新城社長が愛妻に出会ったころ

2 ふたり暮らし

 新城社長が帰国したその日に璃子を新居へ連れていってしまったニュースは、その日のうちに海外の支社までつつがなく共有された。
 ただ、新城社長は優しそうに見えて一度狙いを定めると大変手ごわい相手だと知れ渡っていた。特に本社の社員は前々から新社長の手腕を知っていたので、璃子に嫉妬を向けるというよりは、むしろ気の毒だと遠い目をしていた。
 けれど当の本人の璃子は、引っ越した先の社長の家でモニターごしに仕事の話をするだけ。彼女の繊細さを知っている同僚たちは、ふたり暮らしがどんな様子か気がかりだったものの、直接それを璃子に尋ねることはできなかった。
「ワインなどプレゼントしたら、酔わせようとしていると怯えないだろうか」
 ただ、もう一方の社長の様子を社員たちは毎日見ていた。
「やはり今日はまだ木苺のジュースにしておこう。冷蔵庫の中でちょっとずつ減っていると、自分が飲むより元気が出る」
 新城社長は、恋をしていた。彼は社長就任の慌ただしさなどものともせずに平然としていたが、璃子へのお土産を選んでいるときだけは眉を寄せてうなっていた。
 その恋心の形は、たとえば母親がはらはらしながら子どもをみつめるようなときもあった。
「部長、たまには私に代わってくれないか。璃子と話がしたい」
 でも独占欲をあらわにして、璃子の上司である五十歳の女性部長に、冗談なのか本気なのかわからない様子で言葉をかけるときもあった。
 社長が璃子に夢中で、大事にしようとするあまり壊れものを扱うように接している。それは社員なら誰でもわかっていた。ただ一人、璃子だけを除いて。
「……社長さんは、無理をされているんじゃないでしょうか」
 璃子が彼の家に引っ越してひと月が経つ頃、璃子はお手伝いさんに切り出した。
 彼の家には、祖父の代から仕えている美和(みわ)という女性が家事を手伝いにやって来る。もう七十歳近いが足腰もしっかりしていて、掃除から料理まで生き生きとこなす仕事人だった。
「璃子さんもそう思われますか」
「はい……。社長に就任したばかりですごくお忙しいのに、社員だから私も面倒を見ないといけないと責任を感じていらっしゃる」
 美和は聡明な女性で、出海が難渋しているのが仕事ではなく璃子へのプレゼントだと気づいていたが、その答えはあえて言わなかった。
「ほんとうに、どうしたらいいでしょうね。……あ、もしかしたら」
 そして美和は人生においてもベテランで、演技派女優さながらの働きを買われて今も新城家の専属家政婦だった。
「出海さんはお疲れのとき、静かにお過ごしになるのが好きなんですよ」
「そうなのですか。ではお帰りになる頃は、なるべく物音を立てないようにして」
「ええ。家中の電気も消して……」
 美和の言葉を、璃子はうなずいて素直に聞いていた。
 その日の夜、帰宅した出海は玄関に立った時家中の明かりが消えているのを見た。
 まだ八時、眠るには早い時間。出海は冷たい汗が背中ににじむのに気づきながら、急いで鍵を開けて中に入る。
「璃子?」
 家の中は静まり返っていて、人の気配もない。
 ……まさか、出ていってしまった? 前のアパートは引き払ってしまったはず。電車に乗るのも怯えるほど、人混みに弱いのに。
 歩き疲れてひとり、路地に座り込んでしまう彼女の姿が頭をよぎる。
「璃子、璃子!」
 血相を変えて呼んだ出海の耳に、カタンと小さな物音が聞こえた。
 反射的に璃子の部屋の方を振り向く。暗がりの中で目をこらして、ふと疑問がよぎった。
 リビングのテーブルの上に並べられた軽食。出海はいつも夕食が遅くなるために、昼を中心にして夕食は軽くしか食べない。
 でも今日の夜食は、いつも美和が作ってくれるものとは違っていた。見慣れた和食ではなく、サンドイッチとサラダだった。
「璃子、具合が悪いのか? ……入るよ」
 そっとノックをして、出海は璃子の部屋の扉を開く。
 部屋の中は電気がついていなかったが、窓越しに入り込む街灯の明かりで少しだけ様子が見えた。
 璃子はそこにいた。出海が冷えてはいけないとプレゼントしたブランケットに包まって、フローリングの床に座っていた。
 彼女の横にはお盆があって、リビングのテーブルの上にあったものと同じサンドイッチと、彼女のお気に入りのカップの中に木苺のジュースが入っているのが見えた。
「こんなに暗くして、どうしたの?」
 はっとして彼女が怯える前に、出海は表情を和らげて尋ねる。
 璃子はまだ目を合わせることはできないままだったが、一生懸命小声で言う。
「社長さんはお疲れで、静かにしないといけないと聞いて……」
 この頃には、出海はこの様子は美和の仕業だと勘付いていた。
 さて、どうやって説明しよう。小さな誤解でも、彼女を傷つけたくはない。
 日ごろ行きかう会社の問題で難しいと思ったことはないのに、この難題は出海の言葉をつまらせた。
「……あの、迷惑だったでしょうか」
 首をかしげた出海に、璃子はそっと問いかける。
「もちろん美和さんの夜食の方がおいしいと思います……。でも私も、ちょっとは、お仕事したくて」
 出海は思わずリビングのサンドイッチを思い出して、目をみはる。
「もしかしてあのサンドイッチ、君が?」
 こくんとうなずいた璃子に、出海は暗がりの中だというのにまぶしいものを見たような気がした。
 こんな小さな誤解から、きっとこれからもっとたくさんの問題にぶつかるのだろう。
「ありがとう。すごく……うれしい」
 でもそのたびに彼女と仲直りができるなら、そんなうれしいことはない。
「もっと疲れが取れる方法があるんだけど、言ってもいいかな」
「え、と。どんなことですか?」
「リビングで、一緒にサンドイッチを食べないか」
 璃子の前で屈みこんで、出海は手を合わせて困ったように言う。
「お願い。そうしたら明日もがんばれるから」
 それはどこか可愛い様子もして、璃子は思わずうなずいていた。
 新城社長は、おだやかだが隙のない人だと恐れられた。
 でも愛妻にだけは甘えん坊な顔もあって、妻にちょっと可愛い人だと思われていたことは、他人にはあんまり知られていないのだった。
< 2 / 5 >

この作品をシェア

pagetop