拝啓、あしながおじさん。 ~令和日本のジュディ・アボットより~ 【改稿版】
迷いの原因は、自身が児童養護施設で育ったことだ。初めて辺唐院家へ行って挨拶した時の反応でさえあんなにひどかったので、「純也さんと結婚したい」なんて言ったらもう、「どうせ財産目当てでたぶらかしたんでしょう」と嫌味を言われることは目に見えている。
それを察したらしい珠莉が、愛美に申し訳なさそうに言った。
「それって、私の両親のことね? 施設出身のあなたが純也叔父さまと結婚したいなんて言ったら、お母さまから財産目当てだとか言われるんじゃないかって心配してるんでしょう?」
「うん、そうなの。わたしは別に、自分の境遇をコンプレックスに感じてはいないけど、周りの人はそうじゃないんだってあの時痛いほど分かったから」
「世の中、そんな人ばかりじゃなくてよ。あの人たちが異常なのよ。それに、叔父さまと結婚するからって、必ずしも辺唐院家の一員になるわけじゃないわ。だから、そこは気にする必要ないんじゃないかしら」
「……そうだよね。純也さんなら、わたしを無理矢理親族の集まりに引っ張り出すようなことはしないよね」
愛美のことを大事に思ってくれている彼なら、結婚後も極力愛美を親族との関わりから遠ざけてくれるだろう。愛美が傷付かないよう、そのあたりの配慮はしてくれると思う。
でも……、愛美が結婚をためらう理由はもう一つあるのだ。
「ただね、これはただわたしが一方的にこだわってるだけなのかもしれないけど。わたしって、純也さんからお金を援助してもらってる立場だったわけじゃない? だから、彼に出してもらったお金を返し終わるまでは対等な立場になれないと思うの。そんな状態で結婚してもうまくいかないんじゃないかな、って」
「愛美、気にしすぎだよ。純也さんはそんなこと望んでないかもしれないじゃん。お金返してもらうつもりで援助してたんなら、愛美が奨学金受けるようになった時点でとっくに手を引いてるはずだよ」
「私もそう思うわ。叔父さまは気前のいい方だから、返済なんて最初からお望みじゃなかったはずよ。あなたの前に叔父さまの援助を受けていた人たちも、お金は返済していないんじゃなくて?」
「……さあ、どうだろ? 園長先生もそこまではおっしゃってなかったし。わたしも訊かなかったけど」
愛美は首を傾げたけれど、親友二人がそう言うのならきっとそうなんだろう。純也さんはきっと、愛美がお金を返そうとしても「そんなつもりで援助したわけじゃない」と受け取ってはくれない。
(……って分かってはいるんだけどなあ。わたしは全額じゃなくても、少しだけでも受け取ってほしいんだよね。それがわたしなりの誠意だから)
そう思うのは愛美のエゴだろうか? 押しつけがましいだろうか?
「それに、叔父さまはあなたが夢を叶えて作家になったことで、十分投資した分は返してもらったとお思いのはずよ。だからもう、お金のことは気にしなくていいんじゃないかしら」
「そっか、援助じゃなくて投資か……。そういう考え方もあるんだね」
珠莉の言葉に、愛美は目からウロコが落ちた。「援助してもらった」と思うから、出してもらったお金は返さなければと思っていたけれど。あれが彼の先行投資だったと考えたら、そのおかげで作家デビューを果たした時点でもう、投資された分にはちゃんと報いることができているわけである。
「じゃあもう、お金のことは気にしなくていいってことだよね……」
とりあえず、純也さんちの結婚に向けてのハードルは一つなくなったと考えていい。それが分かった愛美はひとまずホッとしたのだった。
* * * *
――それからしばらく経った、五月の大型連休明けの土曜日の午後。
「――相川先生、お疲れさまでした! ですが、何も直接原稿を手渡すために僕を横浜まで呼ばなくても……。データをメールで送って下さるだけでよかったのに」
渾身の一作をやっと書き上げた愛美は、それをわざわざプリントアウトした紙の原稿を持って、編集者の岡部さんと待ち合わせをしていたカフェへ出向いた。
長編小説の原稿の封筒が入ったトートバッグはすごく重くて、正直肩が抜けそうだった。でも、愛美はあえてそうしたのだ。
「原稿、重かったでしょう?」
「ええ、まあ。肩を脱臼するかと思いました。でも、この原稿の重みを自分でも嚙みしめたくて。メールで送るだけじゃ何だかこの原稿を軽々しく扱ってるような気になるので、せっかく魂を込めて書いた原稿に申し訳なくて」
苦笑いをする岡部さんに、愛美は力説しながら封筒を手渡した。
「先生がそこまでおっしゃるってことは、相当思い入れの強い作品ということですね。分かりました。では、じっくり読ませて頂きます。今度こそ出版が決まるよう、僕もめいっぱいプレゼンさせて頂きますので」
「はい。岡部さん、よろしくお願いします。この作品はどうしても世に出したいので。すべてはあなたにかかってますからね」
愛美は深々と頭を下げ、飲みかけのアイスカフェラテを一気に飲み干すと、支払い伝票を引き取った。岡部さんがこの後、他の作家と新作の打ち合わせが入っていると言ったことを思い出したのだ。
「すみません! 岡部さん、この後予定入ってるんですよね? もう行って下さい。支払いはわたしが持ちますね」
「そうですか。すみません、先生。ここはごちそうになります」
支払いを済ませて彼の後に店の外に出ると、もう初夏のカラッとした暑さ。この後は特に予定もないので、本屋さんでも覗いてから寮に帰ろうと思っていると――。
「あれ、愛美ちゃん?」
しばらく聞いていなかった男性の声で呼び止められ、愛美が後ろを振り返ると。
「治樹さん。お久しぶりです」
少しくたびれたスーツ姿の治樹が、「よう」と手を挙げて微笑んでいた。でも、少々やつれた顔で。
それを察したらしい珠莉が、愛美に申し訳なさそうに言った。
「それって、私の両親のことね? 施設出身のあなたが純也叔父さまと結婚したいなんて言ったら、お母さまから財産目当てだとか言われるんじゃないかって心配してるんでしょう?」
「うん、そうなの。わたしは別に、自分の境遇をコンプレックスに感じてはいないけど、周りの人はそうじゃないんだってあの時痛いほど分かったから」
「世の中、そんな人ばかりじゃなくてよ。あの人たちが異常なのよ。それに、叔父さまと結婚するからって、必ずしも辺唐院家の一員になるわけじゃないわ。だから、そこは気にする必要ないんじゃないかしら」
「……そうだよね。純也さんなら、わたしを無理矢理親族の集まりに引っ張り出すようなことはしないよね」
愛美のことを大事に思ってくれている彼なら、結婚後も極力愛美を親族との関わりから遠ざけてくれるだろう。愛美が傷付かないよう、そのあたりの配慮はしてくれると思う。
でも……、愛美が結婚をためらう理由はもう一つあるのだ。
「ただね、これはただわたしが一方的にこだわってるだけなのかもしれないけど。わたしって、純也さんからお金を援助してもらってる立場だったわけじゃない? だから、彼に出してもらったお金を返し終わるまでは対等な立場になれないと思うの。そんな状態で結婚してもうまくいかないんじゃないかな、って」
「愛美、気にしすぎだよ。純也さんはそんなこと望んでないかもしれないじゃん。お金返してもらうつもりで援助してたんなら、愛美が奨学金受けるようになった時点でとっくに手を引いてるはずだよ」
「私もそう思うわ。叔父さまは気前のいい方だから、返済なんて最初からお望みじゃなかったはずよ。あなたの前に叔父さまの援助を受けていた人たちも、お金は返済していないんじゃなくて?」
「……さあ、どうだろ? 園長先生もそこまではおっしゃってなかったし。わたしも訊かなかったけど」
愛美は首を傾げたけれど、親友二人がそう言うのならきっとそうなんだろう。純也さんはきっと、愛美がお金を返そうとしても「そんなつもりで援助したわけじゃない」と受け取ってはくれない。
(……って分かってはいるんだけどなあ。わたしは全額じゃなくても、少しだけでも受け取ってほしいんだよね。それがわたしなりの誠意だから)
そう思うのは愛美のエゴだろうか? 押しつけがましいだろうか?
「それに、叔父さまはあなたが夢を叶えて作家になったことで、十分投資した分は返してもらったとお思いのはずよ。だからもう、お金のことは気にしなくていいんじゃないかしら」
「そっか、援助じゃなくて投資か……。そういう考え方もあるんだね」
珠莉の言葉に、愛美は目からウロコが落ちた。「援助してもらった」と思うから、出してもらったお金は返さなければと思っていたけれど。あれが彼の先行投資だったと考えたら、そのおかげで作家デビューを果たした時点でもう、投資された分にはちゃんと報いることができているわけである。
「じゃあもう、お金のことは気にしなくていいってことだよね……」
とりあえず、純也さんちの結婚に向けてのハードルは一つなくなったと考えていい。それが分かった愛美はひとまずホッとしたのだった。
* * * *
――それからしばらく経った、五月の大型連休明けの土曜日の午後。
「――相川先生、お疲れさまでした! ですが、何も直接原稿を手渡すために僕を横浜まで呼ばなくても……。データをメールで送って下さるだけでよかったのに」
渾身の一作をやっと書き上げた愛美は、それをわざわざプリントアウトした紙の原稿を持って、編集者の岡部さんと待ち合わせをしていたカフェへ出向いた。
長編小説の原稿の封筒が入ったトートバッグはすごく重くて、正直肩が抜けそうだった。でも、愛美はあえてそうしたのだ。
「原稿、重かったでしょう?」
「ええ、まあ。肩を脱臼するかと思いました。でも、この原稿の重みを自分でも嚙みしめたくて。メールで送るだけじゃ何だかこの原稿を軽々しく扱ってるような気になるので、せっかく魂を込めて書いた原稿に申し訳なくて」
苦笑いをする岡部さんに、愛美は力説しながら封筒を手渡した。
「先生がそこまでおっしゃるってことは、相当思い入れの強い作品ということですね。分かりました。では、じっくり読ませて頂きます。今度こそ出版が決まるよう、僕もめいっぱいプレゼンさせて頂きますので」
「はい。岡部さん、よろしくお願いします。この作品はどうしても世に出したいので。すべてはあなたにかかってますからね」
愛美は深々と頭を下げ、飲みかけのアイスカフェラテを一気に飲み干すと、支払い伝票を引き取った。岡部さんがこの後、他の作家と新作の打ち合わせが入っていると言ったことを思い出したのだ。
「すみません! 岡部さん、この後予定入ってるんですよね? もう行って下さい。支払いはわたしが持ちますね」
「そうですか。すみません、先生。ここはごちそうになります」
支払いを済ませて彼の後に店の外に出ると、もう初夏のカラッとした暑さ。この後は特に予定もないので、本屋さんでも覗いてから寮に帰ろうと思っていると――。
「あれ、愛美ちゃん?」
しばらく聞いていなかった男性の声で呼び止められ、愛美が後ろを振り返ると。
「治樹さん。お久しぶりです」
少しくたびれたスーツ姿の治樹が、「よう」と手を挙げて微笑んでいた。でも、少々やつれた顔で。