スパダリ起業家外科医との契約婚
第七章 来客
第七章 来客
涼子がマンションに戻ったのは夕方近く。玄関を開けると、意外にも壮一郎がすでに帰宅していた。
白衣姿でこそないが、ダークスーツのままダイニングテーブルの前に立ち、スマホを確認している。忘れていったスマホを取りに帰ると言っていたのは覚えていたが、まさかこんな早い時間に戻ってきているとは思わなかった。
「あ、おかえりなさい……今日は早いんですね」
「ああ。夕方の手術がキャンセルになった。患者が体調不良で延期になったんだ。夕方以降、病院に戻る予定はないが、会社の方には後で行くかもしれない」
淡々とした口調。それでも涼子は少し嬉しかった。ようやく夫婦らしく同じ空間にいられる時間ができたのだ。
「えっと、晩ご飯……一応、作ろうと思ってたんですけど、何がいいですか?」
今まであまり料理をする機会がなかった涼子だが、少しずつ料理サイトや料理本を見て勉強している。ただ味の保証はない。壮一郎の口に合うかどうかは不安だが、せっかく家にいるなら食事くらいは作りたい。
「そうだな……俺は特に何でもいい。タンパク質と野菜がバランス良く取れればいい程度だ。過度に脂っこいものは避けてくれ」
「わかりました。じゃあ、鶏肉と野菜の蒸し料理とか……あと、味噌汁とかでいいですか?」
「それなら、悪くない。助かる」
短いやりとりだが、どこか夫婦らしい会話に胸が温かくなる。涼子は慌ててエプロンをつけ、キッチンへ向かった。久しぶりに帰宅している夫のため、せめて温かい家庭料理を提供したい。
鶏肉を酒蒸しにして野菜を添え、味噌汁は具沢山にする。副菜として小松菜のおひたしやトマトのサラダも用意。手際はまだ危なっかしいが、一生懸命に作った。盛り付けまで終えたところで、壮一郎をダイニングに呼ぶ。
「……お待たせしました。あんまり自信ないんですけど……」
壮一郎は席に着くと、蒸し料理の香りを確かめ、まずは一口食べる。涼子は緊張で手が震えそうになったが、彼は無言で黙々と食べ始めた。疲れているのだろうか、それとも味が微妙なのか。評価が気になる。
数分が経過し、ほぼ半分以上を食べ終えたころ、壮一郎はようやく口を開いた。
「うん、悪くないな。鶏肉も固くなっていないし、味付けも薄めでちょうどいい。これなら健康的だ」
「ほ、本当? よかった……」
涼子は安堵のため息をつく。料理下手を指摘される覚悟だったが、合格点がもらえたようだ。これが自分にできる数少ない“妻としての役目”かもしれないと思うと、嬉しさが込み上げてくる。
食事を終えた壮一郎は、簡潔に「ごちそうさま」と告げ、ソファに腰を下ろした。涼子が皿を片付けていると、彼がスマホをいじりながら何やら浮かぬ表情をしているのに気づく。
「どうかしたんですか?」
「……病院の経営絡みで面倒が起きてる。院長代理の秀一…伊庭秀一が、無駄にコストを削減してスタッフの負担が増えているらしい」
伊庭秀一。壮一郎の従兄にあたる人物だと、英盛から聞いている。
医師免許はもっていないが、高柳総合病院の役員に名を連ねており、患者やスタッフのことよりも病院の利益を最優先に考えるタイプらしい。壮一郎とは折り合いが悪く、さらに経営の主導権を狙っているとか……。
「それで、壮一郎さんが忙しかったのも、伊庭さんとの対立のせいですか?」
「まあ、その一端はある。アイツは患者の命より利益を重視するきらいがあるから、あまりいい顔はされていない。だが、父の甥という立場で、かなり強引に経営に口を出してくるんだ。俺が外科医として手術に没頭している間に、色々と勝手に動いているようでな」
「……大変なんですね」
涼子はコップに水を注ぎ、壮一郎に差し出した。彼は「ありがとう」と小声で言い、喉を潤す。
「だが、俺はまだ臨床をやめる気はない。やりたい手術もあるし、研究もある。病院経営は父が健在のうちは俺の力がそれほど必要になるとは思えないが、秀一が勝手に動くのは阻止しなくてはならない。……ひとまず結婚を機に“落ち着いた”と思わせたので、父は俺に対しておとなしくしてくれているが……現状では、秀一の方が厄介だな」
「そうだったんですね……。私に何かできることは……」
思わずそう尋ねかけて口を噤む。涼子が口を出せる問題ではない。それでも、彼の疲れた横顔を見ると、何か力になりたいと思ってしまう。
と、そのときだった。急にインターホンが鳴り、涼子がモニターを確認すると、なんと倉本桜がそこに映っていた。マンションのエントランスに、赤いコートに身を包み、毅然とした様子で立っている。
「クラモトホールディングスの倉本です。突然押しかけて申し訳ありませんが、少しお話しできますか?」
涼子は思わず固まる。どうして彼女がここへ? このマンションの住所を知っていることにも驚きだ。
壮一郎は涼子の表情から何かを察したのか、「どうした?」と問いかける。
「い、いま、倉本桜さんが……」
「……ここへ来たのか」
壮一郎の眉間に皺が寄る。何を狙っているのか想像がつかないが、少なくとも彼女は遠慮なくプライベートを侵入してくるだけの積極性を持っているらしい。
「通してやってくれ。追い返してもよけい面倒だろう」
「わ、わかりました」
しばらくすると玄関のチャイムが鳴り、涼子は緊張しながらドアを開ける。桜はにこやかに微笑み、涼子の顔を見ると少しだけ目を細めた。
「こんばんわ。涼子さん、ですよね。あなたが壮一郎の“奥様”だとか」
その声には皮肉が混ざっているようにも聞こえるが、はっきりと攻撃的というわけでもない。
「お忙しいところ失礼します。ちょっと壮一郎に渡したい資料があって……」
そう言って桜は手にした資料封筒を示す。だが、その程度の用事なら会社やメールで済むはず。わざわざ自宅を訪れるのは、明らかにプライベートを探る意図があるのではと思わざるを得ない。
リビングへ通すと、桜は部屋をざっと見回し、テーブルの上の料理の名残などを確認し、何かを悟ったように微笑む。
「へえ、ちゃんと奥様らしく料理なんかもされるんですね。結婚したばかりの新婚さんらしいわ」
言葉に含みがある。涼子は居心地の悪さを感じつつも「はい、まあ……」と曖昧に答えるしかない。そこへ壮一郎が姿を現した。
「桜、勝手に来られるのは困る。何か要件があるなら会社を通してほしいが」
「あら、ひどいわね。私たち、アメリカで一緒に苦学した仲じゃない。それに、あなたと早急に打ち合わせたいことがあったのよ。提携契約について、うちの父が乗り気になってるの。だから直接書類を見せて意見を聞きたくて」
桜は封筒から書類を取り出し、壮一郎に差し出す。彼は一瞥し、「後で読んでおく」とだけ言う。
「部屋に入れてくださったのだから、お茶くらい出してもらってもいいんじゃない?」
桜はわざと涼子を見る。ここは主人としてもてなすべきなのか。しかし、桜の態度はどこか挑発的だ。涼子がためらっていると、壮一郎が一言「涼子、お茶を出してくれないか」と頼む。仕方なくキッチンへ向かい、湯を沸かす。
その間、リビングで二人が会話している声が聞こえる。桜の話し方は親しげで、壮一郎に向かって「あなたなら絶対に世界を変えられるわ」と持ち上げ、さらに「私の父もあなたと直接話がしたいの。近いうちにロサンゼルスで会えない?」などと積極的に誘っている様子だ。
やがてお茶を運んでいくと、桜はちらりとカップを見ただけで手を付けず、書類の話を続ける。
「それで、この条件で進めればうちは全面的にバックアップできると思うの。だけど、もちろんただでとは言わないわ。高柳総合病院との連携も強めていただきたいし、あなたにはもっと名前を売ってほしいの。天才外科医っていうブランドは、うちのマーケティング戦略に大いに寄与するはずよ」
まるで壮一郎を“有名外科医”という商品価値で利用しようとしているのが透けて見える。それに対して彼はどんな反応をするのか、涼子は胸の内をざわつかせながら見守る。
「名前を売るつもりはない。結果的にそうなるのは構わないが、そちらが全面的にその戦略を組むなら、俺はあくまで医療の質を高めるという目的を大前提にする。その点を外せば俺は協力しない」
壮一郎のきっぱりとした物言いに、桜はわずかに表情を曇らせる。それでも笑顔を保ちながら、「ええ、もちろんよ」と言って笑う。
「でも、あなたはもっと世界に出るべきだと思うわ。アメリカでMBAを取ったのに、日本に戻ってこんな小さな病院でくすぶっているのはもったいない。私たちクラモトホールディングスは、もっと大きな舞台へ連れていけるわよ」
「……俺には俺のやり方がある。それに、日本の小さな病院だろうと救われる命があるなら、そこに尽力するのが筋だ。俺は高柳総合病院の次期院長候補でもあるし、簡単には放り出せない」
まるで張り詰めた空気。涼子はお茶のトレーを手にしたまま、その場に立ちすくむ。桜と壮一郎の会話は、ビジネスの最前線を感じさせる激しい応酬だ。
やがて桜はフッと息をつき、「まあいいわ。あなたと話していると興奮してしまう。私、失礼するわね」と席を立った。帰り際に涼子の方へ向き直り、にこりと微笑む。
「涼子さん、奥様として大変でしょうけど、壮一郎のサポート、よろしくお願いね。私にはとても手が回らないような細かいところまで面倒を見てあげて。あなたはその程度がちょうどいいわ」
言外に「あなたは私と対等じゃない」というニュアンスを感じ、涼子は言葉を失う。ただ、反論する根拠もないので、「はい……」と小さく答えるだけだった。
桜が去ったあと、リビングには重苦しい沈黙が降りる。涼子は小さく息をつき、キッチンにトレーを片付けに行った。戻ってくると、壮一郎は書類をじっと眺めている。
「さっきは、何もできなくてすみません……。なんか、押し切られた感じで……」
「お前が気にすることじゃない。桜は俺のことを利用したいだけだ。ビジネス上は彼女の能力やコネクションを認めているが、プライベートで深入りしたいわけじゃない」
その言葉が、不思議と涼子の胸をくすぐる。まるで桜の色香に惑わされていないと断言しているように聞こえたのだ。
——本当に天才外科医は彼女を拒絶するのだろうか。それとも、何かの拍子に彼女の魅力に引きずられてしまうのでは……そんな不安が少しだけよぎる。
しかし、それ以上に涼子の心を満たしたのは、桜に対する僅かな勝利感かもしれない。
彼女が去ったこの部屋に、壮一郎は今もいてくれる。——もちろん、それは結婚という契約の鎖で結ばれているだけに過ぎないのだけれど。
涼子がマンションに戻ったのは夕方近く。玄関を開けると、意外にも壮一郎がすでに帰宅していた。
白衣姿でこそないが、ダークスーツのままダイニングテーブルの前に立ち、スマホを確認している。忘れていったスマホを取りに帰ると言っていたのは覚えていたが、まさかこんな早い時間に戻ってきているとは思わなかった。
「あ、おかえりなさい……今日は早いんですね」
「ああ。夕方の手術がキャンセルになった。患者が体調不良で延期になったんだ。夕方以降、病院に戻る予定はないが、会社の方には後で行くかもしれない」
淡々とした口調。それでも涼子は少し嬉しかった。ようやく夫婦らしく同じ空間にいられる時間ができたのだ。
「えっと、晩ご飯……一応、作ろうと思ってたんですけど、何がいいですか?」
今まであまり料理をする機会がなかった涼子だが、少しずつ料理サイトや料理本を見て勉強している。ただ味の保証はない。壮一郎の口に合うかどうかは不安だが、せっかく家にいるなら食事くらいは作りたい。
「そうだな……俺は特に何でもいい。タンパク質と野菜がバランス良く取れればいい程度だ。過度に脂っこいものは避けてくれ」
「わかりました。じゃあ、鶏肉と野菜の蒸し料理とか……あと、味噌汁とかでいいですか?」
「それなら、悪くない。助かる」
短いやりとりだが、どこか夫婦らしい会話に胸が温かくなる。涼子は慌ててエプロンをつけ、キッチンへ向かった。久しぶりに帰宅している夫のため、せめて温かい家庭料理を提供したい。
鶏肉を酒蒸しにして野菜を添え、味噌汁は具沢山にする。副菜として小松菜のおひたしやトマトのサラダも用意。手際はまだ危なっかしいが、一生懸命に作った。盛り付けまで終えたところで、壮一郎をダイニングに呼ぶ。
「……お待たせしました。あんまり自信ないんですけど……」
壮一郎は席に着くと、蒸し料理の香りを確かめ、まずは一口食べる。涼子は緊張で手が震えそうになったが、彼は無言で黙々と食べ始めた。疲れているのだろうか、それとも味が微妙なのか。評価が気になる。
数分が経過し、ほぼ半分以上を食べ終えたころ、壮一郎はようやく口を開いた。
「うん、悪くないな。鶏肉も固くなっていないし、味付けも薄めでちょうどいい。これなら健康的だ」
「ほ、本当? よかった……」
涼子は安堵のため息をつく。料理下手を指摘される覚悟だったが、合格点がもらえたようだ。これが自分にできる数少ない“妻としての役目”かもしれないと思うと、嬉しさが込み上げてくる。
食事を終えた壮一郎は、簡潔に「ごちそうさま」と告げ、ソファに腰を下ろした。涼子が皿を片付けていると、彼がスマホをいじりながら何やら浮かぬ表情をしているのに気づく。
「どうかしたんですか?」
「……病院の経営絡みで面倒が起きてる。院長代理の秀一…伊庭秀一が、無駄にコストを削減してスタッフの負担が増えているらしい」
伊庭秀一。壮一郎の従兄にあたる人物だと、英盛から聞いている。
医師免許はもっていないが、高柳総合病院の役員に名を連ねており、患者やスタッフのことよりも病院の利益を最優先に考えるタイプらしい。壮一郎とは折り合いが悪く、さらに経営の主導権を狙っているとか……。
「それで、壮一郎さんが忙しかったのも、伊庭さんとの対立のせいですか?」
「まあ、その一端はある。アイツは患者の命より利益を重視するきらいがあるから、あまりいい顔はされていない。だが、父の甥という立場で、かなり強引に経営に口を出してくるんだ。俺が外科医として手術に没頭している間に、色々と勝手に動いているようでな」
「……大変なんですね」
涼子はコップに水を注ぎ、壮一郎に差し出した。彼は「ありがとう」と小声で言い、喉を潤す。
「だが、俺はまだ臨床をやめる気はない。やりたい手術もあるし、研究もある。病院経営は父が健在のうちは俺の力がそれほど必要になるとは思えないが、秀一が勝手に動くのは阻止しなくてはならない。……ひとまず結婚を機に“落ち着いた”と思わせたので、父は俺に対しておとなしくしてくれているが……現状では、秀一の方が厄介だな」
「そうだったんですね……。私に何かできることは……」
思わずそう尋ねかけて口を噤む。涼子が口を出せる問題ではない。それでも、彼の疲れた横顔を見ると、何か力になりたいと思ってしまう。
と、そのときだった。急にインターホンが鳴り、涼子がモニターを確認すると、なんと倉本桜がそこに映っていた。マンションのエントランスに、赤いコートに身を包み、毅然とした様子で立っている。
「クラモトホールディングスの倉本です。突然押しかけて申し訳ありませんが、少しお話しできますか?」
涼子は思わず固まる。どうして彼女がここへ? このマンションの住所を知っていることにも驚きだ。
壮一郎は涼子の表情から何かを察したのか、「どうした?」と問いかける。
「い、いま、倉本桜さんが……」
「……ここへ来たのか」
壮一郎の眉間に皺が寄る。何を狙っているのか想像がつかないが、少なくとも彼女は遠慮なくプライベートを侵入してくるだけの積極性を持っているらしい。
「通してやってくれ。追い返してもよけい面倒だろう」
「わ、わかりました」
しばらくすると玄関のチャイムが鳴り、涼子は緊張しながらドアを開ける。桜はにこやかに微笑み、涼子の顔を見ると少しだけ目を細めた。
「こんばんわ。涼子さん、ですよね。あなたが壮一郎の“奥様”だとか」
その声には皮肉が混ざっているようにも聞こえるが、はっきりと攻撃的というわけでもない。
「お忙しいところ失礼します。ちょっと壮一郎に渡したい資料があって……」
そう言って桜は手にした資料封筒を示す。だが、その程度の用事なら会社やメールで済むはず。わざわざ自宅を訪れるのは、明らかにプライベートを探る意図があるのではと思わざるを得ない。
リビングへ通すと、桜は部屋をざっと見回し、テーブルの上の料理の名残などを確認し、何かを悟ったように微笑む。
「へえ、ちゃんと奥様らしく料理なんかもされるんですね。結婚したばかりの新婚さんらしいわ」
言葉に含みがある。涼子は居心地の悪さを感じつつも「はい、まあ……」と曖昧に答えるしかない。そこへ壮一郎が姿を現した。
「桜、勝手に来られるのは困る。何か要件があるなら会社を通してほしいが」
「あら、ひどいわね。私たち、アメリカで一緒に苦学した仲じゃない。それに、あなたと早急に打ち合わせたいことがあったのよ。提携契約について、うちの父が乗り気になってるの。だから直接書類を見せて意見を聞きたくて」
桜は封筒から書類を取り出し、壮一郎に差し出す。彼は一瞥し、「後で読んでおく」とだけ言う。
「部屋に入れてくださったのだから、お茶くらい出してもらってもいいんじゃない?」
桜はわざと涼子を見る。ここは主人としてもてなすべきなのか。しかし、桜の態度はどこか挑発的だ。涼子がためらっていると、壮一郎が一言「涼子、お茶を出してくれないか」と頼む。仕方なくキッチンへ向かい、湯を沸かす。
その間、リビングで二人が会話している声が聞こえる。桜の話し方は親しげで、壮一郎に向かって「あなたなら絶対に世界を変えられるわ」と持ち上げ、さらに「私の父もあなたと直接話がしたいの。近いうちにロサンゼルスで会えない?」などと積極的に誘っている様子だ。
やがてお茶を運んでいくと、桜はちらりとカップを見ただけで手を付けず、書類の話を続ける。
「それで、この条件で進めればうちは全面的にバックアップできると思うの。だけど、もちろんただでとは言わないわ。高柳総合病院との連携も強めていただきたいし、あなたにはもっと名前を売ってほしいの。天才外科医っていうブランドは、うちのマーケティング戦略に大いに寄与するはずよ」
まるで壮一郎を“有名外科医”という商品価値で利用しようとしているのが透けて見える。それに対して彼はどんな反応をするのか、涼子は胸の内をざわつかせながら見守る。
「名前を売るつもりはない。結果的にそうなるのは構わないが、そちらが全面的にその戦略を組むなら、俺はあくまで医療の質を高めるという目的を大前提にする。その点を外せば俺は協力しない」
壮一郎のきっぱりとした物言いに、桜はわずかに表情を曇らせる。それでも笑顔を保ちながら、「ええ、もちろんよ」と言って笑う。
「でも、あなたはもっと世界に出るべきだと思うわ。アメリカでMBAを取ったのに、日本に戻ってこんな小さな病院でくすぶっているのはもったいない。私たちクラモトホールディングスは、もっと大きな舞台へ連れていけるわよ」
「……俺には俺のやり方がある。それに、日本の小さな病院だろうと救われる命があるなら、そこに尽力するのが筋だ。俺は高柳総合病院の次期院長候補でもあるし、簡単には放り出せない」
まるで張り詰めた空気。涼子はお茶のトレーを手にしたまま、その場に立ちすくむ。桜と壮一郎の会話は、ビジネスの最前線を感じさせる激しい応酬だ。
やがて桜はフッと息をつき、「まあいいわ。あなたと話していると興奮してしまう。私、失礼するわね」と席を立った。帰り際に涼子の方へ向き直り、にこりと微笑む。
「涼子さん、奥様として大変でしょうけど、壮一郎のサポート、よろしくお願いね。私にはとても手が回らないような細かいところまで面倒を見てあげて。あなたはその程度がちょうどいいわ」
言外に「あなたは私と対等じゃない」というニュアンスを感じ、涼子は言葉を失う。ただ、反論する根拠もないので、「はい……」と小さく答えるだけだった。
桜が去ったあと、リビングには重苦しい沈黙が降りる。涼子は小さく息をつき、キッチンにトレーを片付けに行った。戻ってくると、壮一郎は書類をじっと眺めている。
「さっきは、何もできなくてすみません……。なんか、押し切られた感じで……」
「お前が気にすることじゃない。桜は俺のことを利用したいだけだ。ビジネス上は彼女の能力やコネクションを認めているが、プライベートで深入りしたいわけじゃない」
その言葉が、不思議と涼子の胸をくすぐる。まるで桜の色香に惑わされていないと断言しているように聞こえたのだ。
——本当に天才外科医は彼女を拒絶するのだろうか。それとも、何かの拍子に彼女の魅力に引きずられてしまうのでは……そんな不安が少しだけよぎる。
しかし、それ以上に涼子の心を満たしたのは、桜に対する僅かな勝利感かもしれない。
彼女が去ったこの部屋に、壮一郎は今もいてくれる。——もちろん、それは結婚という契約の鎖で結ばれているだけに過ぎないのだけれど。