スパダリ起業家外科医との契約婚

第十三章 父

第十三章 父

翌日、涼子は一人で自宅にいた。壮一郎は早朝から病院へ向かったらしく、すでに姿はない。
そろそろ洗濯でもしようかと動きかけたところで、突然の来客を知らせるインターホンが鳴り響く。モニターを見ると、そこに映っていたのは壮一郎の父——高柳彦造その人だった。

(えっ……お義父様が、どうして?)

思わぬ訪問に動揺を隠せないまま、涼子は慌てて身だしなみを整え、ドアを開ける。
そこには白髪混じりの髪をきちんと撫でつけ、精悍な面差しをした高柳総合病院の院長・高柳彦造が立っていた。威厳を漂わせながらも、どこか温かみを感じさせる雰囲気の男性だ。

「涼子さん、どうも突然すまないね。壮一郎はまだいるかい?」

「あ、はい……朝早く出かけてしまいました。病院に行かれたんだと思いますが……」

涼子の返答に彦造はうなずき、「そうか」と静かに息をついた。もともと壮一郎と会うつもりでやって来たのだろう。
しかし、事情が変わったのか、立ち去る気配はない。

「では悪いが、あなたと少し話をさせてもらっていいかな」

急な申し出に驚きつつ、涼子は断る理由もないため、彦造を部屋の中へ案内する。リビングのソファに腰掛けると、彼はまっすぐ涼子を見つめた。

「涼子さん、壮一郎とこうして夫婦になってくれたことは、本当に感謝している。あれだけ頑固で、仕事以外のことには目もくれなかった息子が、あなたを選んだのだからね」

柔らかい口調だが、どこか含みを感じる。その言葉が“結婚”という形式的なものへの評価なのか、本心で喜んでいるのか、涼子には測りかねる。
しかし彦造の次の言葉は、そんな迷いを払うように真剣味を帯びていた。

「実は、そろそろ病院の経営を壮一郎に譲りたいと思っているんだ。この数年、私も体力的に無理がきかなくなってきた。けれど、壮一郎は外科医としてオペに集中したがっているし、英盛くんとのビジネスの件があることも知っている。そこに加えて……噂は知っていると思うが、私の甥である伊庭秀一が、経営権を本格的に狙ってきているんだ」

伊庭秀一。涼子も話に聞いたことがある。高柳一族の中でも、医師免許を持たずに病院の役員に入り、利益追求型の経営を進めようとしている人物だ。
以前、壮一郎が「あいつは金儲けのためなら手段を選ばない」と語っていたのを思い出す。

「伊庭には、黒い噂が多々ある。表立っては証拠を掴めていないが、医薬品の仕入れでの癒着や不正会計など、いろいろと不穏な動きがあるらしい。私は院長として、患者の命を預かる病院がそんな不正に染まることを絶対に許せない。だからこそ、早く壮一郎に院長職を継いでもらい、経営をしっかり掌握してほしいと思っている」

彦造の眼差しは厳かだが、そこに宿るのは真摯な願い。——だが、壮一郎がすぐに病院経営に専念するつもりはない。涼子もそれは知っている。彼は外科医としてのキャリアを断念する気など微塵もないし、英盛とのベンチャーでの活動も優先したいと思っている。

「そう……ですか。でも、壮一郎さんはきっと、まだ続けたいことが……」

涼子がそう言いよどむと、彦造はうなずきながら苦しげに口を開く。

「もちろん、すぐにと言うつもりはない。しかし、伊庭は着々と一部の役員を味方につけ始めている。じきに病院の経営にも大きな影響力を行使するようになってくるだろう」

「……そんな……。それでは高柳総合病院が危ないですよね」

「そうだ。この病院は、ここで働く何百人ものスタッフと、地域の患者さんたちの人生を支える場所だ。それを伊庭の金儲けの道具にされてはたまらない」

彦造は真摯に訴える。その重たい現実を前に、涼子は言葉を失った。まさかここまで差し迫った危機があるとは思っていなかった。

「涼子さん、あなたからも壮一郎を説得してやってほしい。外科医として忙しいのはわかるが、病院経営を守れるのは、最終的に壮一郎だけなんだ。私が生きているうちにできる限りの力添えはする。だが、私の体力が尽きたあとで、伊庭が病院を乗っ取るような事態になれば、これまで築き上げてきた医療の理念が根本から崩れてしまうかもしれない」

「……私が、説得……」

まさか、自分のような立場の者がそこまで大きな役割を担うとは思っていなかった。だが彦造は、その強い眼差しを涼子に向けたまま、一縷の望みにすがるように言い募る。

「外科の道を捨てろとは言わない。しかし、“いずれは高柳総合病院を背負って立つ”という意思表示を周囲に示すだけでも、伊庭の動きは鈍るはずだ。英盛くんのビジネスも大切だろうが……壮一郎は一人しかいない。病院を救えるのは、あの子の力しかないんだ」

涼子は視線を落としたまま、申し訳なさが込み上げる。自分には、壮一郎の未来を強制するような資格などない。けれど、彦造の切実な思いも痛いほどにわかる。病院を守りたいという信念は、患者やスタッフたちのためを想う気高い願いだ。

「……私にできることがあれば。……でも、あの……壮一郎さんは……きっと……」

声が震える。壮一郎は一年後、アメリカに戻るつもりでいる。日本の病院経営を今すぐ引き受けるような心構えはないはずだ。しかも、その帰国後はどうするのかも定まっていない。涼子が余計な口を挟むのは、むしろ彼の夢を潰すことになるかもしれない。でも、彦造は最後まで諦めないような表情を浮かべ、涼子の手をそっと握った。

「頼む、涼子さん。壮一郎と最も近い場所にいるあなたにしか、できないことがある。私は息子を信用しているが、あの子の頑固さや融通の利かなさにも困っている。どうか、あなたの言葉で、あの子の将来を考え直させてやってほしい」

その言葉を最後に、彦造は静かに立ち上がり、部屋を後にした。

彦造が去ったあと、涼子はしばらくソファに座り込んでいた。
胸の中は嵐のような思いが駆け巡る。——彼は一年後にアメリカへ行きたい。父は病院を守ってほしいと願っている。自分は、そんな彼らの思いの板挟みになっている。しかも、この結婚は一年で終わるかもしれない契約結婚だ。このまま好きな気持ちを抱えたまま、一年後に別れを迎えたら、きっと耐えられないだろう。だったらいっそ、今のうちに身を引いたほうがいいのかもしれない……。

静かな部屋の中で、涼子は震える指先を見つめながら、切なく絞られた心の声を必死に押し殺そうとした。
< 13 / 30 >

この作品をシェア

pagetop