幼なじみの秘書は攫った初恋を逃がさない
 昔からそう。

 ひとつ年上の姉の椿は私に面倒ごとを押し付けてくるのが得意だった。

 いつだって、それをナチュラルにさらりとやってのけるものだから、実は面倒ごとの発端が姉だったということを周囲も忘れてしまう。

 今まで押し付けられたなかでも悲惨だったのが、父の大切にしていた骨董品の壺を壊してしまったとき。

 当時小学生だった私と姉、それから父の秘書の息子で幼馴染の皓也は三人でかくれんぼをしていた。

 鬼の役が回ってきていた私は、一番初めに客間を探しに行った。そこには大きな壺があって、子どもが隠れるのにちょうどいいのだ。

 物音を立てないようにそーっと近づいて、壺に触らないようにその裏側を覗き込む。そこには、小さく蹲る姉がいた。

「お姉ちゃん、見つけた」
「わぁっ!」

 にっと笑って大きな声を出したら、驚いた姉がはずみで壺を押してしまった。

 倒れていく壺の動きがスローモーションになって見えたが、体が瞬時に反応できない。

 ガシャン、と邸宅に響き渡る大きな音がして、私たちの前で壺が割れた。

 壺は父が先代から引き継いでとても大切にしているものだった。

 遊んでいて壊したと言えば、父はどれほど怒るだろう。
 
 姉と顔を見合わせて青ざめる。

「寿々が必要以上に大きな声で驚かしたから倒れたのよね?」
「え?」

 茫然と姉を見つめ返したとき、別の場所に隠れていた皓也が客間に走ってきた。

「どうしたの?」

 私と姉を交互に見つめた彼は、床に散らばる陶器の破片に気付くと「ああ」とつぶやいた。

「寿々が大きな声で驚かしたからなの」

 姉がそう言って、眉尻を下げる。

 ずるい。その言い方では、私だけが悪いように聞こえてしまう。
 
 私にも責任はあるけれど、壺を押したのは姉なのに。

「ケガしなかった?」

 けれど皓也は私を責めたりしなかった。

「手、血が出てる……先に手当てしてもらいに行こう」

 私の手に優しく触れる、皓也の手が温かい。

 父に怒られることばかり気にしていたから、皓也が壊れた壺よりもまず先に私たちを気遣ってくれたことにほっとした。

「お姉ちゃんは……?」

 怪我などしなかっただろうか。

 ふと見ると、それまでいたはずな場所から姉の姿が消えていた。

 皓也が私のケガに気を取られているうちに逃げたのだ。

 いつもそうだ。要領のいい姉は、面倒ごとが起こると、ほかの誰かに全てを押し付けて煙のように姿を消してしまう。

「しょうがないな、椿は」

 皓也が苦笑いを浮かべてため息を吐いた。

 逃げ去ってしまった姉のことを、皓也は悪く言わなかった。

 皓也は基本的に姉に甘い。
 
 姉が何をやっても、しょうがないと苦笑いするだけだ。

 皓也は、姉のことが好きなのかもしれない。複雑な気持ちでうつむくと、彼が私の手をそっと握った。

「傷が残らないといいけど」

 そうつぶやくと、皓也が私の手の甲にそっと口付ける。触れられたところから、傷口がヒリヒリと痛んだ。
 
 その夜、私ひとりだけが父の書斎に呼び出された。

 どういうふうに話が伝わったのか、壺は私がふざけて倒したことになっていた。

 壊した壺にどれほどの価値があったか。

 父がそれをどれほど大切にしていたか。

 そんな話を、数時間かけて懇々と説かれた。

 長いお説教を黙って聞きながら、皓也に包帯を巻いてもらった手の甲の傷が痛んだ。

 翌日学校から帰ってくると、皓也が珍しく私の部屋の前で待っていた。

「父さんから聞いた。壺のこと、すごい怒られたって」

 父に叱られているときは無表情でいられたのに、皓也の声を聞いたら、今さら少し泣きそうになった。

 昨夜、書斎に呼ばれたとき、父に何も反論できなかった。

 反論したところで、きっと父は私の話を信じなかっただろう。

 父は姉贔屓で、私のことはいつもぼんやりした出来の悪い子だと思っているから。

「ありがとう、心配してくれて。でも、平気」

 笑顔を作ろうとしたら、鼻の奥がツンと痛くなった。

 鼻に手をあてると、そこに皓也の視線を感じる。

 無意識で鼻に触れたのは、包帯を巻いている方の手だった。

 気になっておろすと、皓也がその手をつかまえる。

「まだ痛い?」
「もう平気」

 もともと大袈裟に包帯を巻き付けるほどの大怪我じゃなかった。

 首を横に振ると、皓也が私の目をじっと見つめてきた。

「そばにいてあげられなくてごめん」
「ううん、大丈夫。いつものことだから」

 姉に面倒ごとを押し付けられるのには慣れている。

 私が黙って我慢すれば、全部が丸くおさまる。

 でも、皓也が私を気にかけてくれたことは嬉しい。

「ありがとう」

 ふっと笑いかけると、皓也の眉間に力が入る。

 何か怒らせるようなことした……?

 だけど。

「ひとりで我慢しなくてもいいんだよ。寿々に困ったことがあったら俺が助けるから」

 少し不安になった私に、皓也がそう言った。

 戸惑いの目で見つめ返すと、皓也が包帯の巻かれた私の手を唇に近付ける。

「泣きたくなったら、俺を頼って。俺が寿々のそばにいるから。約束」

 甘く優しい声でささやかれて、流されるままに頷いてしまう。

 それを見届けた皓也は、満足げな笑みを浮かべると、包帯の上から私の手の甲にキスをした。

 その行為はお伽話に出てくるお姫様を守る騎士のようで。胸がギュッと締め付けられるようにときめく。

 あの日彼がくれた約束を、私だけが、いつまでもずっと忘れられない。

 ◆

「私の若い頃の着物がぴったりだわ。いつかの大切な日のために、大事にとっておいてよかった」

 鏡の前に無表情で座る私を見て、母が嬉しそうに笑う。

「緊張しているの? でも大丈夫。お母さんは、この役目を担うのが寿々ちゃんのほうで本当に良かったと思っているのよ」

 鏡の中の私と目を合わせて話しながら、母が私の肩に手を載せる。

「お姉ちゃんは美人だけれど、少し奔放なところがあるから……先方も、寿々ちゃんでよかったときっと思ってくれるはずよ」

 母の言葉に、私は何も答えることができなかった。

 今日は父が決めてきた婚約者とのお見合いの日。

 元々、この縁談は姉の椿にきた話だった。

 1年ほど前、会社の経営者である父が、招かれたパーティーに将来後継者になる予定の姉を連れて行った。

 器量がよく、人当たりの良い姉はそこで出会った父の取引先の社長に気に入られ、その息子とのお見合い話が持ち上がった。

 お相手は姉よりも年が10ほど離れていたけれど、次期経営者としての地位も人柄の申し分のない方で。

 姉もその縁談の話を受けると乗り気だった。

 お見合いの日の1週間前までは。

 ところが、だ。

 お見合い用の着物の準備を整え、相手の方に会うことになっていた日のちょうど1週間前。

「やっぱり自由に恋愛をしたい」という置き手紙を残して、突然行方をくらました。

 電話をかけても繋がらず、姉の知り合いという知り合いに聞き回ったけれど、誰も彼女からの連絡は受けておらず……

 お見合いの当日になっても、姉の行方はわからなかった。

 順調にことが運んでいたと思っていた縁談の話が直前で破棄になったことで、母は動揺のあまりに寝込んでしまい、父は激怒。

 お相手の方は内心どう思っていたのかわからないけれど、姉の無礼を一応は許してくれた。

 けれど、許してもらえたからといってそれで終わりというわけにもいかない。

 父の威厳を守るために、私が姉の身代わりをを引き受けることになってしまった。

 父が、姉の代わりに私との縁談を勝手に進めてしまったのだ。

 父は行方をくらました姉のことは諦めて、私を会社の後継者にしようと考えているらしい。

 今まで姉にばかり期待をかけて、優遇していたくせに。

 都合の良いときだけ私を利用する父が憎いと思う。

 本心では私だって、よく知りもしない人との婚約なんてごめんだ。

 家柄も容姿も素質も申し分ないとはいえ、年はだいぶ離れているし。

 しかも、姉の代わりだなんて。

 ほんとうは私にだって、大切に想ってきた人がいるのに……。

 けれど、幼い頃から何でも両親の言葉に従って反抗することのなかった私には、父が強く推し進めてきた縁談に「NO」とは言えなかった。

 また、父が激怒したら。母がショックで寝込んでしまったら。

 自分の気持ちを押し通したときの両親の反応を想像したら怖かった。

 こうなってしまった今、感情を無にして、もう全てを諦めるしかない。

「先方とのお約束までまだ時間があるわ。少しひとりで休む?」

 無言で頷くと、母が少し心配そうに私を見つめて部屋から出て行った。

 鏡に映っている、いつもより派手なメイクを施された私は、どことなく姉に似ていた。

 どうしてあの人はいつもこうなんだろう。

 昔から、姉は面倒ごとばかり押し付けてくる。

 子どものときから損をしているのはいつだって私。

 昔、父の大切にしていた壺を壊した責任を押しつけられたことを思い出して苦い笑みが溢れた。

 姉は、あのときから何も変わらない。

 鏡に映る姉と似た自分の顔を見つめているうちに、だんだんと息苦しくなってきた。

 きつめに締められた、慣れない着物の帯のせいだろうか。

 胸を押さえて深呼吸をしたとき、ノックもなしに背後でドアが開いた。

 母が戻ってきたのかと思い、苦しさを我慢して慌てて顔を上げる。

 けれど、鏡越しに見えた姿は母ではなかった。

 思わず息が止まりそうになる。

 そこにいるのは皓也で、私の目は鏡に映る彼の姿に釘付けになった。

「どうして……」

 驚きのあまり、それ以上言葉が続かない。

 鏡越しに私と視線を合わせた皓也は、怒ったような顔で真っ直ぐに歩み寄ってきた。

「寿々、どういうこと?」

 私の肩をつかんだ皓也が、低い声で問いかけてくる。

「どういうって……今日はお姉ちゃんの代わりにお見合い相手にお会いするの」
「だから、それがどういうことなんだって聞いてるんだ」
「お姉ちゃんとのことが破談になってお相手の方に申し訳ないからって……」
「そういうことを聞いてるんじゃ──」
「私、気に入ってもらえるかな? お姉ちゃんの代わりが務まると思う?」

 鏡に映る皓也に向かって必死に微笑むと、彼が私の肩をつかむ指先に力を入れた。

「あぁ、そうだな。椿の代わりどころか、一目見ただけで気に入られるよ」

 私を振り向かせた皓也が、怖い顔で見下ろしてくる。

 着物の上からでも圧を感じるくらい、私の肩をつかむ皓也の指の力は強かった。

「寿々が気に入られないわけない。お見合いなんてしたら、そのまま結婚まで一気にことが進むよ。それがわかってて、どうして俺に事前に何も知らせなかった?」

 大学を出たあと、皓也は父の会社で働いている。

 将来は、次期経営者になるための勉強をしながら父の会社で働いていた姉の秘書になる予定だった。

 父からお見合いの話を聞かされたとき、私は皓也に伝えなかった。

 伝えられなかったのもあるけれど、伝えないままにしておきたかった。

 姉が行方をくらましてしまった今、父の会社の後継者となるのは私しかいない。
 
 父は、これから皓也に私のサポートをさせると言っていた。

 結婚しても皓也のそばにいられるのは嬉しいけれど、私たちはずっとビジネスのパートナー以上の関係にはなれない。

 そっと目をそらすと、皓也が私の肩を乱暴に揺らした。

「黙ってないで何か言えよ。寿々、俺が長い間どんな気持ちでいたか知ってるか?」

 無言で俯いていると、皓也が上から覆いかぶさるに私を抱きしめた。

「ずっと見てきたんだ。俺だけがずっと。それなのに、こんなふうに他のやつの者になるなんて許さない」
「え?」

 皓也が苦しげにつぶやく。耳に届く掠れた声に、胸が潰れそうなほどに苦しくなった。

 幼かったあの日から、私はずっと皓也が好きだった。

 子どもの頃は、ただ想っていればよかった。顔を見て、笑いあえたらそれだけで心が満たされた。

 自惚れかもしれないけれど、私を見つめる皓也の目や態度から、彼ももしかしたら同じ気持ちでいてくれるのかもしれないと思っていた。

 けれど大人になるにつれて、この想いを永遠に抱き続けるのは難しいのかもしれないと思うようになった。

 皓也は父の秘書の息子で、私は経営者である父の娘。

 年頃になるにつれて皓也とはあまり遊べなくなり、父に連れられて行った経営者たちの集まるパーティーでは姉とともに同じ歳くらいの経営者の子息を紹介される。

 何度もそんなことを繰り返すうちに、勘のいい姉はもちろん、私も薄々気が付いた。

 私も姉も、父の会社経営のための駒のひとつでしかない。

「寿々のこと拐いにきたんだ。このまま、俺と一緒に行こう」

 身動きできずにいる私に、皓也が囁く。甘美な誘いに、胸が震えた。

 姉が逃げ出したように、できることなら私も逃げ出したい。

 でも、私がいなくなれば父と母は……。

「椿が置いていった面倒ごとを寿々が全部引き受ける必要なんてない。寿々がどうしたいのかは寿々自身で決めればいい」

 そう言いながら、着物の片口に顔を埋めた皓也が私の首筋に唇を這わせる。その感覚にゾクリとした。

「ずっと好きだった。寿々のこと、愛してる」

 小さく身体を震わせる私に、皓也が思いもよらなかった愛の言葉をささやく。

 今まで一度だって、はっきりと伝えてくれたことがなかったのに。こんなときに、ずるい。

「わ、私だって……」

 ずっと、皓也が好きだった。

 言葉を詰まらせる私に、彼が手を差し伸べる。

「俺と一緒に行こう」

 差し伸べられた手に手を重ねた私の心に迷いはなかった。

 皓也に手を引かれるままに逃げ出すと、私は彼の車に乗り込んだ。

 ◆

 車で連れて行かれたのは、皓也がひとりで暮らすマンションだった。

 皓也が実家から出てひとりで暮らしていたなんて知らなかった。

 広いリビングを挙動不審に見回していると、寝室に引っ込んでいた皓也が服を持って戻ってくる。

「似合ってるけど、そのままじゃくつろげないだろ。とりあえず、これに着替えて」

 お見合い会場から連れ出された私は、まだ振袖姿のままだった。

「ありがとう」

 皓也から服を受け取ると、脱衣所を借りて着替える。

 手足の長い皓也の服は、袖も裾も何度か折らなければならない。

 着替えを済ませて髪をほどくと、リビングに戻る。

「飲み物淹れるから座って。コーヒーでいい?」

 所在なく立っていると、皓也がソファーをすすめてきた。
 
「ありがとう」

 ソファーに座ると、目の前のローテーブルに置いてあったスマホが、突然けたたましい音で鳴り始めた。

 鳴っているのは、皓也のスマホ。画面に表示されているのは、私の父の番号だ。

 私のスマホは、お見合い会場の控え室に置いてきた。

 皓也が私を連れ去ったことに気付いた父が、直接電話をかけてきたのだ。
 
 父の激昂した顔を思い浮かべると、身体が震えた。

 両腕で肩を抱き寄せて縮こまっていると、皓也が「寿々……」と呼びかけてくる。

 皓也は運んできたマグカップをテーブルに置くと、隣に座って私を包み込むように抱きしめた。
 
「大丈夫。寿々が困ったときには俺が助ける。子どものときの約束、覚えてる?」

 皓也の腕に包まれているうちに、身体の震えが止まる。

 視線を上げると皓也が私をじっと見つめていて、その姿が子どもの頃の彼に重なった。

「忘れるわけない。だってあのときから、皓也のこと好きだから」

 感情のままに伝えると、皓也が私の頬を手のひらでそっと撫でた。

 子どもの頃と変わらない綺麗な黒の瞳が、熱っぽく私を見つめてくる。その目を見つめ返していると、不意に皓也の唇が私の唇に重なった。

 離れた唇はまたすぐに重なり、だんだんと深いキスになる。皓也の手に服の上から身体を撫でられ、気持ちが昂る。

 その間もテーブルの上で、スマホの着信音が鳴っては途切れてを繰り返す。

「うるさいな」

 テーブルを横目につぶやくと、皓也がスマホの電源を切った。

 これで良かったのだろうか。ふと父と母の顔が過ぎる。

 そんな不安を見抜いたのか、皓也が私の唇を塞ぎながらソファーへと押し倒してきた。

「寿々、愛してる……」

 耳元にささやくと、皓也が首筋に顔を埋める。

 キスを重ねながら身に纏っていたものを剥ぎ取られて、重なった手にお互い指を絡ませ合う頃には、私の身体も心もどろどろに溶かされて、頭の中を支配するものは皓也だけになっていた。

 息を乱す私を、皓也が優しく抱きしめる。

「寿々。やっと手に入れた。絶対に、誰にも渡さない」

 蕩けそうになる意識の淵で、皓也が低くささやく声がした。
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