スパダリ起業家外科医との契約婚

第十四章 手紙

第十四章 手紙

 その日の夕方、壮一郎からは「急患が入った。今夜は遅くなる」と短いメッセージが届いただけだった。
 すでに何度も経験していることではあるが、今日の涼子には、その言葉が重くのしかかる。来るか来ないかすらわからない夫を、何の当てもなく待ち続けるのは、思った以上に切ない行為だった。

 (一年後、壮一郎さんは私のもとを離れてアメリカに行く。桜さんが一緒かもしれない。……私はどこにも居場所がないんじゃないか)

 そこへ思い浮かぶのは、昼間、彦造に懇願された「壮一郎を説得してほしい」という言葉。
 彼のアメリカ行きは止められないだろうし、だからといって病院経営を放置すれば伊庭が勢力を拡大するだろう。涼子にはどうにもできない。自分はただの素人で、病院の経営に口を出す権限もなければ知識もないし、桜のように強いビジネスのコネクションもない。

 このまま一緒にいれば、最後は壮一郎の夢を縛るような形になってしまうかもしれない——。ましてや桜のように彼と同レベルの“ビジネスパートナー”にすらなれない。兄にも推されて契約上の結婚を承諾した自分は、本当にただ"いる"だけの存在で、本当に壮一郎の力になれていないのではないだろうか。むしろ、彼や高柳家にとって足手まといな存在なのではないか。
 この結婚は、一年の契約期限を迎えれば自然に解消される。ならば、今のうちに身を引いてしまうほうが、お互いのためなのかもしれない。

 そんな考えが頭を支配するうちに、居ても立ってもいられなくなった。涼子はノートに走り書きをするようにメモを残し、最低限の荷物だけを小さなバッグに詰め込む。

 「ごめんなさい。私、少し実家に戻ります。
 こんな形で離れるのは失礼だけど……本当にごめんなさい。涼子」

 これだけの短い文面に、どれほどの思いが詰まっているのか、壮一郎は知る由もないだろう。けれど涼子は文字を書くたびに涙があふれそうになるのを必死でこらえた。

 玄関のドアを開けたとき、夜風の冷たさが肌を刺した。その冷気にほんのわずか救われる思いがする。
 部屋の明かりを消し、涼子はドアをそっと閉めてマンションを出た。背後に広がる暗い廊下を振り返りそうになるが、ぐっと堪えて一歩を踏み出す。

 (ごめんね、壮一郎さん。私、これ以上好きになってしまったら、本当に別れるときが辛いの。——あなたにはあなたの未来があるから)

 自分を奮い立たせるように、涼子は靴のかかとを鳴らしながら夜の街へと飛び出していった。
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