スパダリ起業家外科医との契約婚
第十六章 二人
第十六章 二人
静寂を孕んだ夜のオフィス。その一室から出るとき、涼子は胸が高鳴りすぎて苦しかった。
英盛が部屋を出て行ったあと、壮一郎と言葉を交わしたのは短い会話だけ。「家に帰ろう」と——たった一言。それ以上の説明もなく、強引でもなければ優しいともつかない調子で、彼は涼子の手を取り扉を開けた。
声の調子に怒気がこもっているわけではないが、どこか抑えきれない焦燥と緊張感が隠れているように感じられた。
それでも、涼子は黙ってうなずいた。問いかけたいことは山ほどあるのに、今は言葉を口にできない。
車に乗り込み、エンジンがかかると同時に窓の外の闇がゆっくりと動き始める。助手席に乗った涼子はちらりとハンドルを握る壮一郎の横顔を盗み見たが、彼の表情はいつもより険しく見えた。
車内に広がる気まずい沈黙。エアコンのかすかな音だけが耳にまとわりつく。気を紛らわそうと、涼子は視線を前方に戻して通り過ぎていく街灯の明かりを眺めた。少しだけ走ったところで、我慢できなくなり、恐る恐る口を開く。
「……あの、今夜はオペがあるんじゃなかったんですか? ‘遅くなる’って言ってましたよね」
そっと疑問を投げかけると、壮一郎は視線を前方に据えたまま答えた。
「急患のオペが入る予定だった。だけど、実際に患者を診察してみたら、少し経過を見ても問題ないケースだと判断されたんだ。だから俺は一度帰ろうと思って病院を抜け出したんだよ」
「じゃあ、この後また病院に戻るんですか」
「いや、今日はもう戻らない。別の医師に任せることにしたよ」
それを聞いて、涼子ははっとする。——では、彼は再度病院に戻ろうとしていたのに、勝手に家を出てしまった私を探してくれた……。そう思うと、申し訳なさと同時に、心の奥で、ほんのわずかな“喜び”が胸を満たす。
「……ごめんなさい」
何を謝ればいいのか、自分でも分からなかった。ただ、そこに乗せたのは自分の胸の痛みと、彼への申し訳なさ。
壮一郎は答えず、ハンドルを握る手に力を込めているように見える。その握力に、怒りがこもっているのだろうか。あるいは、ただ焦燥しているだけなのか。涼子には判断がつかない。
結局、二人はそれ以上言葉を交わすことなく、車はマンションの駐車場へ滑り込んだ。ドアを開け、外の風が肌に触れたとき、さっきから張り詰めていた緊張がほんの少し緩む。
エントランスからエレベーターに乗り込み、自宅のドアを開ける。馴染みのあるリビングの光景が飛び込んできた。それなのに、どこかよそよそしい空気を感じるのは、さきほど自分が置き手紙をして飛び出した名残が胸に刺さっているからだろう。
カチッ、と照明を点ける。まだ一日も経っていないはずなのに、まるで何日も不在だったような寂しさが漂っている。壮一郎はスーツの上着を乱雑にソファに置き、ネクタイをゆるめながら軽く溜め息をついた。
「……何か食事を作るね。あんまりお腹が空いてないなら、軽いものでも」
涼子は急いでエプロンを取り出し、キッチンに向かった。落ち着かない気分のまま、冷蔵庫を開ける。ある程度の食材は買ってあったから、簡単に作れる野菜スープでも用意しよう。キャベツと玉ねぎ、それに鶏肉のストックがあれば十分だ。少し温かいものを口にすれば、気持ちが落ち着くかもしれない。
まな板の上でトントンと包丁を動かしながら、涼子はそっと鍋を準備する。コンソメベースのスープにして、仕上げにパセリを散らして……頭の中で段取りを組み立てる。こうして何かに集中していると、気持ちが少しだけ楽になる気がした。
煮込みながら味を確かめ、食卓に椅子をセットする。だが、壮一郎はリビングで座るでもなく、ただ無言でスマートフォンを見ているようだった。もしかしたら英盛や病院からメッセージが入っているのかもしれない。待ちかまえている患者さんの容態が急変していないか気がかりなのだろうか。
やがてスープが煮立ち、香りがふわりと部屋に広がる。涼子は火を止めて、鍋を軽く混ぜる。その温かい香りがかすかに安心をもたらすが、心の底のざわめきは消えない。
「……できたよ。一応、パンも少し焼いてみた。お腹、どうかな?」
おずおずと声をかけると、壮一郎はスマホをソファに置き、テーブルに近寄ってきた。テーブルにつくと、ふわりと立ち上る湯気を見つめ、深いため息のような呼吸をする。
「すまない。ありがとう。涼子も食べるだろう?」
「うん、少しだけ……」
会話はそれだけ。二人ともぎこちないままに、静かにスプーンを動かす。熱いスープを一口含むと、やわらかく煮えた野菜がじんわりと胃に染み込んでいく。普段なら「おいしい」「味が薄い」「ここの具材が多いな」など壮一郎のささやかなコメントがあるはずなのに、今夜は何も聞こえない。
重苦しい沈黙だけが室内を支配していた。
食事を終えたあと、涼子は慌ただしく食器を洗い、キッチンを片付ける。背後に壮一郎の気配を感じるものの、振り向くのが怖かった。やはり彼は怒っているのではないか。自分のせいで病院の大事な仕事を放り出すようなかたちになったのだとしたら、その責任を感じるだろう。
もちろん、桜や院長、伊庭の件に関しても、まともに話し合わねばならないと頭では分かっている。けれどいざ向き合うとなると、気持ちが萎縮してしまいそうだ。
やがて、シャワーを浴びるという壮一郎の足音がバスルームへ消え、しばらくしてシャワーの水音が止む。涼子はその間も、部屋の中を片付けたり、テーブルを拭き掃除したりして落ち着かない。考えれば考えるほど、自分のしてしまったことの大きさを痛感してしまう。
数十分後、濡れた髪をタオルで拭きながらバスルームから出てきた壮一郎は、いつもよりラフな部屋着姿だった。Tシャツに薄手のスウェットのパンツ。その胸元に浮かぶ筋肉のラインが、ほんの少し色香を帯びて見える。けれど、その表情は相変わらず硬い。
彼はリビングの照明を少し落とし、ソファに腰掛けると、涼子に短く声をかけた。
「……涼子、話がある。ここに座ってくれないか?」
ドキリと胸が騒ぐ。まるで叱責を受ける子供のように感じてしまい、涼子はうなだれながらもソファの隣に腰を下ろす。
壮一郎との距離はわずか数十センチ。けれど、その小さな空間がまるで絶壁のように感じられた。
壮一郎は、一瞬ためらうように息を吸った。それから、低く静かな声で切り出す。
「まずは……勝手に家を出た理由を聞きたい。あの手紙だけじゃ、よくわからなかったから」
涼子はギュッと拳を握りしめる。どこから話すべきか、頭の中が混乱してしまう。しかし、ここで逃げてはいけないと自分に言い聞かせ、震える声を必死にこらえながら口を開いた。
「……ごめんなさい、本当に。私……桜さんのことや、院長先生のこと……いろいろ聞いてしまって。あなたが一年後にアメリカへ行くって話してるのも知って。それで……やっぱり私なんかじゃ役に立てないんだと思って」
「役に立てない?」
「うん。あなたは外科医としても、経営者としても、あまりに大きな夢を持っている。それに対して私は……契約結婚という形で、むしろ足かせになってるんじゃないかって。それならいっそ離れたほうがいいのかもしれないと……思ってしまったの」
声が震え、最後はか細い音に変わる。
壮一郎は黙ったまま涼子を見つめている。責められる覚悟で涼子は目を閉じ、歯を食いしばる。
「それに……桜さんが、あなたとアメリカに戻るつもりだって言ってるのを聞いてしまって。仕事上のパートナーとして、そしてもしかしたら……公私ともに、あなたを支えられる立場にいるのは彼女なんじゃないかって……。私、何もできないし……」
口にしてみると、自分の不安と絶望感が改めて胸にずしりと重くのしかかる。
少しの静寂ののち、壮一郎は唇を引き結び、静かに息を吐いた。
「……そうか。やっぱり桜が余計なことを言ったんだな。あいつのことは俺も信用していないわけじゃないけど、ビジネスの野心が強すぎる。お前には直接言っていないと思うが……いや、言っていた可能性が高いな。あいつがどんな話を吹き込んだか、想像がつく」
「……でも、院長先生も、伊庭さんのことであなたを頼っているみたいで。あなたが病院経営をやらなきゃ……高柳総合病院が危ないんじゃないかって」
義父の話を蒸し返すと、壮一郎はわずかに苦い表情を浮かべる。そして、ほんの短いため息をこぼした。
「父の気持ちはわかってる。俺自身、病院を守らなきゃいけないという義務感はある。でも、今すぐ経営に専念するつもりはない。いずれアメリカに渡って、さらなる医療技術や国際的なネットワークを手に入れたい……それは決して、病院を捨てるという意味じゃないんだ」
涼子は目を伏せながら、その言葉に耳を澄ます。
彼の静かな声からは、確かな情熱が感じられる。英盛が言っていたように、壮一郎は壮一郎なりに、誰より大きなスケールで医療を変えようとしているのだろう。
「でも、俺のそんな状況に、涼子を巻き込んでしまったことは事実だ。契約結婚なんて形で縛るようなことをして……何も説明もせず、ただ放置した。不安になるのも当然だ」
そう言って、壮一郎はぐっと目を閉じ、眉間に皺を寄せている。医師としては天才的な腕を振るうこの男が、こんなにも弱々しく、申し訳なさそうな表情を見せるのは珍しい。胸がぎゅっと締め付けられる。
「……俺が言いたいのは、決して涼子を都合よく利用しているわけじゃないってことだ。契約結婚だから適当に扱っていいなんて、一度も思ったことはない。むしろ、俺は……」
言いよどんだ壮一郎の瞳が、苦悩と情熱を混ぜ合わせたような複雑な色を帯びる。涼子は思わず吸い込まれそうになるくらい、彼の視線が熱を持っていた。
「外科医としての仕事も、英盛と進めるビジネスのことも、俺にとっては大切だ。でも……涼子はそれ以上に大事な存在なんだ」
その言葉を聞いた瞬間、涼子の胸が強く震えた。——“それ以上に大事”……?まるで夢を聞いているようで信じられない。
壮一郎がもつまぶしすぎるくらいの大きな夢、自分を“それ以上に大事”だと言ってもらえるなんて。
「俺は、涼子が誰かと一緒になる……それが耐えられなかった。だから、父に結婚を急かされていたのをいいことに、半ば強引に巻き込んだ。それで涼子を不安にさせていたんだな……本当にすまない」
壮一郎の声がかすかに震える。彼はいつもクールで、感情を表に出すことを嫌うのに、今はその奥底の思いがあふれて止められないようだ。
涼子はそっと唇を噛み、あふれそうになる涙をこらえる。
「私は……ただ、自分があなたの邪魔になるのが怖かった。あなたには大きな夢があるし、世界を舞台に活躍しようとしてるから。私なんか、足手まといでしかないって思ったの。でも……本当は……」
——本当は、好きでたまらない。だけど、口に出す勇気がまだ湧かない。
幼い頃から憧れ、今はあのころ比べ物にならない深い感情を抱いている。でも、言葉にするのが怖いのだ。自分の想いが重荷になってしまわないか。……まだその不安から抜け出すことができない。
そんな涼子の沈黙を感じ取ったのか、壮一郎は優しい動作で涼子の手をそっと包む。
「涼子。お前の存在は、夢や仕事以上に大きいんだ。俺にとって大切なのは、お前だけだ。……だから、言わせてくれ」
鼓動が激しくなる。涼子は壮一郎の瞳から逃れられない。まるで、そこに吸い込まれていくような感覚に包まれる。次に彼が紡いだ言葉は、涼子の耳を震わせ、胸の奥底を甘く熱く揺らした。
「愛してる。……契約結婚ではなく正真正銘の夫婦として、これからも一緒にいてほしい」
一瞬、時が止まったように感じた。壁時計の針の音、冷蔵庫のモーターの音、そんな生活音が遠くに溶けていく。涼子の心の中で壮一郎の言葉が何度も響く。その言葉はまるで奇跡のようだ。
彼の瞳は深い色彩を帯びており、涼子の返事を一身に待っている。胸が高鳴り、息が苦しくなるほどの幸福感が押し寄せてくる。たとえ自分には大層な力がなくても、彼にとっては必要な存在なのだと——信じていいのだろうか。
「……私も……あなたと、一緒にいたい。……ずっと、あなたのそばにいたい……」
愛していると、まだ言葉にできない。でも、想いはきっと伝わっているはず。
そう思った瞬間、壮一郎の腕がぐっと伸びて涼子を引き寄せた。その力はやや強引ともいえるが、それ以上に彼の熱が全身に伝わる。
「……ありがとう」
涼子の耳元で壮一郎が微かにささやく。その吐息が優しく首筋をくすぐり、涼子は思わず小さく身を震わせた。
次の瞬間、視界がゆっくり揺らぎ、彼の顔が近づいてくるのがわかる。頬、鼻先、そして唇が触れ合う。
——初めてのキスは、予想していたよりずっと切なく、甘く、胸が焦げるような熱をもたらした。触れ合うだけのソフトなものから、少しずつ角度や圧が変化し、涼子は戸惑いと恥ずかしさを覚えながらも、抗えない力に飲み込まれていく。壮一郎の唇は意外なほど優しくて、けれど大胆に涼子の呼吸を奪う。息苦しいような、でもそれ以上に恍惚とした感覚が体を支配する。
「っ……は……」
わずかに唇を離したとき、涼子は酸素を取り込むようにかすれた呼吸をした。頬が熱い。壮一郎もやや荒い息づかいのまま、涼子の髪をそっと撫でる。その指先の動きさえも愛おしくて、もうこれ以上我慢する必要はないと思えた。
「……ほんとはもっと早く、こうしたかった」
低く切ない声。涼子は彼の胸に顔をうずめたまま、そっと首を振る。
自分だって、この瞬間をどれほど待ち望んだか分からない。契約だとか期限つきの結婚だとか、そんな言葉に押し潰される前に、もっと素直になれたらどんなに良かっただろう。
壮一郎は涼子の肩を抱き寄せ、もう一度唇を重ねる。まぶたを閉じ、彼の熱を全身で感じる。ドキドキと波打つ鼓動は、二人の体温をますます上げていく。
「……愛してる、涼子」
彼が手を伸ばし、涼子の髪を撫でながら囁く声は、さっきまでとは違う穏やかで深い響きだ。
触れ合う指先から伝わるのは、お互いを失いたくないという静かな情熱。
壮一郎の腕の中で涼子は微かな恥じらいと、満ち足りた幸福を同時に感じていた。ドキドキと鳴り止まない胸の音が、彼にも伝わってしまうだろう。それでも、もう不安はない。
自分でも知らなかった感覚がじわじわと目覚めるようで、思わず身震いしながら壮一郎の肩にしがみついた。
それは涼子と壮一郎が迎えた“初めての夫婦としての夜”だった——。
静寂を孕んだ夜のオフィス。その一室から出るとき、涼子は胸が高鳴りすぎて苦しかった。
英盛が部屋を出て行ったあと、壮一郎と言葉を交わしたのは短い会話だけ。「家に帰ろう」と——たった一言。それ以上の説明もなく、強引でもなければ優しいともつかない調子で、彼は涼子の手を取り扉を開けた。
声の調子に怒気がこもっているわけではないが、どこか抑えきれない焦燥と緊張感が隠れているように感じられた。
それでも、涼子は黙ってうなずいた。問いかけたいことは山ほどあるのに、今は言葉を口にできない。
車に乗り込み、エンジンがかかると同時に窓の外の闇がゆっくりと動き始める。助手席に乗った涼子はちらりとハンドルを握る壮一郎の横顔を盗み見たが、彼の表情はいつもより険しく見えた。
車内に広がる気まずい沈黙。エアコンのかすかな音だけが耳にまとわりつく。気を紛らわそうと、涼子は視線を前方に戻して通り過ぎていく街灯の明かりを眺めた。少しだけ走ったところで、我慢できなくなり、恐る恐る口を開く。
「……あの、今夜はオペがあるんじゃなかったんですか? ‘遅くなる’って言ってましたよね」
そっと疑問を投げかけると、壮一郎は視線を前方に据えたまま答えた。
「急患のオペが入る予定だった。だけど、実際に患者を診察してみたら、少し経過を見ても問題ないケースだと判断されたんだ。だから俺は一度帰ろうと思って病院を抜け出したんだよ」
「じゃあ、この後また病院に戻るんですか」
「いや、今日はもう戻らない。別の医師に任せることにしたよ」
それを聞いて、涼子ははっとする。——では、彼は再度病院に戻ろうとしていたのに、勝手に家を出てしまった私を探してくれた……。そう思うと、申し訳なさと同時に、心の奥で、ほんのわずかな“喜び”が胸を満たす。
「……ごめんなさい」
何を謝ればいいのか、自分でも分からなかった。ただ、そこに乗せたのは自分の胸の痛みと、彼への申し訳なさ。
壮一郎は答えず、ハンドルを握る手に力を込めているように見える。その握力に、怒りがこもっているのだろうか。あるいは、ただ焦燥しているだけなのか。涼子には判断がつかない。
結局、二人はそれ以上言葉を交わすことなく、車はマンションの駐車場へ滑り込んだ。ドアを開け、外の風が肌に触れたとき、さっきから張り詰めていた緊張がほんの少し緩む。
エントランスからエレベーターに乗り込み、自宅のドアを開ける。馴染みのあるリビングの光景が飛び込んできた。それなのに、どこかよそよそしい空気を感じるのは、さきほど自分が置き手紙をして飛び出した名残が胸に刺さっているからだろう。
カチッ、と照明を点ける。まだ一日も経っていないはずなのに、まるで何日も不在だったような寂しさが漂っている。壮一郎はスーツの上着を乱雑にソファに置き、ネクタイをゆるめながら軽く溜め息をついた。
「……何か食事を作るね。あんまりお腹が空いてないなら、軽いものでも」
涼子は急いでエプロンを取り出し、キッチンに向かった。落ち着かない気分のまま、冷蔵庫を開ける。ある程度の食材は買ってあったから、簡単に作れる野菜スープでも用意しよう。キャベツと玉ねぎ、それに鶏肉のストックがあれば十分だ。少し温かいものを口にすれば、気持ちが落ち着くかもしれない。
まな板の上でトントンと包丁を動かしながら、涼子はそっと鍋を準備する。コンソメベースのスープにして、仕上げにパセリを散らして……頭の中で段取りを組み立てる。こうして何かに集中していると、気持ちが少しだけ楽になる気がした。
煮込みながら味を確かめ、食卓に椅子をセットする。だが、壮一郎はリビングで座るでもなく、ただ無言でスマートフォンを見ているようだった。もしかしたら英盛や病院からメッセージが入っているのかもしれない。待ちかまえている患者さんの容態が急変していないか気がかりなのだろうか。
やがてスープが煮立ち、香りがふわりと部屋に広がる。涼子は火を止めて、鍋を軽く混ぜる。その温かい香りがかすかに安心をもたらすが、心の底のざわめきは消えない。
「……できたよ。一応、パンも少し焼いてみた。お腹、どうかな?」
おずおずと声をかけると、壮一郎はスマホをソファに置き、テーブルに近寄ってきた。テーブルにつくと、ふわりと立ち上る湯気を見つめ、深いため息のような呼吸をする。
「すまない。ありがとう。涼子も食べるだろう?」
「うん、少しだけ……」
会話はそれだけ。二人ともぎこちないままに、静かにスプーンを動かす。熱いスープを一口含むと、やわらかく煮えた野菜がじんわりと胃に染み込んでいく。普段なら「おいしい」「味が薄い」「ここの具材が多いな」など壮一郎のささやかなコメントがあるはずなのに、今夜は何も聞こえない。
重苦しい沈黙だけが室内を支配していた。
食事を終えたあと、涼子は慌ただしく食器を洗い、キッチンを片付ける。背後に壮一郎の気配を感じるものの、振り向くのが怖かった。やはり彼は怒っているのではないか。自分のせいで病院の大事な仕事を放り出すようなかたちになったのだとしたら、その責任を感じるだろう。
もちろん、桜や院長、伊庭の件に関しても、まともに話し合わねばならないと頭では分かっている。けれどいざ向き合うとなると、気持ちが萎縮してしまいそうだ。
やがて、シャワーを浴びるという壮一郎の足音がバスルームへ消え、しばらくしてシャワーの水音が止む。涼子はその間も、部屋の中を片付けたり、テーブルを拭き掃除したりして落ち着かない。考えれば考えるほど、自分のしてしまったことの大きさを痛感してしまう。
数十分後、濡れた髪をタオルで拭きながらバスルームから出てきた壮一郎は、いつもよりラフな部屋着姿だった。Tシャツに薄手のスウェットのパンツ。その胸元に浮かぶ筋肉のラインが、ほんの少し色香を帯びて見える。けれど、その表情は相変わらず硬い。
彼はリビングの照明を少し落とし、ソファに腰掛けると、涼子に短く声をかけた。
「……涼子、話がある。ここに座ってくれないか?」
ドキリと胸が騒ぐ。まるで叱責を受ける子供のように感じてしまい、涼子はうなだれながらもソファの隣に腰を下ろす。
壮一郎との距離はわずか数十センチ。けれど、その小さな空間がまるで絶壁のように感じられた。
壮一郎は、一瞬ためらうように息を吸った。それから、低く静かな声で切り出す。
「まずは……勝手に家を出た理由を聞きたい。あの手紙だけじゃ、よくわからなかったから」
涼子はギュッと拳を握りしめる。どこから話すべきか、頭の中が混乱してしまう。しかし、ここで逃げてはいけないと自分に言い聞かせ、震える声を必死にこらえながら口を開いた。
「……ごめんなさい、本当に。私……桜さんのことや、院長先生のこと……いろいろ聞いてしまって。あなたが一年後にアメリカへ行くって話してるのも知って。それで……やっぱり私なんかじゃ役に立てないんだと思って」
「役に立てない?」
「うん。あなたは外科医としても、経営者としても、あまりに大きな夢を持っている。それに対して私は……契約結婚という形で、むしろ足かせになってるんじゃないかって。それならいっそ離れたほうがいいのかもしれないと……思ってしまったの」
声が震え、最後はか細い音に変わる。
壮一郎は黙ったまま涼子を見つめている。責められる覚悟で涼子は目を閉じ、歯を食いしばる。
「それに……桜さんが、あなたとアメリカに戻るつもりだって言ってるのを聞いてしまって。仕事上のパートナーとして、そしてもしかしたら……公私ともに、あなたを支えられる立場にいるのは彼女なんじゃないかって……。私、何もできないし……」
口にしてみると、自分の不安と絶望感が改めて胸にずしりと重くのしかかる。
少しの静寂ののち、壮一郎は唇を引き結び、静かに息を吐いた。
「……そうか。やっぱり桜が余計なことを言ったんだな。あいつのことは俺も信用していないわけじゃないけど、ビジネスの野心が強すぎる。お前には直接言っていないと思うが……いや、言っていた可能性が高いな。あいつがどんな話を吹き込んだか、想像がつく」
「……でも、院長先生も、伊庭さんのことであなたを頼っているみたいで。あなたが病院経営をやらなきゃ……高柳総合病院が危ないんじゃないかって」
義父の話を蒸し返すと、壮一郎はわずかに苦い表情を浮かべる。そして、ほんの短いため息をこぼした。
「父の気持ちはわかってる。俺自身、病院を守らなきゃいけないという義務感はある。でも、今すぐ経営に専念するつもりはない。いずれアメリカに渡って、さらなる医療技術や国際的なネットワークを手に入れたい……それは決して、病院を捨てるという意味じゃないんだ」
涼子は目を伏せながら、その言葉に耳を澄ます。
彼の静かな声からは、確かな情熱が感じられる。英盛が言っていたように、壮一郎は壮一郎なりに、誰より大きなスケールで医療を変えようとしているのだろう。
「でも、俺のそんな状況に、涼子を巻き込んでしまったことは事実だ。契約結婚なんて形で縛るようなことをして……何も説明もせず、ただ放置した。不安になるのも当然だ」
そう言って、壮一郎はぐっと目を閉じ、眉間に皺を寄せている。医師としては天才的な腕を振るうこの男が、こんなにも弱々しく、申し訳なさそうな表情を見せるのは珍しい。胸がぎゅっと締め付けられる。
「……俺が言いたいのは、決して涼子を都合よく利用しているわけじゃないってことだ。契約結婚だから適当に扱っていいなんて、一度も思ったことはない。むしろ、俺は……」
言いよどんだ壮一郎の瞳が、苦悩と情熱を混ぜ合わせたような複雑な色を帯びる。涼子は思わず吸い込まれそうになるくらい、彼の視線が熱を持っていた。
「外科医としての仕事も、英盛と進めるビジネスのことも、俺にとっては大切だ。でも……涼子はそれ以上に大事な存在なんだ」
その言葉を聞いた瞬間、涼子の胸が強く震えた。——“それ以上に大事”……?まるで夢を聞いているようで信じられない。
壮一郎がもつまぶしすぎるくらいの大きな夢、自分を“それ以上に大事”だと言ってもらえるなんて。
「俺は、涼子が誰かと一緒になる……それが耐えられなかった。だから、父に結婚を急かされていたのをいいことに、半ば強引に巻き込んだ。それで涼子を不安にさせていたんだな……本当にすまない」
壮一郎の声がかすかに震える。彼はいつもクールで、感情を表に出すことを嫌うのに、今はその奥底の思いがあふれて止められないようだ。
涼子はそっと唇を噛み、あふれそうになる涙をこらえる。
「私は……ただ、自分があなたの邪魔になるのが怖かった。あなたには大きな夢があるし、世界を舞台に活躍しようとしてるから。私なんか、足手まといでしかないって思ったの。でも……本当は……」
——本当は、好きでたまらない。だけど、口に出す勇気がまだ湧かない。
幼い頃から憧れ、今はあのころ比べ物にならない深い感情を抱いている。でも、言葉にするのが怖いのだ。自分の想いが重荷になってしまわないか。……まだその不安から抜け出すことができない。
そんな涼子の沈黙を感じ取ったのか、壮一郎は優しい動作で涼子の手をそっと包む。
「涼子。お前の存在は、夢や仕事以上に大きいんだ。俺にとって大切なのは、お前だけだ。……だから、言わせてくれ」
鼓動が激しくなる。涼子は壮一郎の瞳から逃れられない。まるで、そこに吸い込まれていくような感覚に包まれる。次に彼が紡いだ言葉は、涼子の耳を震わせ、胸の奥底を甘く熱く揺らした。
「愛してる。……契約結婚ではなく正真正銘の夫婦として、これからも一緒にいてほしい」
一瞬、時が止まったように感じた。壁時計の針の音、冷蔵庫のモーターの音、そんな生活音が遠くに溶けていく。涼子の心の中で壮一郎の言葉が何度も響く。その言葉はまるで奇跡のようだ。
彼の瞳は深い色彩を帯びており、涼子の返事を一身に待っている。胸が高鳴り、息が苦しくなるほどの幸福感が押し寄せてくる。たとえ自分には大層な力がなくても、彼にとっては必要な存在なのだと——信じていいのだろうか。
「……私も……あなたと、一緒にいたい。……ずっと、あなたのそばにいたい……」
愛していると、まだ言葉にできない。でも、想いはきっと伝わっているはず。
そう思った瞬間、壮一郎の腕がぐっと伸びて涼子を引き寄せた。その力はやや強引ともいえるが、それ以上に彼の熱が全身に伝わる。
「……ありがとう」
涼子の耳元で壮一郎が微かにささやく。その吐息が優しく首筋をくすぐり、涼子は思わず小さく身を震わせた。
次の瞬間、視界がゆっくり揺らぎ、彼の顔が近づいてくるのがわかる。頬、鼻先、そして唇が触れ合う。
——初めてのキスは、予想していたよりずっと切なく、甘く、胸が焦げるような熱をもたらした。触れ合うだけのソフトなものから、少しずつ角度や圧が変化し、涼子は戸惑いと恥ずかしさを覚えながらも、抗えない力に飲み込まれていく。壮一郎の唇は意外なほど優しくて、けれど大胆に涼子の呼吸を奪う。息苦しいような、でもそれ以上に恍惚とした感覚が体を支配する。
「っ……は……」
わずかに唇を離したとき、涼子は酸素を取り込むようにかすれた呼吸をした。頬が熱い。壮一郎もやや荒い息づかいのまま、涼子の髪をそっと撫でる。その指先の動きさえも愛おしくて、もうこれ以上我慢する必要はないと思えた。
「……ほんとはもっと早く、こうしたかった」
低く切ない声。涼子は彼の胸に顔をうずめたまま、そっと首を振る。
自分だって、この瞬間をどれほど待ち望んだか分からない。契約だとか期限つきの結婚だとか、そんな言葉に押し潰される前に、もっと素直になれたらどんなに良かっただろう。
壮一郎は涼子の肩を抱き寄せ、もう一度唇を重ねる。まぶたを閉じ、彼の熱を全身で感じる。ドキドキと波打つ鼓動は、二人の体温をますます上げていく。
「……愛してる、涼子」
彼が手を伸ばし、涼子の髪を撫でながら囁く声は、さっきまでとは違う穏やかで深い響きだ。
触れ合う指先から伝わるのは、お互いを失いたくないという静かな情熱。
壮一郎の腕の中で涼子は微かな恥じらいと、満ち足りた幸福を同時に感じていた。ドキドキと鳴り止まない胸の音が、彼にも伝わってしまうだろう。それでも、もう不安はない。
自分でも知らなかった感覚がじわじわと目覚めるようで、思わず身震いしながら壮一郎の肩にしがみついた。
それは涼子と壮一郎が迎えた“初めての夫婦としての夜”だった——。