ハイスペ外科医は最愛のクラークを逃さない~地味で目立たないわたしが溺愛妻になるまで~

第一話:書類の妖精

「美鈴、この文書を読んで問題なければ署名と捺印をしてほしい」

 ある日、彼――髙村仁は二枚の文書を私の前に差し出しそう言った。

『性行為の実施に関する同意書』

「はあ?」

 この人頭がおかしいんだろうか。いやいや、目の前にいるのは旧帝大の医学部に一発合格、留年することもなく見事卒業して国家試験をパスした外科専攻医だ。頭は悪くない、はずだ。

 私の返事を受けても、仁の瞳は全く揺らがない。

「俺は美鈴と性行為がしたい。けれど、同意のない性行為は犯罪だ。君の同意がほしい」

 毎日、何十枚の同意書を目にするけれど、こんな珍妙なものを目にしたのは初めてだった。


 ***


 県立S病院。

 四百床、三十二診療科目の急性期病院。第二次救急医療機関及び地域の基幹病院に指定されている。

 私はここの七階、外科病棟の医療事務として勤務している。

「沢田先生また定期処方出してないじゃない。これ終わるまで帰れないなー」
「702号室の田中さん、今から術前検査行ってきますー」

 髪の長い女性看護師の多くが髪をお団子にまとめるのはどうしてなんだろう。

 気になってはいるが訊ねたことはない。ただ毛先の色を明るくしても、上手く入れ込めばバレないと話しているのは聞いたことがある。

 対する私の、無造作に一つに束ねただけの黒髪の地味なこと。

 私の仕事は、毎日毎日入院診療計画書や同意書、退院証明書に診療情報提供書、そういった書類を捌いてスキャンして電子カルテに入れたりすることだ。

 ほかの病棟で勤務したことがないので比べることはできないが、外科なので『手術に関する同意書』が圧倒的に多い気がする。

 ついでにいうと正規雇用ではなくて、非正規の契約社員。見てすぐ事務員と分かるような、野暮ったいグレーのチェックの制服が支給されている。

 病院で働いているというと、「医者と付き合えるんじゃない? 玉の輿じゃん」と友達に言われることがたまにある。

 だが、二重の意味でそんなことはありえない。

 一つ目は、向こうは私達事務員なんて目に入っていないということだ。

 病棟の主役は看護師で、私はその隅っこで、ひっそりと息をしているだけ。

 目立たず、問題を起こさず、粛々と書類を処理する。時々自分はそういう種類の妖精なのかもしれないと思う時がある。

 そもそも、最近は女性医師の数も多い。医者は医者同士で医学部の時から既に交際を深めている。
 そして、時々思い出したように病棟の看護師にちょっかいを出す(そして大概結構揉める)。

 その程度なので、事務員にまでお鉢が回ってくることはほとんどない。

 二つ目は、医者というのが大概特殊な人種ということだ。
 中でも外科医の特異性は群を抜いており、七階に配属された新人看護師の六割が面食らって他病棟に異動願を出す。

 毎日毎日飽きもせずに人の腹を掻っ捌いて臓物を見ている人間なんて変人ばかりなのかもしれない。そしてほぼ例外なく字が汚い。私はここに勤務してから、字がきれいな医者に会ったことがなかった。

 仁が話しかけてきたのは三か月前の病棟の忘年会の帰りのことだった。

 普段は病棟の飲み会には声もかからないので出席することもない。

 ただ、忘年会ぐらいはと向こうも思うのか、その時は幹事の病棟主任が案内の紙をくれた。

 この主任は割といい人なので嫌いではないのだけど、押しが強いのが玉に瑕で満面の笑みで「山内さんも是非!」と言われると断れなかった。

 書類の妖精に、飲み会での居場所などないというのに。

 案の定、私は一番壁際の席でオレンジジュースを飲みながら油っこいだけのフライドポテトを摘まむことになった。

 いい看護師は飲み会での立ち回りも上手い。

 目端が利くから人のグラスが空いたのを見逃さないし、むっとしたくなるような自慢話にも眩しいぐらいの笑顔で相槌を打つことができる。そうして、お団子の髪を解いてゆらゆらと揺らし、医者にお酌をする。

 私には来世になってもできない芸当だ。髙村仁もその輪の中にいた。

 私が病棟看護師の話を聞きかじって集めた情報――別に聞きたいわけではないけれど病棟にいると自然と耳に入ってくる――によると、髙村仁は今年度配属になった専攻医の中で一番の注目株だった。

 百七十センチ台後半の長身、短く清潔感のある黒髪、切れ長の理性的な瞳。
 そして、どことなく、某アイドルグループのメインボーカルに似ている気がする落ち着いた声。

 そういったところが人気らしかった。髙村仁は隣の席の看護師に「休日の過ごし方」を訊かれて「フットサル」と答えていた。想像通りだった。

 買ってもいない宝くじのようなものだ。私には縁のない、そういうもの。

 ほどなくして忘年会はお開きになって、盛り上がった集団は二次会のカラオケに流れていった。

 会費は先に支払ってあったし、一通りの義務は果たしただろうと、私はすっとその集団から距離を置いた。彼らは私がいなくなったことにも気づいていないだろう。そのまま会場の居酒屋から一番近い駅まで歩いた。

 声を掛けられたのは、駅に着いた時だった。

「山内さん」

 振り返ると七階病棟一番人気の競走馬が立っていた。

「俺、七階病棟の外科専攻医の髙村と言います」

 知っている。というか、七階で働いていて知らなかったら詐欺だ。

 カラオケには行かなかったのか。その声でバラードの一つや二つ歌えば、どの看護師でも持ち帰れそうなものなのに。

「ずっと、山内さんと話したいと思ってたんですけど。先輩に『死にたくなかったら看護師のいるところで他職種の女の人に話しかけるな』って言われてて、タイミングがなくて」

 なるほど、その先輩のアドバイスは正しい。うっかり私も七階で働けなくなるところだった。

「お聞きしたいことがあって。今度一緒に食事でもどうですか」

 どうしてその時断っておかなかったのか、理由は今でも分からない。

 手に飛び込んできた宝くじにうっかり目が眩んでしまったのかもしれないし、一番人気の競走馬が物珍しかったのかもしれない。

 果たして私は髙村仁と連絡先を交換し、一週間後に食事に誘われることになった。
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