スパダリ起業家外科医との契約婚

第二十一章 電話

 翌日も、涼子はマンションで一人きりだった。
 少しでも何かしていないと落ち着かず、部屋だけでなく、玄関、キッチンのまな板やシンクにいたるまで、何度も洗剤を使って拭き上げたが、それもやりつくしてしまい、今は暗い部屋のソファに腰掛けていた。

 携帯電話を手に取り、英盛に連絡しようと思い立ったが、通話ボタンを押す前に手が止まる。いま「桜に脅迫されている」と打ち明けたところで、もう時間が残されていない。

 (私だけが消えれば、きっとすべてうまく回るんだから……)

 ソファの横には黒い手提げバッグが置かれ、その中にひそかにしまわれた離婚届を思い出すたびに、胸が締めつけられる。
 壮一郎に「別れましょう」と差し出さなくてはならない。桜との契約が決まる前日、つまり今日——そう、もう一日しか残されていない。

 しかし、そんな切羽詰まった状況にもかかわらず、壮一郎は病院での手術やトラブル対応に追われて帰宅の気配がない。
 今夜こそ話さなければと思っていたのに、連絡すら来ないまま日付が変わろうとしていた。

 (もう今日も帰ってこないのかな……明日は契約の日だっていうのに……)

 考えるほど不安は増し、頭がぐらぐらする。
 かといって焦って病院へ連絡しても、「手術中」や「当直中」と言われて中断させるわけにもいかない。自分の悩みは、彼にとっては“個人的で微々たること”ではないのか——そんな負い目が涼子をますます追い込んでいった。


 時計の針が午前零時を回った頃、玄関の扉がガチャリと開く音がした。
 涼子は一瞬耳を疑ったが、すぐに立ち上がって廊下に向かう。そこにいたのは、壮一郎だった。

 淡いリビングの照明下に現れた彼は、一見いつもどおりのクールな表情に見えるが、その目の下には濃い疲れの陰が宿っている。
 少し乱れた髪、そしてジャケットの下はスクラブのままだ。着替える暇もなく帰ってきたのかもしれない。

 「……おかえりなさい。今日はもう帰れないかと思ってた」

 涼子がいつもどおりを演じて気丈に声をかけると、壮一郎は少しだけ眉を下げて短く答えた。

 「オペが長引きそうだったが、次の準備があって一度戻る必要があった。朝にはまた病院に行く。といっても数時間しか家にいられないが……」

 言葉の後半は自嘲気味に聞こえる。おそらく彼は“帰宅しても何もしてやれない自分”に苛立ちを覚えているのだろう。
 涼子は胸を痛めながらも、わずか数時間でも顔を合わせられたことに安堵していた。少なくとも、このタイミングで帰宅してくれたのは、彼なりに涼子の様子を案じてのことかもしれない。

 「……何か食べる?」

 「ああ……。少しだけでいいから、何か食べられるものがあれば助かる」

 壮一郎の返事は簡潔だが、涼子にとっては嬉しかった。
 すぐにキッチンへ向かい、夕方のうちに作っておいたスープを温め直す。白菜と鶏肉、それにショウガを効かせたあったかいスープだ。一日の締めくくりに少しでも体を温めて欲しくて、用意していた。

 食卓についた壮一郎は、一言「ありがとう」とだけ呟いて、スプーンでスープをすくう。その動作からは疲れがにじんでいるが、ふと唇の端に微かな笑みが浮かんだ。

 「……うん、温かい。やっぱりこういう味がいちばんありがたい」

 涼子は胸をなでおろす。——こんなに忙しい彼が、帰宅してスープを飲んでくれるだけでも十分だ。離婚を切り出さねばならないと頭ではわかっていながら、この平穏なひとときがいつまでも続いてほしいと願ってしまうのが切ない。

 しかし、テーブルを挟んで向かい合いながら、どうにも会話が少ない。壮一郎も疲れのせいか口数が少なく、涼子も気丈に振る舞うものの、話題を振る気力を失っていた。スプーンの音が小さく響き、居心地の悪い静寂がリビングを包む。

 (こんなときに、言い出せるわけがない……)

 “私、あなたと離婚しようと思ってるの”——どうしてそんな残酷な言葉を、疲れ切った夫に告げられるだろう。
 そう思いながら、できる限りの笑顔で、壮一郎を見つめることしかできなかった。


 壮一郎が食事を済ませたとき、携帯がバイブレーションで震え始めた。彼が手に取り画面を見る。

 「英盛だ……」

 壮一郎はそう言って立ち上がり電話に出た。
 すぐさま兄の声がスピーカーから飛び込んできた。国際電話のようで多少雑音が混じる。涼子はそっとキッチンの隅で後片付けをしているフリをしながら、会話の断片を聞き取ろうと耳を澄ました。

 「飛行機のフライトが遅れてる? ……そうか、仕方ないな。明日は現地に直接向かうのか」

 壮一郎はあまり感情を表に出さない口調で英盛の話を聞いている。

 「……父の件? ああ、メールで送ったとおりだ。今のところ病状は厳しい。今日、検査をした結果、明日緊急で手術をしなければならない。朝一番でオペに入るつもりだ」

 その言葉に、涼子はドキリと胸が騒ぐ。以前から彦造の具合が悪いのは知っていたが、そこまで切迫しているとは思わなかった。壮一郎の声から緊迫感が伝わってくる。

 英盛は何か早口でまくし立てているようで、壮一郎は簡単な合いの手を入れる。「ああ」「……それでいい」「問題ない」と相槌を打ちながら、「大丈夫だ。その件はもう準備ができている。詳細は後で送っておく…」と言ったあと、少し間を開けて、壮一郎が涼子の方を振り返った。

 「涼子。英盛が話したいそうだ……」

 涼子は思わずびくりと反応する。
 電話を受け取り、耳に当てると英盛の声が聞こえてきた。

 「涼子か? 悪いな、そっちバタバタしてるだろうし、俺も思わぬトラブルで帰国が遅れそうなんだ。明日の契約には間に合うはずだけど、飛行機次第ってところで……現地集合でも大丈夫か?」

 涼子は兄の声を聞いて、胸が温かくなる気がした。英盛は海外で大変なのに、ちゃんとこっちを気遣ってくれる。

 「うん……大丈夫だよ。そっちも大変そうだね。」

 英盛がさらに何か言いかけるが、雑音が入り会話が途切れがちになる。壮一郎が横目で見ているのを感じ、涼子は慌てて声を張った。

 「……私は大丈夫だから、慌てずに帰ってきてね。」

 電話越しに英盛が「お前……ほんとに大丈夫かよ?」と心配する声を落とすが、涼子は笑顔を装い「平気、いつもどおりだよ。また明日ね」と言って通話を終わらせようとした。
 英盛も飛行機の搭乗案内が始まったのか、「分かった。じゃあ切るぞ。またな」と締めくくって終話となった。

 スマートフォンを耳から離し、ふっとため息をつく。後ろに立っていた壮一郎が涼子を見つめている。

 「……兄さん、大変そうだね」

 何でもない話題を持ち出すかのように涼子が言うと、壮一郎は静かに呟く。

 「そうだな。お前も……疲れてるんじゃないのか?」

 どきりと胸が鳴る。
 涼子は、一瞬「いまなら」と思ったが、ここで真実を打ち明けるわけにはいかないと思いとどめた。彼は明日のオペを控えているし、体調も限界ぎりぎりなのだ。

 「ううん、私は大丈夫。明日のために早めに休みましょう?」

 そう言って涼子は自分でも笑ってしまうほど明るい声を出した。壮一郎は一瞬言葉を飲み込むようだったが、やさしく頷いて応えた。
< 21 / 30 >

この作品をシェア

pagetop