野いちご源氏物語 一〇 賢木(さかき)
 ふたりが心配したとおり、そのころ源氏(げんじ)(きみ)小部屋(こべや)をそっとすべり出て、中宮(ちゅうぐう)の部屋へお入りになった。物陰(ものかげ)(かく)れていらっしゃるから、中宮はお気づきにならない。
<明るいところでお姿を拝見するのはいつぶりだろうか>
 源氏の君はうれしくて涙がこぼれる。苦しそうに外の方をご覧になっている中宮の横顔は、(はかな)く優雅だった。

 女房が「せめてこれだけでも」とお出しした果物は手つかずのまま。お(ぐし)の感じや、気品のあるお姿はどんな女性よりもすばらしい。二条(にじょう)(いん)(むらさき)(うえ)にそっくりだと源氏の君は驚かれる。
 それでもやはり、少年時代から十年以上の片思いのせいか、中宮の方が一段上のような気がなさった。源氏の君はつい、物陰(ものかげ)を出て中宮の後ろに近づかれる。中宮の着物の(すそ)を少し引くと、その動きで源氏の君の香りがさっとあたりに(ただよ)った。
 中宮は思わずうつ()せになってしまわれる。
「せめてこちらを向いてください」
 源氏の君が()き寄せようとなさると、一番上の着物だけを残してお()げになる。しかし源氏の君は中宮のお髪をつかんでいらっしゃった。
<なんという運命だ>
 中宮は絶望(ぜつぼう)なさる。
 
 正気を失った源氏の君は、いろいろなことを泣きながらおっしゃる。中宮は軽蔑(けいべつ)して返事もなさらない。
「具合が悪うございますので、お話はまたあらためてお(うかが)いいたしましょう」
 とおっしゃっても、源氏の君のお気持ちは次から次へとあふれて止まらない。さすがに中宮もお心が動かないわけではない。しかしまたもや源氏の君に(すき)を見せてしまったことが(くや)しくて、上手に源氏の君をおなだめになった。そのまま今夜も明けていく。
 中宮は無理やりどうにかできるような方ではない。さすがの源氏の君もご遠慮(えんりょ)してしまう()(だか)さがある。
「恐れ多いことなどいたしません。こうしてときどき話をお聞きいただけるだけで、私は満足いたしますから」
 健気(けなげ)に言ってお心を(やわ)らげようとなさる。(なみ)たいていでなく切ないご関係だった。

 すっかり夜が明けてしまった。王の命婦と弁は源氏の君にお帰りを()かす。茫然(ぼうぜん)となさっている中宮に、源氏の君は思いつめた口ぶりでおっしゃった。
「私は来世(らいせ)来々世(らいらいせ)もあなたを求めつづけます。これほど私が執着(しゅうちゃく)していては、あなたも極楽(ごくらく)浄土(じょうど)へはお行きになれませんよ」
 とんでもない(おど)し文句に中宮も(だま)っていられず、
「浮気なあなたなのですから、そんなことをおっしゃってもすぐにお気が変わりましょう」
 と静かに反論なさった。
 源氏の君はその気高さに思わず見とれてしまわれたけれど、このままここに(とど)まってもどなたのためにもならない。ふらふらとした足取りで部屋から出ていかれた。
< 24 / 49 >

この作品をシェア

pagetop