スパダリ起業家外科医との契約婚
第二十章 孤立
第二十章 孤立
桜が去ったあと、涼子は頭がぐらぐらと揺れるほど混乱していた。
何より彼女が恐ろしかったのは、「もしも別れなければ、事業は失敗に追い込む」と言われたこと。あまりにも直接的な脅しだ。しかし、クラモトホールディングスのような巨大資本が本気で動けば、英盛たちのベンチャーは一気に劣勢に立たされるかもしれない。
(まさか……そこまでしなくても。でも、桜さんならやりかねない。本当に壮一郎さんを手に入れたいんだ……)
英盛に相談しよう、と頭をよぎる。
けれど出張中の彼は忙しいはずだ。大事な商談や準備が山ほどある中、混乱させるのも申し訳なく思ってしまう。
(壮一郎さんに相談しよう…)
兄の言っていたとおり、まずは夫である壮一郎に相談するべきだろう。彼も最近は病院で連日連夜のオペと、それに加えてシステムリリースに伴う仕事に追われているが、相談できる相手は彼しかいない。
その晩、涼子は夜中の一時頃に帰宅した壮一郎に「話があるの……」と声をかけた。
しかし、彼はベッドに倒れ込むようにして数分で寝息を立て始めた。触れてみた背中は緊張と疲労で石のように硬い。とても今、重い悩みを打ち明けられる状態ではないと感じ、涼子は何ひとつ伝えることができなかった。
翌朝、彼が出かける前に「話って何だ?」と尋ねられたが、涼子は起き抜けの壮一郎を見て「今言っても混乱させるだけ」と判断し、「大したことじゃないの」と曖昧にごまかしてしまった。
それがいつの間にか二日、三日と経ち、話す機会を完全に逸してしまった。
そこへ追い討ちをかけるような出来事が起きた。義父の彦造が病院内で倒れたという報せが入ったのだ。
詳細はわからないが、心臓の具合が悪く、集中治療室で予断を許さない状況らしい。もちろん壮一郎は最優先で病院へ駆けつけ、昼夜オペや治療方針の検討に追われているという。
涼子も面会に行こうとしたが、ICUでの厳重管理のため面会制限があり、家族といえども面会は許可できない”と言われてしまった。壮一郎に連絡しようにも、病院側から「手術中で携帯は通じない」と告げられる。
仕方なく、ICUの前のロビーで数時間待機してみたが、結局、誰からも声をかけられず帰宅せざるを得なかった。
このように、あらゆる要素が重なり、涼子は途方に暮れた。
桜の脅迫まがいの要求にどう対処すればいいかもわからない。相談したい英盛や壮一郎とも、話す機会を作ることさえできない。そんな状態のまま、一日、また一日と時間だけが過ぎていく。
焦燥感に苛(さいな)まれる涼子のもとへ、決定的な連絡が舞い込んだのは、契約日の2日前の夜だった。
英盛の会社から送られてくるグループメッセージに、壮一郎、そして主要スタッフたちが含まれている。
その中で、桜が「契約最終締結日は予定どおり明後日。場所はクラモトホールディングス本社。壮一郎や英盛に加え、涼子も同席せよ」という趣旨の通知を投げてきたと記されていた。
つまり、桜が言う“最終契約の場”には、涼子も出席しなくてはならないらしい。
スタッフからも「どうして涼子さんが?」という戸惑いのリアクションが飛び交うが、桜は「大事な場面にご家族も同席し、安心感を得たいだけ」とうそぶいているそうだ。
涼子はそのグループメッセージを見つめながら、心臓が凍りつく感覚を覚えた。
桜は公私混同を平然と貫き、涼子を目の前で追い詰めようとしているのだろう。契約書にサインする場で「どうするの?」と最後通牒を突きつけるつもりに違いない。
(私がここで“別れない”と宣言したら……きっと桜さんは契約を取り下げる。英盛や壮一郎の努力は水の泡。海外への道も閉ざされる。……そんなこと、許されない……)
そう思えば思うほど、涼子の脳裏を“離婚”という言葉がよぎる。
別れるという選択肢は、涼子自身は絶対に認めることができない。だが、自分ひとりが身を引くだけで、兄と愛する夫の未来が守られるのなら、犠牲になるのも仕方ない————
結局、涼子は離婚届を一度記入し、こっそり準備だけは整えた。判を押す瞬間、胸が痛んで涙が止まらなかった。でも、これが自分のできる唯一の選択肢かもしれない、そう信じ込むしかなかった。
桜が去ったあと、涼子は頭がぐらぐらと揺れるほど混乱していた。
何より彼女が恐ろしかったのは、「もしも別れなければ、事業は失敗に追い込む」と言われたこと。あまりにも直接的な脅しだ。しかし、クラモトホールディングスのような巨大資本が本気で動けば、英盛たちのベンチャーは一気に劣勢に立たされるかもしれない。
(まさか……そこまでしなくても。でも、桜さんならやりかねない。本当に壮一郎さんを手に入れたいんだ……)
英盛に相談しよう、と頭をよぎる。
けれど出張中の彼は忙しいはずだ。大事な商談や準備が山ほどある中、混乱させるのも申し訳なく思ってしまう。
(壮一郎さんに相談しよう…)
兄の言っていたとおり、まずは夫である壮一郎に相談するべきだろう。彼も最近は病院で連日連夜のオペと、それに加えてシステムリリースに伴う仕事に追われているが、相談できる相手は彼しかいない。
その晩、涼子は夜中の一時頃に帰宅した壮一郎に「話があるの……」と声をかけた。
しかし、彼はベッドに倒れ込むようにして数分で寝息を立て始めた。触れてみた背中は緊張と疲労で石のように硬い。とても今、重い悩みを打ち明けられる状態ではないと感じ、涼子は何ひとつ伝えることができなかった。
翌朝、彼が出かける前に「話って何だ?」と尋ねられたが、涼子は起き抜けの壮一郎を見て「今言っても混乱させるだけ」と判断し、「大したことじゃないの」と曖昧にごまかしてしまった。
それがいつの間にか二日、三日と経ち、話す機会を完全に逸してしまった。
そこへ追い討ちをかけるような出来事が起きた。義父の彦造が病院内で倒れたという報せが入ったのだ。
詳細はわからないが、心臓の具合が悪く、集中治療室で予断を許さない状況らしい。もちろん壮一郎は最優先で病院へ駆けつけ、昼夜オペや治療方針の検討に追われているという。
涼子も面会に行こうとしたが、ICUでの厳重管理のため面会制限があり、家族といえども面会は許可できない”と言われてしまった。壮一郎に連絡しようにも、病院側から「手術中で携帯は通じない」と告げられる。
仕方なく、ICUの前のロビーで数時間待機してみたが、結局、誰からも声をかけられず帰宅せざるを得なかった。
このように、あらゆる要素が重なり、涼子は途方に暮れた。
桜の脅迫まがいの要求にどう対処すればいいかもわからない。相談したい英盛や壮一郎とも、話す機会を作ることさえできない。そんな状態のまま、一日、また一日と時間だけが過ぎていく。
焦燥感に苛(さいな)まれる涼子のもとへ、決定的な連絡が舞い込んだのは、契約日の2日前の夜だった。
英盛の会社から送られてくるグループメッセージに、壮一郎、そして主要スタッフたちが含まれている。
その中で、桜が「契約最終締結日は予定どおり明後日。場所はクラモトホールディングス本社。壮一郎や英盛に加え、涼子も同席せよ」という趣旨の通知を投げてきたと記されていた。
つまり、桜が言う“最終契約の場”には、涼子も出席しなくてはならないらしい。
スタッフからも「どうして涼子さんが?」という戸惑いのリアクションが飛び交うが、桜は「大事な場面にご家族も同席し、安心感を得たいだけ」とうそぶいているそうだ。
涼子はそのグループメッセージを見つめながら、心臓が凍りつく感覚を覚えた。
桜は公私混同を平然と貫き、涼子を目の前で追い詰めようとしているのだろう。契約書にサインする場で「どうするの?」と最後通牒を突きつけるつもりに違いない。
(私がここで“別れない”と宣言したら……きっと桜さんは契約を取り下げる。英盛や壮一郎の努力は水の泡。海外への道も閉ざされる。……そんなこと、許されない……)
そう思えば思うほど、涼子の脳裏を“離婚”という言葉がよぎる。
別れるという選択肢は、涼子自身は絶対に認めることができない。だが、自分ひとりが身を引くだけで、兄と愛する夫の未来が守られるのなら、犠牲になるのも仕方ない————
結局、涼子は離婚届を一度記入し、こっそり準備だけは整えた。判を押す瞬間、胸が痛んで涙が止まらなかった。でも、これが自分のできる唯一の選択肢かもしれない、そう信じ込むしかなかった。