仮面弁護士~笑顔の下の劣情~
第一話 出会い
「オマエがぐずぐずしてるから、売り切れたじゃないか!」

「ご、ごめんなさい」

彼氏である小出(こいで)章平(しようへい)に怒鳴られ、七原(ななはら)音花(おとは)は怯えたように身を小さくした。
章平は音花のせいにしているが、家を出るのが遅くなったのは彼女のせいではない。
そろそろ起きたほうがいいという音花に、まだ眠いとベッドの中でうだうだしていたのは章平だ。
しかも、ようやく起きたかと思ったらどうしてもっと早く起こさなかったのかと怒鳴られるのもお約束だった。

二十四歳の音花が二つ年上の章平と付き合い始めたのは一年前。
幸せいっぱいだったあの頃が懐かしい。
少しずつ本性を現しだした章平が、完全なモラハラ彼氏となったのは同棲を始めて二ヶ月が経った頃だった。
それ以来、音花は章平の機嫌を伺いながらびくびくと生きている。

今日は三十足限定の、スニーカーを買いに来ていた。
といっても章平がそのスニーカーがほしいというわけではなく、転売が目的だ。
音花と自分、二足買って儲けるはずがもくろみが外れて腹を立てている。

「くそっ!」

悪態をついた章平が傍にあった自販機を蹴りつけ、大きな音が響いて音花は身を竦ませた。
さらに周りの人が何事かとこちらを見る。

「見てんじゃないぞ、ごらぁ!」

それに対して章平が凄み、音花は申し訳なさそうに周囲の人々へと頭を下げた。
音花を無視し、どんどん歩いていく彼を慌てて追う。

「くそっ、くそっ!オマエのせいで大損だ!」

「ごめんなさい」

謝りつつ、半ば小走りで章平の後ろをついて歩く。
頭を占めるのはどうやったら彼が、機嫌を直してくれるのか、だ。

「そうだ」

なにかを思いついたのか、彼が唐突に立ち止まる。
おかげで激突しそうになったが、どうにか耐えた。

「オマエのせいで大損したんだからオマエがその分、埋め合わせるべきだよな?」

振り返った章平の目が、にたりとイヤラシく歪む。
そう言って前は、高い携帯を買わされた。
今度はいったい、なにを要求されるのだろう。
怯えながら音花は彼がなにを言うのか待っている。

「金寄越せ、金。
ん?」

章平が右手を差し出して揺らす。
一瞬、なにを言われているのかわからなかったがすぐに理解し、音花は慌ててバッグから財布を出した。
そこからお札を引き抜くよりも先に、彼の手が財布を掻っ攫っていく。

「けっ、しけてんな。
こんだけしかもってないのかよ」

財布からお札を全部抜き、章平は顔を顰めた。
件のスニーカーはカードで買うつもりだったし、現金はあまり持ち歩いていない。

「カードも借りるぞ」

「あっ」

クレジットカードも抜いて彼が財布を投げ、慌てて音花は受け止めた。

「じゃ、俺は遊んでくる。
オマエは家に帰って綺麗に掃除して、晩メシ用意して待ってろ。
このあいだみたいにゴミが落ちてたり、メシがまずかったりしたら、承知しないからな」

「あ、あの」

音花を無視し、どこかへ行こうとする章平に声をかける。

「ああっ?」

振り返った彼は不機嫌に音花を睨んだ。

「なんか文句あるのか」

「その。
帰りの交通費がないので、少しもらえたら」

曖昧な笑顔を作り、媚びるように彼に頼む。
交通系ICカードは持っているが、残高がほとんどないので帰りにチャージしようと思っていた。
クレジットカードがあればそれでも電車には乗れるが、それも取り上げられている。

「知るか。
自分でどうにかしろ」

「あっ……」

今度は止める間もなく足早に章平は去っていった。

「……っう」

彼の姿が見えなくなり、音花はその場に座り込んだ。
お腹が激しく痛む。
昨日は拒んだので自分が生理中なのは知っているはずなのに、章平はまったく気遣ってくれない。
それどころか昨晩はなんで生理中なのかと咎められ、無理矢理口でさせられた。
しかも、乱暴に扱われ涙目になっている音花を彼は、面白がってゲラゲラ笑っていた。

道の端でしゃがんでいる音花に誰も気づかない。
薬は飲んできたが、効いていないようだ。
というかこのところ、ほとんど効かない。
ひたすらじっとして波が治まるのを待った。

「大丈夫、ですか」

不意に声をかけられ、頭を上げる。
スーツ姿で黒縁眼鏡をかけた若い男が心配そうに音花を見下ろしていた。

「えっ、あっ、……大丈夫、です」

人様に迷惑をかけるわけにはいかず、慌てて立ち上がる。
けれど、よろけてしまった。

「おっと」

ふらついた彼女を男性が支えてくれる。

「す、すみません」

その胸を押して離れようとしたが、上手く身体に力が入らない。
それに彼の腕が音花を逃がさないかのように彼女を抱きしめていた。

「病院へ行きましょう」

音花をしっかりと支え、彼がタクシーを捕まえるつもりなのか通りのほうへと足を踏み出す。

「あの、病院とか行かなくても大丈夫なので」

とは言いつつ、貧血からか頭がくらくらし、冷や汗を掻く。

「しかし」

自分の顔をのぞき込む彼はかなり心配そうだ。
酷い顔色をしている自覚はあるが、病院へ行ってただの生理痛だと恥を掻きたくない。
それに病院にかかろうにもお金は全部、章平が持っていき僅かな小銭しか手もとにはなかった。

「本当に大丈夫、なので」

彼に納得してもらおうと無理にでも笑顔を作る。
けれど彼はずっと険しい顔のままだ。

「事務所、すぐ近くなんです。
せめて休んでいきませんか」

正直にいえば少し、座りたい。
これくらいなら許されるだろうか。
それにこのままでは彼が、納得してくれそうにない。

「その。
……じゃあ」

音花はありがたく、その提案に乗った。

彼が音花を連れていったのはそこから五分とかからない距離にある、雑居ビルに入る弁護士事務所だった。

「仮眠用のベッドがあるので、よかったらそこで横になってください」

それはとてもありがたいが、ベッドを汚す可能性があるのでできない。

「あの、その、えっと」

しかし知らない男性に生理中だからと説明するのも憚られ言葉を濁していたら、なにかに気づいたのか彼が頷いた。

「少々、待っていてくれますか」

「えっ、……はい」

音花が戸惑い気味に承知の返事をしたのを確認し、男性は出ていった。
ひとりになり、膝を抱えてベッドの上で丸くなる。

「……お腹痛い」

早く帰って章平と住んでいるマンションの部屋を塵ひとつないように掃除し、彼が気に入る食事を作っておかなければならないのはわかっている。
けれど今は、一歩も動けそうにない。
それに帰りの電車賃をどうしたらいいのかもわからなかった。
歩いて帰るには一時間以上かかるため、それでなくてもこの最悪な体調では無理そうだ。

「ううっ……」

痛みに耐えかねて小さな唸り声が自分の口から出てくる。
ひたすら辛抱していたら、ドアがノックされた。

「すみません、おひとりにして」

戻ってきた彼は大きく膨らんだ紺色のエコバッグを手にしていた。

「お店にある中で一番長い夜用のものを買ってきました。
あと、薬と飲み物と、温めると痛みが和らぐとも聞きましたから、カイロも」

「え……」

彼がエコバッグの中身を見せながら説明してくれるが、まさかこれを自分のために買いに行ってくれたのだろうか。
章平など一緒に買い物へ行ったときに生理用品を買うのすら嫌がるのに。

「トイレは事務所を出て右手奥です。
これで安心して横になれますか?」

不安そうに彼が音花の顔を見る。

「あの。
……ありがとう、ございます」

わけがわからないままもお礼を言い、受け取ったエコバッグをありがたく抱いてベッドを下りた。
そのままトイレに行ってナプキンを変える。
そんなに自分を気遣ってくれるなんて思わなかった。
本当にいい人だ。
ふと、これだけで気を許しそうになっている自分に気づき、音花は身震いがした。
章平だって最初は、そうだったではないか。

戻った事務所では彼が受け付けで携帯を見ていた。
音花に気づき、顔を上げる。

「大丈夫ですか」

「……はい」

僅かながら笑ってみせる。
本当は体調はよくない。
けれどあまり彼に気づかれて心配されたくなかった。

「まだ顔色がよくありません。
やはり少し、横になっていってください」

「……お心遣い、ありがとうございます」

彼の言うとおり、トイレに行って戻ってくるだけでもやっとだった。
これで一時間以上かけて歩いて帰るなど、無謀だろう。

言葉に甘えて今度こそ仮眠用のベッドで横になる。

「別になにもしませんから、安心してください」

「……はい」

目を閉じると限界だったようで意識が遠くなっていく。
気を失うように眠りに落ちる際、まだ名乗ってもいないのに彼から「音花さん」と呼ばれた気がした。

優しい雨垂れのような音が聞こえ、次第に意識が浮かんでくる。
ゆっくりとまぶたを開けると傍らの机でノートパソコンのキーを打っている彼が見えた。

「目が覚めましたか」

「……はい」

なんでこんなところにいるのだろうとぼんやりとしていたが、すぐに体調が悪くて動けなくなっているところを彼が助けてくれたのだと思い出した。

「体調はどうですか」

心配そうに彼が聞いてくる。

「だいぶいい、です」

ここに来たときよりも体調はかなり回復していた。
追加で飲んだ薬がようやく効いたのかもしれない。

「お世話になりました。
ありがとうございました。
その、買ってきていただいたもののお金、は」

現金はないが携帯は手もとにある。
使っているバーコード払いが同じなら、送金はできる。

「いいですよ、僕が好きでやったんで気にしないでください」

しかし彼は爽やかに笑い、断ってしまった。

「え、でも」

「本当にいいので。
それより、送りますよ」

困惑している音花をよそに、彼がノートパソコンを閉じる。

「顔色はマシになりましたが、まだ長く歩いたりはつらいんじゃないんですか。
それにこのまま帰したら無事に帰り着いたのか僕が心配です。
だから、送らせてください」

黒縁眼鏡の向こうから彼がじっと音花を見つめる、その目は本当に自分を案じているようだった。

「えっと……。
じゃあ、お願い、……します」

帰りの電車賃がない音花にはありがたく、迷いながらも承知した。

近くの駐車場まで歩くのすら、彼は音花を気遣ってくれた。

「すみません、遠くて」

「いえ……」

彼は申し訳なさそうだが、駐車場は目と鼻の先だ。
さらに音花が無理をしないでいいようにゆっくりと歩いてくれる。
どんなときでも自分のペースでどんどん歩いていく章平とは大違いだ。

「どうぞ、乗ってください」

彼がわざわざ助手席のドアを開けてくれたのは白の、ミドルタイプのSUVだった。

「おじゃま、……します」

それに恐縮しつつ、おそるおそる車に乗る。
すぐに彼も運転席に座った。

「お家は××のほうですか」

「え?」

ナビを操作する彼の顔を思わず見ていた。
なんで自分が住んでいるところを知っているのだろう。

「なんとなくそんな気がしただけです。
あそこの路線を使うのは、あのあたりに住んでいる人が多いですから」

音花の疑問に答えるように彼が説明してくれる。
確かに近くの駅の利用者はその地域の人間が多く、納得した。

詳しい住所を音花から聞き、彼はナビをセットして車を出した。

「その。
僕の勘違いかもしれませんが、……なにか、お困りじゃないですか」

少し言いづらそうに聞かれ、バッグにのせた音花の指がびくりと反応した。

「名乗り遅れましたが、僕は弁護士をしている実方(さねかた)夏也(なつや)と申します」

丁寧に彼が、自己紹介をしてくれる。
連れていかれたのが弁護士事務所だったのでそうではないかと思っていたが、よく見るとスーツの襟にも弁護士を示すバッジがついていた。

「あの。
……七原音花、です。
雑貨店に勤めています」

彼が自己紹介してくれたので、流れで自分もする。

「〝おとは〟は音に花ですか」

「えっ、あっ、……そう、です」

聞かれて、驚いた。
名前の漢字を当てられるものはそうそういない。
いたとしても音に葉だ。

「素敵な名前ですね」

「……ありがとう、ございます」

褒められたのは名前なのに、まるで自分が褒められたかのようにほのかに頬が熱くなる。

「それで音花さん。
音花さんはなにか、お困りじゃないですか」

いったい彼は、なにを言いたいのだろう。
生理痛が酷くて動けなくなって困ってはいたが、彼が言うのはそれではない気がする。

「その。
僕は男が、音花さんから奪った財布からお金とカードを抜いて去っていくのを見ていました」

あんな恥ずかしい場面を見られていたのだと、さっと音花の顔色が変わった。

「もしかしてあれは、彼氏ですか。
音花さんは彼氏から日常的に、暴力や暴言を受けているのでは……」

「違います!」

彼に最後まで言わせず、音花が力一杯、否定する。

「本当はいい人なんです。
今はちょっとその、仕事で苛々することがあって。
それに彼は、私のために言ってくれているんです」

本当は違うとわかっていた。
けれどそう思い込まないと心が折れそうだった。
いつかきっと、優しい彼に戻ってくれる。
そんなことはないとわかっていながら、そう思い込んでどうにか自分を保っていた。
だからそうやって現実と向きあわせないでほしい。

「そう、ですね」

彼の口から出たのは意外にもお世話になっている職場の上司のように自分を追い詰めるものではなく、思わずその顔を見ていた。

「きっと彼氏さんは音花さんの言うとおり、いい人なんでしょう」

「……はい」

どうしてこの人は自分の言葉を否定せずに認めてくれるのだろう。
それがとても、音花は不思議だった。

「でも、音花さんも酷く疲れていますよね」

「そう……ですね」

いつも耳を塞ぎたくなる自分を説得する必死なものではなく、静かな彼の声が心に染みる。

「僕は音花さんには少し、休養が必要だと思うんですが」

「そう……ですね。
酷く疲れてしまいました……」

ずっと張っていた気を緩めるように長く息を吐き終わると、涙がぽろりと頬を転がり落ちた。
それはぽろり、ぽろりと断続的に落ち、そのうち止まらなくなった。

「うっ、……ふっ」

声を押し殺し、泣く音花の隣で彼は黙って運転している。
ようやく涙が落ち着いてきた頃、声をかけてきた。

「このまま家には送らず、事務所にUターンしてもいいですか」

「……はい。
お願いします」

実方さんにすべて話してしまおう。
それで、章平とは別れる。
きっとこの人なら彼がなにか言ってきても、なんとかしてくれる。
ずっといた真っ暗な中に光が差し、音花は気持ちが軽くなった気がした。

これが七原音花と実方夏也の、出会い――だと、音花はずっと信じていた。
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