スパダリ起業家外科医との契約婚
第一章 幼き日の憧れ
第一章 幼き日の憧れ
この物語のはじまりは、まだ涼子が十一歳の少女だった頃に遡る。
彼女は当時、小学校の高学年になったばかりで、放課後は兄・英盛の部屋にこっそりと忍び込むのがお気に入りの時間だった。
英盛が高校生になってからというもの、学校の話題や友人との関係は涼子にはなかなか縁遠いもので、だからこそ彼の持つ大人の世界に憧れや好奇心を抱いていたのだ。
ある日の夕方、涼子がいつものように英盛の部屋に入り、机のまわりをうろうろと物色していると、ふいに玄関のチャイムが鳴った。母が対応する声が聞こえ、続いて階段を上る足音がする。それからほどなくして、開いていた英盛の部屋のドアの向こうに、背の高い青年が立っていた。
漆黒の短髪、鋭い目つき——といっても、敵意に満ちたわけではなく、むしろどこか冷静さを携えた瞳。制服姿から察するに兄の同級生なのだろう。しかし当時の涼子には、その青年——高柳壮一郎は、他のどの高校生よりも大人びて見えた。
「英盛、いるか?」
低めの声で、ややぶっきらぼうに呼びかける。急いで立ち上がり、姿を見られないようにドアの陰に隠れようとする涼子だったが、もたついたせいで壮一郎と視線が合ってしまった。
「あ……」
子どものように驚きの声を上げる涼子。いつもはそこまで人見知りするわけではなかったが、相手が兄の“カッコいい”友人であると思うと、急に恥ずかしくなる。彼女の視線は大人びた黒い瞳に釘付けになった。
壮一郎は一瞬、無言で涼子を見つめた。しかし次の瞬間、すこしだけ目元が和らぎ、「邪魔したか?」と声をかける。もちろんそんなつもりはないのだが、場に居づらくなった涼子は小さく首を振ってから慌てて部屋を出ていった。
「おい、涼子。勝手に俺の部屋入るなって言っただろ」
背後で英盛が声を上げるのを聞きながら、涼子は階段を駆け下りてリビングへ逃げ込む。胸の奥がどきどきしていた。
相手は兄の友人——たった一言交わしただけなのに、不思議なほど印象に残る。厳しい光を湛えたような瞳、それなのにほんのわずか、優しさが混じっていた。十一歳の少女には理解しきれない、大人の雰囲気だった。
それから涼子は、兄の話題や会話の中に高柳壮一郎という名前が出るたび、意識して耳を傾けるようになった。
英盛によれば、壮一郎は、成績は常に学年トップ、医者の家系に生まれたエリートでありながら、驕った様子は見せず、無駄な社交には興味を示さないらしい。
放課後は図書室か理科室か、あるいは病院のボランティアに参加していることが多いらしく、「変わり者だけど頭が切れる」と評判になっているという。
「医者になりたいんだってさ。実家が病院持ってるから当然かもしんないけど、なんか奴は昔から“自分の手で人を助けたい”とか言ってるらしい」
英盛が少しだけ茶化すように言うのを、涼子はじっと聞いていた。
“人を助けたい”という言葉に、小さいながら胸を打たれるものがあった。ごく普通の家庭に育ち、将来の夢なんてまだぼんやりしていた涼子にとって、その一本筋の通った信念はとても格好よく映ったのだ。
それからしばらくの間、壮一郎が家に来るたび、涼子はキッチンや廊下の陰からひそかに彼の姿を伺った。兄と二人で談笑する声や、宿題のノートを広げる姿——英盛の部屋からは時々、「お前、これ絶対わかってねえだろ」なんて容赦ない突っ込みが響いて、英盛が「うるせーな」と拗ねる。そうして二人は笑い合いながら、分厚いテキストや模試の問題集を解いていた。
壮一郎は、いつだって背筋が伸びていて、涼子の幼い目には“完璧”に見えた。どこか近寄りがたい静謐なオーラがある一方で、人を突き放すほどの冷たさはない。彼がテーブルの上に置かれた飲みかけのコップに気を配ったり、英盛が解けずに苛立っているときにサラリとフォローしたりする姿を見るたびに、涼子の中で芽生えた小さな憧れは、いつしかほのかな恋心へと変わりはじめていた。
しかし、その感情はかけがえのない愛しさであると同時に、自分には不釣り合いな相手を想う切なさでもあった。七歳差というのは、十一歳の涼子にとってはとてつもなく大きな“壁”に感じられたのである。
実際、高校二年生の壮一郎は、来年、大学の医学部受験を控える身であり、英盛と遊ぶ時間すら限られていた。小学生の涼子が話しかけたところで、彼はどんな反応をするだろう……。そんな不安が先立って、結局、はっきり言葉を交わすこともなく、涼子は時々ほんの少し会釈するだけに留めていた。
それでも、ある日。涼子は家庭科の授業で作ったクッキーを兄の部屋に持っていった。英盛に渡そうと思っていたが、そのとき部屋にいたのは壮一郎だけだった。今さら逃げるわけにもいかない。涼子は緊張で固まったまま、黙り込んだ。
「……これ、お前が作ったのか?」
壮一郎が淡々とした口調で尋ねる。涼子はぎこちなくうなずいた。彼の黒い瞳には興味があるのかないのか、はかりがたい光が宿っている。
「へえ……香りは悪くないな。食っていいか?」
事務的にも聞こえるが、それでも彼がそう尋ねてくれたことに涼子は内心飛び上がるほど嬉しかった。「うん」と小さく答えると、壮一郎は一枚つまんで口に運んだ。そのあと、わずかに目を細め、苦いものを飲み込むような顔をする。
「……甘すぎないし、イケるな。ただ……もう少しバターの配分を増やしたほうがいいかもしれない。サクサク感が足りない」
まるで医学論文の問題点を挙げるようなクールな評価に、涼子は思わず固まった。それでも、彼がきちんと味をみて、率直な感想をくれたことに心が温かくなる。
「あ、ありがとう……ごめんなさい、まずかったら……」
「まずいとは言ってない。とっても美味いよ」
なんだか素っ気ない言葉だったが、クスリと笑いながら残りのクッキーを口にする壮一郎の姿が、涼子にとっては何にも代えがたいほど愛しく見えた。彼と目が合うと、思わず息が止まる。かすかに微笑んでいるようにも見える。
それから英盛が部屋に戻ってくると、二人のあいだに会話らしい会話は生まれなかった。
それでも涼子は、ちょっとした奇跡が起きたような気分になり、その日は寝るまで胸が高鳴っていたのだ。
だが、その後まもなくして壮一郎と英盛は大学受験を控え、バタバタと忙しくなった。自然と学業の時間が増え、壮一郎が家を訪ねてくる機会は減っていった。
―――そして、気づけば、あのクッキーの出来事以降、まともに言葉を交わす機会のないまま、十五年という長い年月が過ぎてしまったのだった。
この物語のはじまりは、まだ涼子が十一歳の少女だった頃に遡る。
彼女は当時、小学校の高学年になったばかりで、放課後は兄・英盛の部屋にこっそりと忍び込むのがお気に入りの時間だった。
英盛が高校生になってからというもの、学校の話題や友人との関係は涼子にはなかなか縁遠いもので、だからこそ彼の持つ大人の世界に憧れや好奇心を抱いていたのだ。
ある日の夕方、涼子がいつものように英盛の部屋に入り、机のまわりをうろうろと物色していると、ふいに玄関のチャイムが鳴った。母が対応する声が聞こえ、続いて階段を上る足音がする。それからほどなくして、開いていた英盛の部屋のドアの向こうに、背の高い青年が立っていた。
漆黒の短髪、鋭い目つき——といっても、敵意に満ちたわけではなく、むしろどこか冷静さを携えた瞳。制服姿から察するに兄の同級生なのだろう。しかし当時の涼子には、その青年——高柳壮一郎は、他のどの高校生よりも大人びて見えた。
「英盛、いるか?」
低めの声で、ややぶっきらぼうに呼びかける。急いで立ち上がり、姿を見られないようにドアの陰に隠れようとする涼子だったが、もたついたせいで壮一郎と視線が合ってしまった。
「あ……」
子どものように驚きの声を上げる涼子。いつもはそこまで人見知りするわけではなかったが、相手が兄の“カッコいい”友人であると思うと、急に恥ずかしくなる。彼女の視線は大人びた黒い瞳に釘付けになった。
壮一郎は一瞬、無言で涼子を見つめた。しかし次の瞬間、すこしだけ目元が和らぎ、「邪魔したか?」と声をかける。もちろんそんなつもりはないのだが、場に居づらくなった涼子は小さく首を振ってから慌てて部屋を出ていった。
「おい、涼子。勝手に俺の部屋入るなって言っただろ」
背後で英盛が声を上げるのを聞きながら、涼子は階段を駆け下りてリビングへ逃げ込む。胸の奥がどきどきしていた。
相手は兄の友人——たった一言交わしただけなのに、不思議なほど印象に残る。厳しい光を湛えたような瞳、それなのにほんのわずか、優しさが混じっていた。十一歳の少女には理解しきれない、大人の雰囲気だった。
それから涼子は、兄の話題や会話の中に高柳壮一郎という名前が出るたび、意識して耳を傾けるようになった。
英盛によれば、壮一郎は、成績は常に学年トップ、医者の家系に生まれたエリートでありながら、驕った様子は見せず、無駄な社交には興味を示さないらしい。
放課後は図書室か理科室か、あるいは病院のボランティアに参加していることが多いらしく、「変わり者だけど頭が切れる」と評判になっているという。
「医者になりたいんだってさ。実家が病院持ってるから当然かもしんないけど、なんか奴は昔から“自分の手で人を助けたい”とか言ってるらしい」
英盛が少しだけ茶化すように言うのを、涼子はじっと聞いていた。
“人を助けたい”という言葉に、小さいながら胸を打たれるものがあった。ごく普通の家庭に育ち、将来の夢なんてまだぼんやりしていた涼子にとって、その一本筋の通った信念はとても格好よく映ったのだ。
それからしばらくの間、壮一郎が家に来るたび、涼子はキッチンや廊下の陰からひそかに彼の姿を伺った。兄と二人で談笑する声や、宿題のノートを広げる姿——英盛の部屋からは時々、「お前、これ絶対わかってねえだろ」なんて容赦ない突っ込みが響いて、英盛が「うるせーな」と拗ねる。そうして二人は笑い合いながら、分厚いテキストや模試の問題集を解いていた。
壮一郎は、いつだって背筋が伸びていて、涼子の幼い目には“完璧”に見えた。どこか近寄りがたい静謐なオーラがある一方で、人を突き放すほどの冷たさはない。彼がテーブルの上に置かれた飲みかけのコップに気を配ったり、英盛が解けずに苛立っているときにサラリとフォローしたりする姿を見るたびに、涼子の中で芽生えた小さな憧れは、いつしかほのかな恋心へと変わりはじめていた。
しかし、その感情はかけがえのない愛しさであると同時に、自分には不釣り合いな相手を想う切なさでもあった。七歳差というのは、十一歳の涼子にとってはとてつもなく大きな“壁”に感じられたのである。
実際、高校二年生の壮一郎は、来年、大学の医学部受験を控える身であり、英盛と遊ぶ時間すら限られていた。小学生の涼子が話しかけたところで、彼はどんな反応をするだろう……。そんな不安が先立って、結局、はっきり言葉を交わすこともなく、涼子は時々ほんの少し会釈するだけに留めていた。
それでも、ある日。涼子は家庭科の授業で作ったクッキーを兄の部屋に持っていった。英盛に渡そうと思っていたが、そのとき部屋にいたのは壮一郎だけだった。今さら逃げるわけにもいかない。涼子は緊張で固まったまま、黙り込んだ。
「……これ、お前が作ったのか?」
壮一郎が淡々とした口調で尋ねる。涼子はぎこちなくうなずいた。彼の黒い瞳には興味があるのかないのか、はかりがたい光が宿っている。
「へえ……香りは悪くないな。食っていいか?」
事務的にも聞こえるが、それでも彼がそう尋ねてくれたことに涼子は内心飛び上がるほど嬉しかった。「うん」と小さく答えると、壮一郎は一枚つまんで口に運んだ。そのあと、わずかに目を細め、苦いものを飲み込むような顔をする。
「……甘すぎないし、イケるな。ただ……もう少しバターの配分を増やしたほうがいいかもしれない。サクサク感が足りない」
まるで医学論文の問題点を挙げるようなクールな評価に、涼子は思わず固まった。それでも、彼がきちんと味をみて、率直な感想をくれたことに心が温かくなる。
「あ、ありがとう……ごめんなさい、まずかったら……」
「まずいとは言ってない。とっても美味いよ」
なんだか素っ気ない言葉だったが、クスリと笑いながら残りのクッキーを口にする壮一郎の姿が、涼子にとっては何にも代えがたいほど愛しく見えた。彼と目が合うと、思わず息が止まる。かすかに微笑んでいるようにも見える。
それから英盛が部屋に戻ってくると、二人のあいだに会話らしい会話は生まれなかった。
それでも涼子は、ちょっとした奇跡が起きたような気分になり、その日は寝るまで胸が高鳴っていたのだ。
だが、その後まもなくして壮一郎と英盛は大学受験を控え、バタバタと忙しくなった。自然と学業の時間が増え、壮一郎が家を訪ねてくる機会は減っていった。
―――そして、気づけば、あのクッキーの出来事以降、まともに言葉を交わす機会のないまま、十五年という長い年月が過ぎてしまったのだった。
< 1 / 30 >