スパダリ起業家外科医との契約婚
第十七章 平穏
第十七章 平穏
「ああ、もうこんな時間か。では、行ってくる」と言い残し、壮一郎はバタバタと玄関の扉を閉めた。
朝焼けの差し込むリビングには、涼子が淹れたままのコーヒーが一口分しか減っていないカップが残されている。
時計を見ればまだ午前七時になったばかり。だというのに、このところの壮一郎は夜遅くまで病院や会社のオフィスに詰めているせいか、ほとんど家に滞在していない状態だった。
——それでも、涼子の心は満ち足りていた。
短い時間でも、壮一郎は合間をぬって帰宅し、食事を一緒にとってくれたり、皿洗いを手伝ってくれたりする。洗濯物をたたむのはまだぎこちないが、それでも黙々とハンガーから外しながら「これで合ってるか?」と尋ねてくる姿は微笑ましい。
彼がこんなふうに家事を意識的に手伝ってくれる日が来るなんて、少し前までの「契約結婚」の関係では想像できなかった。
思い返せば、あの夜——涼子が家出をし、英盛のオフィスで壮一郎と再会してから、自宅に戻って愛を確かめ合った。
激動の1日を経て、二人はやっと心を通わせる本物の夫婦となった。形だけの契約関係だった頃とは違う、あたたかな安心感と幸福が、涼子の胸を満たしている。
「もっと早く一緒にいたかったのに……でも、今は仕方ないわよね」
リビングのソファに腰掛け、涼子は微かな苦笑を漏らす。壮一郎には、どうしても外せない手術がいくつもあるし、英盛との事業では大規模システムの正式リリースが目前だという。
今は頑張りどき。二人の気持ちが繋がった今こそ、彼の夢を全力で応援したいと思う。
もちろん、涼子も寂しさを感じる瞬間は多い。
夜遅く帰ってきた壮一郎はシャワーを浴び、ほんの少しソファで休んだかと思うと、朝には再び病院へ向かってしまう。深い会話をする暇もほとんどない。——それでも、たまの休日に顔を合わせれば、彼は一生懸命に涼子のために時間を割いてくれる。
買い物にも一緒に出かけるし、以前は苦手だった料理も少しだけ挑戦しようとする姿勢まで見せる。
何より、あの「愛している」という言葉を聞いたあの日から、壮一郎の行動には確かな優しさが滲んでいるのだ。たとえ接する時間が短くても、彼のささやかな気遣いに涼子は救われる。
契約結婚という名目で始まった関係は、今では見違えるほどの温かみにあふれていた。
病院の院長である高柳彦造からの事業継承の話も、やや落ち着きを見せているようだった。
壮一郎は先日、父と直接「いずれ必ず病院を継ぐ」と約束しつつ、「もう少しだけ猶予が欲しい」と説得をしたと言っていた。
伊庭秀一の暗躍も気になるが、今は英盛との事業や外科医としてのキャリアを優先しておきたい——そう堂々と意志を示したのだ。彦造は苦しい表情を浮かべながらも、いったんは息子の強い決意を受け入れ、「お前の考えを尊重しよう」と静かに頷いたという。
涼子も、壮一郎が彦造と話している場に同席したわけではないが、帰宅した彼は落ち着いた声で「父さんを一応納得しえくれたよ」と教えてくれた。
もうしばらくは、病院経営の主導権争いが表面化することはなさそうだ。とはいえ、伊庭が完全に諦めたわけではないだろう。きっと、いつかまた大きな波が訪れるに違いない。
しかし今の涼子は、その未来を憂うよりも、現在の忙しくも穏やかな日常を大切に過ごしたいと感じていた。
自分にできることは、帰宅したときに温かい食事とくつろげる空間を用意し、彼の健康を少しでも支えること。その程度しかないかもしれないが、それでも彼が微笑んで「うまい」と言ってくれるだけで、涼子の心は喜びに満たされるのだ。
「ああ、もうこんな時間か。では、行ってくる」と言い残し、壮一郎はバタバタと玄関の扉を閉めた。
朝焼けの差し込むリビングには、涼子が淹れたままのコーヒーが一口分しか減っていないカップが残されている。
時計を見ればまだ午前七時になったばかり。だというのに、このところの壮一郎は夜遅くまで病院や会社のオフィスに詰めているせいか、ほとんど家に滞在していない状態だった。
——それでも、涼子の心は満ち足りていた。
短い時間でも、壮一郎は合間をぬって帰宅し、食事を一緒にとってくれたり、皿洗いを手伝ってくれたりする。洗濯物をたたむのはまだぎこちないが、それでも黙々とハンガーから外しながら「これで合ってるか?」と尋ねてくる姿は微笑ましい。
彼がこんなふうに家事を意識的に手伝ってくれる日が来るなんて、少し前までの「契約結婚」の関係では想像できなかった。
思い返せば、あの夜——涼子が家出をし、英盛のオフィスで壮一郎と再会してから、自宅に戻って愛を確かめ合った。
激動の1日を経て、二人はやっと心を通わせる本物の夫婦となった。形だけの契約関係だった頃とは違う、あたたかな安心感と幸福が、涼子の胸を満たしている。
「もっと早く一緒にいたかったのに……でも、今は仕方ないわよね」
リビングのソファに腰掛け、涼子は微かな苦笑を漏らす。壮一郎には、どうしても外せない手術がいくつもあるし、英盛との事業では大規模システムの正式リリースが目前だという。
今は頑張りどき。二人の気持ちが繋がった今こそ、彼の夢を全力で応援したいと思う。
もちろん、涼子も寂しさを感じる瞬間は多い。
夜遅く帰ってきた壮一郎はシャワーを浴び、ほんの少しソファで休んだかと思うと、朝には再び病院へ向かってしまう。深い会話をする暇もほとんどない。——それでも、たまの休日に顔を合わせれば、彼は一生懸命に涼子のために時間を割いてくれる。
買い物にも一緒に出かけるし、以前は苦手だった料理も少しだけ挑戦しようとする姿勢まで見せる。
何より、あの「愛している」という言葉を聞いたあの日から、壮一郎の行動には確かな優しさが滲んでいるのだ。たとえ接する時間が短くても、彼のささやかな気遣いに涼子は救われる。
契約結婚という名目で始まった関係は、今では見違えるほどの温かみにあふれていた。
病院の院長である高柳彦造からの事業継承の話も、やや落ち着きを見せているようだった。
壮一郎は先日、父と直接「いずれ必ず病院を継ぐ」と約束しつつ、「もう少しだけ猶予が欲しい」と説得をしたと言っていた。
伊庭秀一の暗躍も気になるが、今は英盛との事業や外科医としてのキャリアを優先しておきたい——そう堂々と意志を示したのだ。彦造は苦しい表情を浮かべながらも、いったんは息子の強い決意を受け入れ、「お前の考えを尊重しよう」と静かに頷いたという。
涼子も、壮一郎が彦造と話している場に同席したわけではないが、帰宅した彼は落ち着いた声で「父さんを一応納得しえくれたよ」と教えてくれた。
もうしばらくは、病院経営の主導権争いが表面化することはなさそうだ。とはいえ、伊庭が完全に諦めたわけではないだろう。きっと、いつかまた大きな波が訪れるに違いない。
しかし今の涼子は、その未来を憂うよりも、現在の忙しくも穏やかな日常を大切に過ごしたいと感じていた。
自分にできることは、帰宅したときに温かい食事とくつろげる空間を用意し、彼の健康を少しでも支えること。その程度しかないかもしれないが、それでも彼が微笑んで「うまい」と言ってくれるだけで、涼子の心は喜びに満たされるのだ。