」
 腕を曲げて彼は待つ。
 エスコートだと気が付き、迷った挙げ句に彼の腕に手をそえた。
 彼は満足そうに笑みを見せ、彼女とともに歩きだす。

 フロアについて、彼女は驚いた。
 壁一面を使って印象派の手法の絵が描かれていた。細い月の浮かんだ青い夜の水辺に白い薔薇が咲き誇っている。
 調度は絵画にあわせたのか、アンティークなヨーロッパ調だ。

「嫌いな食べ物やアレルギーはないんですよね?」
 車中でも聞かれたが、再度の質問に彼女は、頷く。
「今日のメニューのテーマは『不完全な夜』だそうです」
 彼はにこやかに言った。

 一日一組限定でドレスコードまであるようなお店に来たのは初めてで、彼女はただドキドキした。
 食前酒(アペリティフ)黒すぐり(ブラックカラント)のリキュールにシャンパンをカクテルしたキール・ロワイヤルだった。細身のフルートグラスに注がれた暗く落ち着いた赤の色味に、炭酸が一筋、泡を上げている。

「君との出会いに乾杯」
 臆面もなく言う彼に、彼女は顔を赤らめた。
 一緒にグラスを掲げてから一口いただく。炭酸が弾けて黒すぐりの甘さを引き立て、さわやかだ。
「強引ですみません。こうでもしないとあなたには会えない気がして」
「はい……」

 強引すぎる。会社に来るだけでもすごいのにフロアにまで来て部長に押し通して。
 そういえば、混乱しすぎてスルーしてしまっていたが、御曹司だと言っていた。部長は取引先の御曹司だから言うことを聞いたのだろう。

「少しでも復讐になったでしょうか?」
「……たぶん。すみません、巻き込んでしまって」

「いいんですよ。素敵なあなたの美しい泣き顔を見られた、それだけで俺は満足だ」
「そんなことおっしゃらないでください」
 彼女はまた顔を赤くしてうつむく。

 食事では、彼は失恋には触れずに明るい話題をふり、華月は楽しいひとときを過ごすことができた。
 食事を終えて店を出ると、彼女はバッグから財布を取り出した。

「おいくらでしたか? 服のレンタル代も教えてください」
「その服はあなたへのプレゼントです。食事代もけっこうです。俺のわがままにつきあってもらっただけなので」

「そんなわけにはいきません!」
「では、代わりにあなたをください」

「え?」
 驚いたときにはもう唇が重なっていた。

 差し込まれた舌によってやわらかな熱が口中に満ち、それが呼び水となって体中が熱くなる。
 やめてと言いたいのに肝心の口は塞がれ、両手はなぜか抵抗の意志を彼に伝えてはくれない。
 たっぷりと彼女を楽しんだのち、彼は唇を離した。
 息を切らせて脱力する彼女を彼は抱きしめる。
「少し、もらいすぎたかな。お釣りはまた後日」
「後日って……」

「復讐は始まったばかりですよ。お楽しみはこれからです」
 彼は華月の額に口付け、頬に口付け、再度、唇を塞ぐ。
 彼女はただ、されるがままに立ち尽くしていた。




 彼に家に送られ、華月はひとり暮らしの自室で大きくため息をついた。
 彼とのキスを思い出し、唇に指を当てる。

「あんなキス……」
 川べりでのときもそうだが、キスだけで体が熱くなるなんて彼が初めてだった。
 そもそも、会ったばかりで付き合ってもないのにキスするなんてこと自体が初めてだ。

「どうしよう……」
 心がどうしようもなくときめいて、彼のことばかりが頭に浮かぶ。

 どうかしてる。ふられたばかりなのに。
 また後日、と言われたということは、また会ってくれるということだろうか。

 会ってしまってもいいのだろうか。
 彼は御曹司で、自分はしがない平社員なのに。
 ドキドキする胸は鼓動を早くするばかりで、正解なんてかけらも見つけられなかった。

***

 なんて素敵な泣き顔だったろうか。
 静久はうっとりと思い出し、ため息をつく。

 彼女が傘を持って追いかけてきてくれたときから気になっていた。
 興信所を使って彼女の勤め先を調べ、行動パターンを把握し、声をかけるチャンスを窺っていた。

 チャンスは唐突に訪れた。
 ただでさえ華月は好みだった。その彼女が泣いている姿を見たときには全身が震えた。

 今すぐ抱き潰したい。
 欲望を必死に抑え、声をかけた。

 彼女が男に振られたと聞いたときには腹が立つとともに格好のチャンスが来た、と運命に感謝した。
 彼女を自分の物にしてみせる。あの綺麗な泣き顔もすべて。

 思い出すだけで、体の奥底で血がたぎる。
 もっと泣き顔が見たい。美しい雫を唇ですくいあげ、彼女の甘美を味わいたい。

 さあ、どうやって泣かせようか。
 彼は密かに笑みを浮かべた。

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