君の心に触れる時
春香は自宅療養を始め、蓮と赤ちゃんとの穏やかな日々が続いていた。
日中は赤ちゃんをあやし、蓮が仕事から帰ると3人で食卓を囲む。
春香は「普通の母親」らしい時間を噛み締めていた。

赤ちゃんの初めての笑顔を見て、春香は涙を浮かべる。

「この子の成長をこうして見られるなんて、本当に幸せ…。」

蓮も笑顔で頷くが、その裏で春香の顔色が日に日に悪くなっていることに気づいていた。
立ち上がるのに苦労し、抱っこをするときに呼吸が乱れる。夜中に蓮が目を覚ますと、春香が胸を押さえて辛そうにしていることもあった。

「春香、無理はするなよ。」

そう言う蓮に、春香は微笑んで「大丈夫だよ」と言うが、その笑顔がどこか儚いことに彼は気づいていた。


ある日の午後、春香は赤ちゃんを抱きながら近所の公園を訪れていた。
風に揺れる木々の葉や、他の子どもたちの笑い声を眺める春香の顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。

だが、次第に視界がぼやけ、胸に締め付けられるような痛みが走る。

「また…?」

春香は赤ちゃんをベビーカーに乗せ、近くのベンチに腰を下ろした。痛みが治まるのを待ちながら、赤ちゃんを見つめる。



その夜、蓮が帰宅すると、春香は笑顔で夕食を準備していた。
だが、動きがいつもより遅いことに気づいた蓮は、彼女の手をそっと掴む。

「春香、今日も胸が痛くなったんだろう?」

春香は一瞬視線を逸らした後、小さく頷いた。
「でも、すぐ治ったから大丈夫。」

「大丈夫じゃない。」

蓮の声は震えていた。医師としての自分が彼女の状態を誰よりも理解している。
それでも、彼女の「母親でいたい」という願いを尊重したい夫としての気持ちが彼を縛り付けていた。

智己からも「限界が近い」と何度も言われていたが、それを春香に告げることができなかった蓮。

彼は春香の笑顔を守りたい一心で、医師としての判断を押し殺していた。

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