ハチミツ in ビターチョコレート

#36 隠しきれない

 つわりが辛いときは無理せず休めば良い、と祐宜が言ってくれたのでまた休む日が増えてしまったけれど、元気な日は頑張って仕事に行った。事情を知っている奈津子は他の人に気付かれないように心配してくれて、総務部長も美姫が休みがちなことを心配してくれていた。
「岩瀬さん、堀辺君(上司)には言うたん?」
 二人になるタイミングを狙って奈津子が聞いてきた。
「はい。体調を優先で良いって言ってくれてます」
「それなら良かった。でも、もうそろそろ隠されへんなるで」
「はい……」
 美姫は私服で仕事をしているのでお腹が隠れるような服を選んでいたけれど、それもそろそろ限界になってきていた。転んでしまうのも嫌なので、ヒールの高い靴も履かなくなった。
 事務所に戻ると美姫は、里美に呼ばれた。
「今年はどうするん?」
「え? 何がですか?」
「バレンタイン」
 二月に入ってから女性たちはまた、男性陣がいないときにバレンタインの相談をしていた。去年と同じく、祐宜に渡すものがなかなか決まらないらしい。
「ごめん、休んでたときに、岩瀬さんが堀辺君のこと前に気にしてた、ってバラしてもおた」
「え……ええ……」
「でも彼氏できたんやろ?」
「はい……。だから今年は、本命だけにするから、会社には持ってこないです」
 近くにいた男性たちにも聞こえていたようでバレンタインにもらえる数が減ることを嘆いていたけれど、美姫の未来が明るいと分かって嬉しくなったらしい。七夕に短冊に書いたことを覚えている人も多く、バイヤーたちは美姫の話をしていた。席に戻るとやはり総務部長も、顔を上げて何か言いたそうにしていた。
「岩瀬さん、──いつ彼氏できたん?」
「え? ……去年です」
 その彼は隣でいつも通りパソコンと向かい合っていた。新店舗オープンに向けてのパート・アルバイトの採用がそろそろ始まるので、何度も新店舗店長に連絡をしていた。給与データの確定も近づいているので、美姫もいつもより残業が増えた。
「ふぅん……。堀辺、ちょっと良いか?」
 総務部長が祐宜を呼び、二人で事務所から出ていった。何の話か気にはなったけれど美姫は気にしないふりをして、自分の仕事に集中していた。
 頑張って仕事をしているけれど、できるだけモニターは見たくなかった。会社としては禁止されていないけれど、席で臭いの強い物は食べてほしくなかった。日によって食べられるものも違うので弁当を持ってくるのが一番だったけれど、休憩室はいろんなにおいが混じっていて気持ち悪いので、全席禁煙の大夢に行くことが増えた。
「岩瀬さん、ここ変な臭いしてない?」
 奈津子がそっと聞きに来てくれた。祐宜の席に座って美姫のお腹を見て、それから総務部長の席のほうを見た。
「あの人ときどき自分の席でごはん食べてるやろ?」
「はい……。あんまりしんどかったら逃げてます」
「そう?」
「もうすぐ、おさまると思うから……」
 と言いながらも事務所の空気が苦しくなって外に出ようと立ち上がると、事務所のドアが開いて祐宜が覗いていた。
「あ──岩瀬さん、ちょっと」
「はい……?」
 彼に連れられてミーティングルームに入ると、予想通り総務部長が席に着いていた。祐宜は総務部長の向かいに座り、美姫は祐宜の隣に座った。
「岩瀬さん──堀辺に聞いたんやけど」
「……はい?」
 美姫は祐宜との関係を問われるのかと思ったけれど、それは違ったらしい。
「妊娠してたんやな。……予定はいつ?」
「──八月末です」
「相手とは、結婚するんか?」
「はい。話は、してます」
 それが祐宜だとはまだ、総務部長には知られていないらしい。なるべく隣を見ないようにして美姫は誰もいないほうに視線を向けていた。感情が顔に出ないように表情を固くしているのは祐宜も同じらしい。
「そしたら──産休に入る日は──自分で調べられるな?」
「はい」
「堀辺、仕事はどうや? 岩瀬さん抜けたら……さすがに何ヵ月もおらんのは厳しいやろ?」
「そうですね──、岩瀬さんが来てる間に誰か入れてもらえたら、引き継ぎもできるやろうし」
「事務ができる子……誰が良いやろな……」
 祐宜と総務部長はしばらく事務的な話を続け、美姫は事実をいつ会社に言おうかと考えていた。祐宜と結婚することは肇と咲凪も知っているけれど、妊娠のことはまだ伝えていない。
「岩瀬さん、みんなには言うて良いん?」
「あ──いま、朝倉さんだけ知ってるけど……そろそろ目立ってくるし、聞かれたら言います」
「それなら俺は黙っとくわ。あとは──堀辺も結婚するて言うてたし、書類出しや」
 総務部長からの用件は済んだようで彼はミーティングルームを出ていったけれど、美姫はやはり祐宜に残されてしまった。総務部長の気配が遠くなってから祐宜は口を開いた。
「もうお腹を隠すのは限界やろ?」
「うん、さっき朝倉さんにも言われた。もしかしたら、川原さんも気付いてるかもしれんけど」
「バレンタイン終わってから──俺と美姫と、総務部長も出勤の日に言うか」
 それからも美姫はつわりで休む日があったけれど、バレンタインの日は──義理チョコは用意していないけれど頑張って出勤した。
 祐宜が女性たちからもらった数は、例年通りだったらしい。甘いものが苦手なので美姫に、と言っていたけれど、妊婦がチョコを食べすぎるのは良くないので祐宜に頑張ってもらった。美姫は祐宜には去年と同じものを用意していて、翌日は休みの祐宜が部屋まで車で送ってくれることになったのでお礼に渡した。
「何か──すぐには要らん物あれば運んどこか?」
「そうやなぁ……あ、でも冬服くらいやし、場所ないやろ? 二人で──三人で引っ越すまでは実家に置いとく」
「三人か。どっちやろな、男の子か女の子か」
 美姫は落ち着いていたので夕食を作り、二人で食べてから祐宜は自分の部屋に帰っていった。泊まってもらっても良かったけれど、残念ながら祐宜の部屋より狭いし、ベッドも折り畳みなので小さい。
 祐宜とも相談して、妊娠していることは咲凪に先に教えることにした。実は、とLINEをしてからしばらくすると、咲凪から電話がかかってきた。
『おめでとう、あ、生まれてからのほうが良いんかな。会社に言ったん?』
「ううん、まだ。でも妊娠のことは何人か知ってるから、近いうちに結婚のことも言うことにした。佐倉君にはまだ黙っといてな?」
『うん、わかった。……店の人らも騒ぐやろなぁ。美姫ちゃんと堀辺さん噂になってたし』
「そんなこともあったなぁ……」
『三ヶ月やったら……えっ、付き合いだして二ヶ月でできたん? もしかして──おめでた婚?』
「あっ、それは、違う。プロポーズが先やった」
『それにしても、早いよなぁ?』
 咲凪はいろいろ聞きたいようで、近いうちに休みを合わせて会うことになった。その頃には祐宜とのことを全て会社に報告しているはずなので、何も隠さずに話せると思うと美姫は嬉しかった。
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