新城社長が愛妻に出会ったころ

1 社長のわがまま

 四月、アメリカの支社から新城(あらき)商事に社長の一人息子が帰ってきた。
 そのひと月前から会社はその噂で持ちきりだったのに、璃子(りこ)が彼を知ったのは彼が現れた当日だった。
 璃子は生まれつき体が弱く、入社したときからテレワークで新城商事に勤めていた。
 派手じゃないけど、真面目な仕事をする子。それに、優しい子。同僚たちはそう言って、璃子を見守ってくれていた。
 だから璃子がそのビッグニュースを知らなかったのは、同僚たちに意地悪されたからじゃなかった。
「ごめんね。私、いつもこうで」
 体調がいいときに同僚の女の子とランチに行くだけで、璃子は今にも泣き出しそうな顔をする子だった。
 学校にもあまり通えなかった璃子は、人と向き合うのが苦手だった。男の人はもっと怖がって、同僚たちはもどかしい思いがしながらも、璃子に浮いた話を向けないようにしていた。
 璃子はその日、四月初日の恒例ビュッフェ会のために会社を訪れた。
 新城商事はアメリカをはじめとする数十ヶ国に支店を置いて輸入食品業を営んでいるが、本社は二十人ほどのアットホームなオフィスだ。従業員同士も家族ぐるみの付き合いで、四月初日は新商品を集めて従業員の子どもたちも呼び、みんなでお昼に試食する。
 けれど毎年、璃子はあいさつをして申し訳程度にビュッフェをつまんで、給湯室にこもることしかできなかった。
 この日を楽しみに待っている子どもたちがたくさんいる。そこに会話もおぼつかない自分がいたら、せっかくのパーティが台無しになると思った。
「おねえちゃん、はい」
「はい、ありがとう」
 毎年、給湯室で子どもたちからお皿やコップをもらって洗う。ほとんど人の顔を見れない璃子だが、子どもたちの弾んだ声を聞くと自分も参加しているようでうれしかった。
 同僚たちもそんな璃子を知っているから、無理に給湯室から連れ出すことはしない。
 お皿ありがとう。おいしかった? うん、スイスのブルーチーズなんだって。わぁ、大人だね。顔を見ずに皿洗いをしながらだから、璃子も少しだけ話ができる。
 そっか、今年は小さい子にも食べられるチーズが入って来たんだ。去年はスイスの酪農農家さんにたくさんメールを送ったから、もしかしたら私の仕事もちょっとは役に立ったかなぁ。
 そう思いながら、はにかんでお皿を拭いていたときのことだった。
三橋(みはし)さん。そろそろ代わるよ」
 背の高い男の人が、数歩先から璃子を呼んだ。
 声に聞き覚えがないから、新入社員かお客さんだろうか。けれど声は二十五歳の璃子より一回りほど年上に感じた。
 璃子は少し青ざめながら言う。
「あ……の、その、ここにいたいんです」
「疲れやすいって聞いたよ。無理しないで」
 耳に響く低い声で、おだやかな声音だった。
 気遣ってもらえたのがうれしいのと、それ以上に申し訳ないのとで、璃子は赤くなったり青くなったりする。
「ほら、顔色が……」
 彼が一歩踏み出して、気がかりそうな声が近づいたとき、璃子はしゃがみこんでいた。
「三橋さん!」
 肩を抱いてがくがく震える。涙が勝手にあふれてきて、ひどく頭が痛い。
 だめと思ったときにはもう遅く、ひきつけを起こして意識を失っていた。
 泥のような意識の底で、璃子は膝を抱えていた。
 せっかくのパーティでなんてことをしてしまったんだろう。どうしよう、どうしよう……。
 いっそこのまま意識など戻らなければと弱いことを考えていたら、何か温かいものに包まれているのに気づいた。
 そっと手を取って引き上げられるようにして、璃子は意識を取り戻す。
「僕が見える?」
 そこは給湯室ではなくて、璃子が定期的にやって来る部屋だった。
 新城商事の本社は基本的にオープンスペースだが、さすがに来客のために別室はある。
「あ……!」
 それが社長室で、璃子は青ざめて起き上がろうとした。
「休んでて。今医者を呼んでもらってるから」
 やんわりと璃子を押しとどめて、誰かが言う。
 璃子は社長室のソファーで、誰かの膝を借りて横になっているようだった。
「ごめんね、おどかして。体が弱いのは聞いてたのに」
 肩にスーツの上着をかけられていて、温かい。でも温かさの正体はスーツだけじゃなくて、彼の声でもある。
 知らない誰かと個室に二人きり。怖くて不安で、けれど包み込むような声音は、璃子に手を差し伸べるような安心を抱かせる。
 璃子がそうっと見上げたとき、彼と目が合った。
 おだやかで、けれど意思の強そうなまなざし。璃子がお父さんのように尊敬している初老の社長と、面差しが似ていた。
「……やっとこっちを見てくれた」
 けれど社長と違って、彼は璃子の瞳も頬も唇も、その胸の奥さえみつめようとするようなまなざしだった。
 まもなく医者が呼ばれてきて、璃子は診断を受けた。元々の体質と緊張が重なって、ひきつけを起こしたと言われる。
「入院の必要はありませんが、今日はもう家でゆっくり休まれた方がいいです。同居のご家族はいらっしゃいますか?」
 医者の言葉に、璃子は答えに困った。璃子は一人暮らしで、近くに住む家族はいない。
 目が泳いだ璃子に、信じられない一言がかかる。
「しばらく私の家で看護します。わが社の社員ですから」
 言葉を放ったのが璃子の背を支えている青年だったので、璃子は息を飲んで彼を振り向いた。
「そんな! 大丈夫です、私は今まで一人で」
「だめだよ。もう目が離せない」
 彼はやんわりと言って、医師を部屋から出してしまう。
 二人きりに戻って、一瞬の沈黙があった。
「あなた、は……」
「新城出海(いずみ)。今日、新城商事の社長になったよ」
 それは社長が早く呼び戻したいと話していた一人息子の名前だと思い出して、璃子は目をみはる。
「あ、う……わ、私、辞めます」
「どうして?」
「社長さんに、こんな迷惑なこと。せっかくの門出のパーティに」
「確かに忘れられないパーティになりそうだ」
 出海はふいに困ったように笑った。
「君に顔を上げてほしくて、今日だけで十回以上お皿を返しに行ったよ」
「え……」
「もし辞めたら、今日連れて行ったきり僕の家から出さないけど、いいかな」
 ほほえみながら、出海はそんな冗談のようなことを真剣な目で言う。
 璃子は慌てて首を横に振る。
「は、働かせてください。迷惑かけないように、しますから」
「いいよ。ただし、今日から僕と暮らすこと」
 言葉につまった璃子に、出海は優しく笑った。
「ごめんね。僕はわがままなんだ」
 そっと、ただ強引に腕に包まれて、璃子は困りながら、その温かさに安心する自分がいた。
 新社長が着任パーティで、璃子という繊細な社員にひとめぼれして家に連れ帰ってしまった事件は、後々まで語り継がれる。
 そんな熱愛ぶりも噂になった社長だった。
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