スパダリ起業家外科医との契約婚

第二章 兄の結婚式

 第二章 兄の結婚式

 時は流れ、涼子は二十六歳になった。

 地元の女子大を卒業し、小さな広告代理店に就職したが、この春に辞めてしまったばかりだった。
 理由は、つい先日、三年ほど付き合った彼氏にあっけなく振られてしまったこと——そのショックがあまりに大きく、ふと気づけば会社も退職を申し出ていたのだ。
 その男性は大学の同級生で、社会人になってから遠距離恋愛になったものの、真面目で優しい人物だと信じていた。だが、彼の仕事の都合で海外赴任の話が決まり、あっさりと「お前とは将来が想像できなくなった」と言われ、振られた。しかも彼には、すでに次の女性の影がちらついていたと噂される始末。
 裏切られたという悲しみと、将来への不安。さらに仕事でも上司との折り合いが悪かったため、心身ともに限界を感じてしまったのだ。

 実家の両親には「少し休んで、自分を見つめ直したらいい」と言われ、涼子は当面の家賃と生活費を何とかやり繰りしながら、一人暮らしのアパートで塞ぎ込むような日々を過ごしていた。
 面接に行く意欲もなかなか湧かない。とはいえ、いつまでもこうしていてはダメだとわかってはいるものの、心の傷はまだ癒え切らない。人間関係に対する不信感が残るなか、どんな仕事をしたいか、何のために働きたいか——自分の将来像がつかめずにいた。

 そんなときに、兄・英盛の結婚式が近づいてきた。
 英盛は三十三歳。会社勤めを経て、二年前からはベンチャーを立ち上げて社長として奮闘している。パートナーとしてともに起業したのが、かつての兄の高校時代の友人である高柳壮一郎だと聞かされたのは、ほんの数ヶ月前だった。

 「お前、知らなかったのか? 壮一郎と一緒に会社作ったんだよ。AIを使った医療インフラシステムで……ま、いろいろ大変だけど面白い。あいつがアメリカでいろいろ学んできたノウハウが大いに役立ってるよ」
 英盛は誇らしげにそう語っていた。涼子にしてみれば、高柳壮一郎の名前を久々に聞くこと自体が衝撃だった。
 十五年前、彼は兄の先輩であり、憧れの人だった。彼は大学を卒業後、大学病院で一年勤務した後、アメリカで二年間の臨床を積み、さらにMBAまで取得して帰国——まるで伝説のように華々しい経歴だ。

 「で、その壮一郎も俺の結婚式には出席してくれるぞ。お前、久しぶりに会うんじゃないか?」

 「……うん、そうだね」

 気まずさもあれば、どこか嬉しさも混じっている。
 子どもの頃の淡い想いは、ずっと封じ込めてきた。けれど、彼がどう成長しているのか、やはり気にならないわけがない。かつての思い出を振り返れば、淡々としながらも優しいまなざしや、あのクッキーを評価してくれた日が蘇る。
 今ならもう少し対等に話せるだろうか——いや、彼は今や天才外科医と起業家の二つの顔を持つエリートだ。そんな彼から見て、仕事を辞めて浮足立っている涼子など、きっと取るに足らない存在に違いない。

 しかし、結婚式は容赦なく日程を迎える。ドレスを新調する気力はなく、以前に買ったワンピースをクリーニングに出し、アクセサリーだけは母が貸してくれたパールのネックレスで間に合わせることにした。
 結婚式当日、ホテルのチャペルに集まった親族や友人たちの晴れやかな笑顔を前にすると、先日までの落ち込みから少し解放される思いがする。英盛が白いタキシード姿で新婦にエスコートされ、厳かに誓いの言葉を交わすシーンは、それだけで感動を呼んだ。

 披露宴が始まり、乾杯の音頭が取られ、スピーチが続く。そこに涼子も列席していたが、兄の友人らしき若い男性たちが次々に祝辞を述べる中で、どうしても目が合わずに意識してしまう相手がいた。そう——それが高柳壮一郎その人だった。
 彼は主賓席に近いテーブルで静かに座っている。その姿は印象的だった。美しく整えられた黒髪、白いシャツに黒のタキシードをきっちりと着こなし、その端正な顔立ちをさらに引き立てている。
 笑みを浮かべるでもなく、むしろ厳しいほどに真剣な表情で、結婚式の進行を見守っていた。

 たまに周囲が盛り上がると、申し訳程度にうなずいたり、わずかに口角を上げたりはする。それでも、どこか距離を置いた雰囲気がある。
 隣のテーブルに座った他の男性客や、新婦側の招待客と思しき女性たちが、時折彼に話しかけようとしている気配があっても、彼は必要最低限の受け答えだけで会話を終えていた。噂によれば、彼は女性にまったくなびかないという。医大時代からアメリカ留学時代に至るまで、幾度もアプローチを受けたにもかかわらず、誰とも付き合うことはなかったらしい。
 「でもわかるような気がするわ。あの人、ちょっと近寄りがたいし、天才外科医って感じがする」
 「しかもめっちゃハイスペックじゃない? 稼ぎもあって、実家は病院。外見も悪くない。そりゃ周りも黙ってないわよね……」
 テーブルに集う女性陣のひそひそ話を、涼子はなんとなく耳にしていた。
 兄からは聞いていたが、やはり壮一郎という男は相変わらずの“完璧超人”のようだ。だが、その完璧さゆえに“同じレベルの女性しか相手にしない”という噂もあるとか。生半可な魅力では、彼の気を引くことはできないのかもしれない。

 しばらくして、涼子はトイレに立った。心なしか緊張して落ち着かないからだ。洗面台でハンカチを濡らして手首を冷やしていると、足音が聞こえる。同じくトイレに来た女性ゲストたちが、鏡に映る涼子の姿を見て、「あら、新婦さんのご親族?」と軽く会釈する。涼子は笑顔でうなずくが、その中にクラモトホールディングスの令嬢と噂される倉本桜の姿があることに気づき、心がざわめいた。

 桜は華やかなドレスに身を包み、まばゆいほどのジュエリーを身につけていた。傍目にも相当に裕福な家庭の出身だとわかる、企業令嬢そのものだ。それも、売り上げ規模は高柳総合病院の三十倍とも言われる巨大企業だ。
 遠目に見てもわかる気品と気の強さが、桜の立ち居振る舞いには感じられた。

 ふと桜と目が合う。涼子は反射的に微笑んだが、桜は目を細めて何かを探るように涼子の表情を見つめ、それから軽く会釈を返した。
 その瞬間、何か鋭いものが胸を貫いたような、妙な感覚を覚える。——あの人は壮一郎とアメリカ時代の友人だとか。彼女も壮一郎のことが好きだという噂を英盛からちらりと聞いていた。

 (あんな美人で、おまけに大富豪の令嬢がライバルじゃ、敵うはずないよね……いや、私がライバルになるわけじゃないけど……)

 涼子は自嘲気味に思うが、そもそも壮一郎への想いは十五年前の淡い片想いの延長線。いまさらどうこう言える資格など自分にはないのだ。
 それでも、あのクラモトホールディングスの令嬢が壮一郎に興味を示しているという事実を前にすると、どうしてこんなにも胸がちくりと痛むのだろうか。
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