スパダリ起業家外科医との契約婚

第八章 料理

第八章 料理

涼子が本格的に彼のために料理を作り始めてから二週間ほどが経ったある日、体調を崩してしまった。
初めは軽い喉の痛みと発熱程度だったが、夜になるにつれて身体のだるさが増し、頭痛もひどくなってくる。

ベッドで横になっていると、玄関のドアが開く音が聞こえた。深夜に帰宅するはずの壮一郎が、なぜか少し早めの時間に帰ってきたらしい。

「……涼子、いるのか?」

リビングから彼の低い声がする。返事をしようと思うが、声がうまく出ない。苦しげなうめき声になってしまった。やがて寝室のドアが開き、スーツ姿の壮一郎が覗き込む。涼子の顔色を見て、すぐにベッド脇に歩み寄った。

「熱があるな……。喉も赤い。風邪か?」

「ごめんなさい、風邪……みたいで……」

 涼子は辛うじて言葉を絞り出す。壮一郎はすぐに手際よく体温計と水を準備し、彼女に飲ませてくれた。

「今、食欲はあるか?」

「少し……食べてないです……」

「わかった。じゃあ待ってろ。何か作ってくる」

彼はそう言い残してリビングへ向かう。涼子は思わず止めようとしたが、声が出ない。
彼が料理を作るなんて……そういえば彼の料理の腕前はどうなのだろう? 仕事柄、器用ではありそうだが、家事が得意という話は聞いたことがない。

しばらくして、壮一郎がキッチンで何やら作業する音が聞こえてきた。カチャカチャと鍋や包丁の音が響くが、時々「くそ……」と小さく舌打ちする声も混ざる。彼は明らかに慣れていない。それでも一生懸命にやってくれているのだと思うと、ありがたさと申し訳なさが混じって涙が出そうになる。

さらに数十分後、寝室のドアが再び開く。トレイに乗せられていたのは、湯気の立つお粥らしきものと、スープ?のような何か、そしてポカリスエットのようなスポーツドリンク。
だが、そのお粥は明らかに水分が多すぎてベチャベチャで、味噌汁ともコンソメスープともつかない液体が入ったボウルは具材がほとんど見当たらず、褐色がかっている。見た目は正直、食欲をそそるものとは言いがたい。

「……慣れてない料理で悪い。とりあえず消化にいいものを、と思ったんだが……味がどうかは自分でもわからん」

壮一郎はばつが悪そうに目を伏せる。そこには珍しく困惑した表情があった。天才外科医として名声を誇るこの男に、こんな弱々しい顔があるなんて、と涼子はかすかに驚く。

「ありがとう……いただきます」

スプーンを持つ手が震える。お粥らしきものを一口すくって口に運ぶと、予想していたよりも味は薄く、それでいて微妙に焦げ臭い。しかし、熱々の汁気が風邪で乾いた喉を通り過ぎると、なんとも言えない温かさが身体に染みわたった。

「おいしいよ。ありがとう……」

 声を震わせながら言うと、壮一郎は少しだけ安堵したように息を吐く。

「本当にまずいだろう? 医者が病人がこんな下手な料理を出すなんて、笑いものだな」

「ううん、そんなことない……。栄養……たっぷり、入ってそうだよ……」

実際のところ、味の評価は難しいが、彼が不器用なりに頑張ってくれた事実が嬉しかった。ほんの数口しか食べられなかったけれど、心は十分に満たされる。
スープも飲んでみたが、塩気が若干強くてけほけほ咳き込んでしまった。慌てた壮一郎がスポーツドリンクを飲ませてくれる。涼子は少し申し訳なくなって、「ごめんね」と繰り返した。

「謝るな。むしろ、俺の不手際で悪かったな。風邪のときに無理をさせたくなかったのに、気づかないで放置してしまった」

「ううん……私の体調管理が悪かったんです……」

夫婦としてはぎこちない会話だが、優しさが伝わってくる。こんなに近くで、彼が不安そうに自分の様子を気にかけてくれるなんて思わなかった。涼子は涙をこぼしそうになりながら、弱々しく微笑む。

「……もっと食べられるなら、いいが」

「これで十分だよ。ありがとう。明日になったら、もう少しマシになってると思う」

そう言った涼子の手を、壮一郎はそっと握った。
その手は大きく骨ばっているが、天才と呼ばれるほどの技術を持つ医者の手。その手が、自分の手を握りしめてくれる。その安心感に、涼子は胸がいっぱいになる。

「ゆっくり休め。体温が高いままなら、病院に連れて行く」

「うん……」

それだけ言うと、壮一郎は部屋の明かりを落とし、出ていく。その背中を見送りながら、これまでのクールで完璧な彼と、今の不器用な優しさを見せる彼とが重なって、一層好きになりそうだ……と涼子は思った。
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