【1話だけ大賞部門賞】売られた聖女令嬢は、元奴隷の騎士に買われ花嫁となる
●第1話:買われた令嬢
とある闇オークション――それは廃墟となった城で密かに開催されていた。
会場となった城の大広間は稀少な商品を求めて集まった客たちでぎっしり埋まり、むせ返るような熱気が渦巻いている。
客たちは皆選ばれた裕福な人間たちで、男性はタキシード、女性はドレスに身を包んでいる。
いずれも身元を隠すため目元を仮面で覆っており、さながら仮面舞踏会の様相を呈していた。
だが、ほとんどの者が互いに誰かは知っていた。
何せ参加するには多額の費用とコネが必要なのだ。大金を持つ好事家は限られている。
秘密保持契約の書類にサインをしてあるため、互いにそ知らぬ振りをしているだけだ。
壇上に仮面をつけた司会の男が登場すると、わっと会場が沸いた。
「さて、今回の目玉商品、18歳の貴族の令嬢です!」
壇上に連れてこられたのは、美しい金色の髪をした少女だった。
商品価値を高めるためか、豪奢なドレスに身を包んでいる。
だが、無惨にも両手には鎖が巻かれていた。
「ご存知の方もいらっしゃるでしょう。アシュリー・ヒギンズ嬢です!」
*
いきなり明るい場所に出されたアシュリーは、眩しさに目を細めた。
思わず手で目を覆いたくなったが、じゃらりと音を立てる鎖が重くてうまく手を動かせない。
鎖には逃亡を阻む意図もあったが、それよりは見世物的な意味合いの方が大きかった。
要はアシュリー自身に自分は『奴隷』だと思い知らせること、また客たちを喜ばせるための演出だ。
(アシュリー、しっかりするのよ。自分で選んだ道じゃない)
己を鼓舞し、小さく震えながらもアシュリーはしっかと顔を上げ、会場を見回した。
仮面をつけた客たちは軽く50人を越えるだろう。
皆、一様にアシュリーに好奇の眼差しを向けている。
落ちぶれた貴族の令嬢を値踏みしているのだ。
司会がアシュリーにさっと手を向ける。
「ご覧ください、この美しい金の髪と薄紫色の瞳を持つご令嬢を!」
客たちが薄笑いを浮かべてアシュリーを見つめる。
「彼女は哀れにも実家である公爵家が破産し、売りに出されました!」
アシュリーはぐっと手を握った。
父が亡くなってから、ヒギンズ家は転がるように落ちぶれていった。
領地や事業のことなど興味がない義母に意見しようにも、アシュリーの言葉など届かなかった。
「アシュリーは『奇跡の聖女』とも呼ばれる予見の能力持ちです!」
それも過去の話だ。
アシュリーの予見のおかげで領地は災害被害を最小に抑えることができたが、父が亡くなった10歳の頃から力は発現していない。
「滅多に出ない高貴な出自の聖女、美しき純潔の令嬢です!!」
アシュリーは屈辱に顔を歪めた。
聖女の力と呼ばれるこの人ならざる力は、純潔の乙女でなければ消えるとされている。
(私は確かに純潔だけれど……力はもうない)
だが、珍しい『聖女の力』がなくとも、純潔の貴族の令嬢というだけで欲する者もいる。
アシュリーは、客たちの中でもひときわ熱い視線を送ってくる男を見つめた。
(ランデール公爵……)
仮面をつけていてもわかる、印象的な波打つ栗色の長い髪。
ショーン・ランデール公爵で間違いないだろう。
年齢はアシュリーの倍、36歳になる。
彼には『黒いネクタイ――ブラックタイ――』の二つ名がある。
これまで娶った妻は8人。全員が結婚して一年足らずで亡くなっているのだ。
金と権力でもみ消しているらしいが、どうやらひどい暴力で殺したという噂だ。
そして、ランデール公爵はアシュリーを欲しがっていた。
彼の好みは『純潔の貴族令嬢』だ。
公爵家が没落するや否や、何度も求婚の申し込みがあった。
立場が弱い相手ならば、自分の好きなようにできると考えたからだろう。
だが、アシュリーは他の縁談と同様、頑なに断った。
結納金目当ての義母たちからは散々なじられたが、アシュリーはまだ聖女である自分にすがっていたかったのだ。
だが、もはや相手を選ぶ余地すらない立場に落とされた。
アシュリーは最前列に座ったランデール公爵から、そっと目をそむけた。
(彼に競り落とされたら私は――)
ぎゅっと強く拳を握る。
自分の体や命が金を持った他者に委ねられていると思うと、屈辱と絶望が込み上げてくる。
司会の男が意気揚々と声を張り上げた。
「さあ、皆様ご参加くださいませ!」
すっと司会が人差し指を立てる。
「1万ギニーからスタートです!」
「50万ギニー」
間髪入れず手を挙げたのは、ランデール公爵だった。
(ああ、やっぱり私は……)
目の前が暗くなっていく。
いきなり提示された破格の値付けに、場内がざわめいた。
競りは通常、少しずつ上げていくものだ。
いきなり大金を提示するのは、ライバルたちを意気消沈させ、なんとしてもアシュリーを競り落とそうという意気込みの表れだろう。
50万ギニーあれば、大きな屋敷が一つ買える。たかだか奴隷の女一人にポンと出せる金額ではない。
「50万ギニーの方が出ました! 他にいらっしゃいませんか?」
司会がガベル――オークションハンマー――を握りながら言う。
競りの終了を告げるガベルが今にも振り落とされそうだ。
ランデール公爵の口角が上がる。もはや競り落としたと確信しているのだろう。
今にも心臓が破裂しそうに痛み、アシュリーはきゅっと目をつぶった。
「100万ギニー」
澄んだ声に、アシュリーははっと目を開けた。
手を挙げているのは真ん中辺りに座っているタキシード姿の若い青年だ。
薄暗い場内でもはっきりわかる輝く白銀の髪をした青年は、余裕の微笑みを浮かべている。
提示された桁違いの価格に、しん、と会場は静まり返った。
100万ギニーあれば、城が一つ買える。
客たちは驚きの顔で、片手を挙げている白銀の髪をした青年を見やった。
「ひゃ、100万ギニーが出ました!」
司会の声も驚きに引きつる。
「他にいらっしゃいませんか?」
手を挙げる者は誰もいない。
さしものランデール公爵も、苦い表情を浮かべ腕を組んだままだ。
そもそも、100万ギニー以上の金をポンと出せる者は闇オークションの客でもそう多くはない。
司会が会場を丁寧に見渡し、ガベルを振り下ろした。
「それでは100万ギニーで落札!」
会場がざわめくなか、白銀の髪をした青年がすっと立ち上がる。
「おめでとうございます! そちらの紳士がアシュリー嬢の主です!」
あまりの急展開についていけないアシュリーは、用心棒たちに支えられながら呆然と舞台上から控え室へと移動させられた。
(私……買われた……)
(100万ギニーで……)
(いったい、誰だろう?)
社交界では見たことのない男性だ。だが、この会場にいるということは、貴族か何らかの有力者であることは間違いない。
(ううん、誰でも関係ない。今日から、私は奴隷……)
破格の大金で買われたのだ。
自分がいったいどんな目に遭わされれるのか想像するだけで震えがくる。
そのとき、控え室に白銀の髪の青年が入ってきた。
すらりとしているが、タキシードの上からでも鍛え上げられているのがわかる。
青年が軽く手を振ると、屈強な見張りの男たちが部屋を出ていく。
アシュリーと二人きりになると、青年は黒い仮面を外した。
「久しぶりだな、お嬢様」
アシュリーは驚きにラベンダー色の目を見開いた。
青年の整った顔立ちと剣呑な光を帯びる青い目に見覚えがあった。
「まさか、リアム……!?」
10年前、自分を憎々しげに見上げてきたボロボロの少年の姿が浮かぶ。
まるで飢えた白い子狼のようだった。
「ああ、そうだよ」
「信じられない……見違えたわ」
21歳になったリアムは、元浮浪児とは思えない立派な紳士となっていた。
リアムを最後に見たのは8年前だ。
(たった8年でこんなに背が伸びて、風格ができて……)
(しかも100万ギニーを出せる財を成したなんて……)
それはリアムが必死で努力してきた道のりを彷彿させるに充分だった。
「あなたは騎士見習いとして、ドーンウォール城に行ったと聞いたけど……」
「ああ。14歳で従騎士として戦場へ行った。18歳で騎士に叙任。今は騎士団の団長をしている。この前の戦争で武勲を立てて爵位と領地をもらった」
華々しい経歴だったが、リアムの口調は淡々としていた。
ただ事実を羅列し、冷ややかにアシュリーを見つめている。
「つまり、立場が逆転したってことだよ。お嬢様」
わざとらしい『お嬢様』呼びに、アシュリーはきゅっと手を握った。
(やっぱり憎まれているのね……)
アシュリーの脳裏にリアムとの10年前の出会いが浮かんだ。
アシュリーは当時8歳。父に連れられ、領地の町へ行ったときのことだ。
広場の方が騒がしく、何事かと父と共に向かうと罵声が聞こえてきた。
「この盗人が! ようやく捕まえたぞ!」
「ただじゃ済まさないからな!」
興奮した大人たちに囲まれていたのは、ボロボロになった白銀の髪の少年だった。
顔には殴られたアザがいくつもあり、腕は乱暴に縄でぐるぐる巻きにされている。
彼の足元にはパンが2個落ちていた。
どうやらパンを盗んで捕まったらしい。
「腕を切り落としてやる!」
「いっそ殺しちまえ!」
物騒な言葉に、アシュリーはびくりとした。
少年の命が風前の灯火なのは、火を見るより明らかだった。
「待ってください!」
アシュリーは幼かったが、ぱっと見ただけで少年の事情はおおよそ察しがついた。
親がいないか、いたとしても面倒を見てくれず、やむを得ずパンを盗んだのだろう。
同情の余地はあるものの、町民たちの憤りからすると何度も繰り返されたのは想像に難くない。
殺気立った町民たちから彼を救う手立ては一つしかない。
アシュリーは父であるキーファを見上げた。
「お父様、この少年を買ってください」
アシュリーの凜とした表情と決意を込めた声音に、キーファは意図を汲んでくれたようだ。
「わかった」
領地を治める公爵であるキーファが進み出ると、町民たちはしん、と静まり返った。
「この子が盗んだぶんは私が弁償する。だから彼を私に引き渡してくれないか?」
町民たちが戸惑ったように顔を見合わせる。
「こ、こいつには以前からいろいろ盗まれて――」
「では、1万ギニー払おう。それでこの少年を買い取る。どうだね?」
1万ギニーという大金は、損害の補填と慰謝料に充分だったようだ。
異を唱える者などおらず、すぐさま少年は繋がれたままアシュリーに引き渡された。
(思えば、私の人生で一番高い買い物だった……)
罪人だった少年は今や立派な騎士団長で貴族にまで成り上がった。
(でも、あの鮮烈な目だけは変わらない)
(ギラギラとした、飢えて傷ついた狼のような瞳……)
リアムの青い瞳と、アシュリーの薄紫色の瞳が交差した。
「行くぞ」
リアムがアシュリーの手に繋がれた鎖を引っ張る。
(彼の言うとおり……立場が逆転したわ)
金で買った少年に金で買われた自分に、苦い笑いが浮かんだ。
*
立派な屋根付きの馬車に乗り込むと、リアムは無言で車窓を見つめた。
まるでアシュリーのことなど、気にも掛けていないようだ。
100万ギニーという大金を出して買ったというのに、興味を示す様子はない。
無言のままが気まずく、アシュリーは口を開いた。
「あのとき、貴方を守れなくてごめんなさい……」
答えはない。
アシュリーは静かにリアムを屋敷に引き取った時のことを思い出していた。
リアムは公爵家の使用人として働くことになったが、キーファの後妻でアシュリーの義母であるハンナから執拗なイジメにあった。
「こんな浮浪児を買い取るなんて!」
ハンナはリアムの出自も、アシュリーが買ったという事実もすべて気に入らず、リアムにつらくあたった。
「命があるだけ、ありがたく思いなさい!」
粗末な食事に過酷な労働をみかねたアシュリーがリアムをかばうと、ハンナはいきり立った。
「おまえに指図される覚えはないわ!」
義母のハンナは実の娘であるミレイだけを可愛がり、アシュリーを露骨に煙たがった。
さすがにキーファがいるときは露骨な態度を見せることはなかったが、キーファが多忙なことをいいことに、何かとアシュリーにつらくあたった。
そしてそれはアシュリーの持ち物であるリアムにも波及した。
「私、お義母様に逆らえなくて……。あなたにつらい思いをさせてしまったわ」
そして、8年前に父であるキーファが急死し、すべてが変わった。
目の敵にされていたリアムは、これ幸いと追い出されるようにして知人の城に騎士見習いとして預けられた。
「貴方を守れなかったこと……本当に申し訳なく思っているわ」
「おまえなんかに守られる筋合いなんかない!!」
リアムがいきなり激高したので、アシュリーはびくっと肩を上げた。
「ご、ごめんなさい……」
リアムは不機嫌そうに、再び車窓に顔を向けた。
「……鎖がじゃらじゃらとうるさいな」
そう言うと、リアムがポケットから鍵を取り出し、鎖についている錠前を外した。
重い鎖から自由になり、アシュリーはホッと息を吐いた。
「あ、ありがとう……」
リアムの青い瞳が冷ややかにアシュリーを見つめる。
「鎖を外したからといって逃げられると思うなよ」
「逃げるなんて……」
あんなに大金を使わせてしまったのだ。しかも、恐ろしいランデール公爵に競り落とされずに済んだ。
「感謝してるわ」
あれほどの大金分の価値が今の自分にあるとは思えないが、できるだけ彼の役に立ちたいとアシュリーは思っていた。
「ありがとう、リアム」
頭を下げるアシュリーに、リアムはつまらなさそうにそっぽを向いた。
一時間ほどして、馬車が止まった。
「下りろ」
言われるがまま馬車を降りたアシュリーは目を見張った。
周囲を高い壁で覆われた、立派な城がそびえ立っている。
「すごい……これがあなたの城?」
「ああ、そうだ。この辺りすべてが俺の領地だ」
大金を使って自分を競り落としたことから想像はついていたが、リアムは短い間にかなりの武勲を上げ、褒賞を受け取ったようだ。
(まだ21歳なのに、自分の力だけでこれほどのものを得るなんて……)
アシュリーは傍らを堂々と歩くリアムを見上げた。
ピンと背筋を伸ばし堂々と歩くリアムからは、ガリガリに痩せた浮浪児の面影はない。
頭を下げる門兵に軽く手を上げると、リアムが城内に足を踏み入れる。
城の前には執事服を着た若い青年が待ち構えていた。黒髪をきっちりと後ろでまとめており、いかにも有能そうだ。
「お帰りなさいませ、リアム様」
柔和な笑みを浮かべた執事服の青年のはしばみ色の目が、アシュリーの方を向いた。
「……今日からここで暮らす、アシュリーだ」
リアムがふいっと顔をそらせながら、アシュリーを紹介する。
何やらきまりが悪そうだ。
執事服の青年が丁重に頭を下げてくる。
「初めまして、アシュリー様。家令のジェラルドと申します」
「あっ、アシュリーです。あの、私……」
買われた奴隷というのに、屋敷を切り盛りする家令から頭を下げられ、アシュリーは困惑した。
リアムが不機嫌そうに顎をくいっと上げた。
「おまえは俺の婚約者、ということになっている」
「えっ……」
意外な言葉にアシュリーは絶句した。
(奴隷ではないの……?)
「あくまで表向きは、だ」
リアムがじろりと睨んでくる。およそ、婚約者に向ける眼差しではない。
「一応爵位持ちの貴族になったんだ。闇オークションで女を買ったなんて言えるか」
「あ、あの、でも……」
なぜ使用人ではなく婚約者なのかわからず、アシュリーはおろおろした。
「だが、調子に乗るなよ」
リアムがぐっとアシュリーの顎をつかむ。
「おまえが金で買われた奴隷だというのは変わらない」
「は、はい……」
「立ち話もなんですから、お二人はどうぞ中に」
ジェラルドが柔らかい口調で割って入ってきた。
リアムがハッとしたように口を閉ざす。
「……説明は後でする。来い!」
リアムに腕を引っ張られ、アシュリーは転ばないように必死で廊下を進んだ。
城内は広く、その立派さにアシュリーは驚いた。
リアムがようやく足を止める。
と、同時にアシュリーは高価そうな絨毯の敷かれた部屋に引きずり込まれた。
「っ!!」
そこは豪奢な家具が置かれた応接室のようだった。中央にはソファとテーブルが置かれている。
リアムが乱暴にアシュリーを大きなソファの上に放り投げる。
「あっ」
鍛え上げられたリアムの膂力に、アシュリーは軽々とソファの上に倒れ込んだ。
間髪入れず、リアムが覆い被さるようにしてソファに手をつく。
「リ、リアム……」
アシュリーはごくりと唾を飲み込んだ。
リアムが挑戦的にアシュリーを見下ろす。
「おまえは今でも穢れなき乙女のままか」
リアムがそっとアシュリーの金色の髪を一房つかむ。
「!!」
「答えろ。奇跡の聖女様」
その言葉に、リアムが自分に大金を支払った理由がわかった。
「私は……乙女のままよ。でも……聖女の力はあれから発現しなくて……」
アシュリーはぎゅっと目をつぶった。
奇跡の力がないと知れば、リアムはさっさと自分を売り払うかもしれない。
だが、嘘はつけなかった。
「ふん……」
いきなり首筋に温かい湿った感触があった。
リアムに舐められたのだと気づいたアシュリーは叫んでいた。
「や、やめて!」
だが、相手は鍛え上げられた騎士だ。
身長で30㎝近く、体重も倍ほど違うだろう。
押さえつけられたアシュリーはほとんど抵抗らしいものができなかった。
だが、それでもアシュリーは必死で、体をまさぐるリアムの手から逃れようと暴れた。
(どうして……? 聖女の力が欲しかったのではないの!?)
(嫌だ……! 純潔を失いたくない!)
純潔を失うということは、『奇跡を起こす聖女の力』を失うということ。
このとき、アシュリーははっきりと悟った。
あの奇跡の力が、自分にとって唯一のよすがであることを。
たとえ、過去の栄光であっても、もう二度と発現しないかもしれなくとも。
それでも、純潔でさえあれば、能力が発現する可能性はある。
(もうあの能力は発現しないと半ば諦めていたつもりだったのに……!)
必死でもがいていると、急に体が楽になった。
リアムがアシュリーから手を離し、起き上がったのだ。
「俺が嫌か」
「えっ……」
アシュリーは乱れた衣服を整えながらリアムを見つめた。
リアムが嫌だったわけではない。ただ、聖女の力を失いたくなくて必死だっただけだ。
だが、アシュリーが答える前に、リアムが口を歪めて言った。
「安心しろ、冗談だ。形だけの婚約者だと言っただろう」
「……」
「誰がおまえみたいか痩せっぽちを相手にするか」
それは負け惜しみではないのが伝わってくる。
今のリアムは地位と力を持つ城の主だ。
加えて、整った顔立ちと均整の取れた体を持っている美男子ときている。
彼の妻になりたいと願う令嬢たちは少なくないだろう。
アシュリーは震えながら体を起こした。
「す、すみません……」
奴隷になっても役立たずの自分に涙が浮かぶ。
「ちっ」
舌打ちとともに、ふわっと柔らかいものが肩にかけられた。
「風邪でもひかれたら適わん。羽織っておけ」
言われてみれば、夜間に薄いドレス一枚で寒かった。
アシュリーはありがたく、投げかけられたローブを羽織った。
「あ、ありがとう」
「……俺は今、フレイア姫に気に入られている」
「えっ……」
リアムが唐突に国王の第3子である姫の名を出したので、アシュリーは驚いた。
フレイア姫は確か年齢はアシュリーと同じ18歳で、輝くような美貌を持ち、父である王に溺愛されていると聞く。
「王城のトーナメントで優勝したときに目を付けられた」
「目を付けられた、って……」
「どうやら俺を結婚相手に、と望んでいるらしい」
「えっ……」
アシュリーは驚いた。
こう言ってはなんだが、一騎士などを相手にする立場の方ではない。王族なのだ。
リアムがにやりと笑う。
「……そう。元孤児の平民で、成り上がりの騎士なんか本来相手にする御方ではない」
一瞬で表情を読まれたらしい。
だが、姫の夫となれば、王座も視野に入ってくる。
王族の婚姻は政治と切り離せない。
姫の恋心など本来入る隙間などないはずだが、父王はよほどフレイア姫が可愛いらしい。
「あ、あの……」
「おまえは俺を見下すのが得意だな」
「……っ」
冷ややかな声に心臓が凍りつきそうになる。
「俺を買って満足だったか? 殺されそうになった孤児を救ってくれた聖女様」
「ご、ごめんなさい。気を悪くしたなら謝るわ。だから――」
ぐっと髪の毛をつかまれ、アシュリーは小さく悲鳴を上げた。
「おまえは今は俺の奴隷だ。忘れるな」
「は、はい。申し訳ございません……」
「おまえを形だけの婚約者にするのは、フレイア姫の求婚を穏便に断るためだ。それ以上でもそれ以下でもない!」
「……っ!」
頭皮が引きちぎられるような痛みに声も出ない。
そのとき、ドアが強くノックされた。
「失礼します。リアム様、ちょっとよろしいでしょうか」
ジェラルドの声が聞こえたと同時に、ふっと痛みが消えた。
リアムがつかんでいた髪を離したのだ。
「おまえはここにいろ! 逃げだそうなんて思うな! 外には兵士たちが大勢いる!」
投げつけるように言うと、リアムが足早に部屋を出て行く。
応接室に取り残されたアシュリーはホッと息を吐いた。
その手の甲にぽとりと涙が落ちた。
*
「可哀想に。すっかり怯えているじゃないか」
執務室でリアムと二人きりになると、ジェラルドは敢えてくだけた口調に変えた。
リアムがそれを好むとわかっているからだ。
今でこそ、主従という立場の二人だが、もとは友人同士だった。
ジェラルドの言葉に、リアムが拗ねたようにぷいと顔をそらせた。
騎士団長となった今も、リアムはそういう子どもっぽい真似をする。
稚気を見せるリアムにジェラルドは慣れているので、肩をすくめるに留めた。
「結局、いくら払ったんだ」
「100万ギニー」
「予算全部か」
全幅の信頼を置いているジェラルドだけには、リアムはすべて相談してあった。
闇オークションに参加すること、そして予算も目的も。
「……すぐ稼ぐさ。王はまだまだ領地を増やすおつもりだ」
戦果を上げれば褒賞がもらえる。
新進気鋭の騎士団の団長であるリアムには、まだまだ活躍する場が用意されるはずだ。
「そうしてくれ。かなりの財を手放した。城の経済状況はカツカツだ」
それでも事情を知っているジェラルドは、100万ギニーを使うことを家令として許可した。
リアムにとって、人生を左右する重大事項だと見抜いたからだ。
「どうしても手に入れたかった子なんだろう? なんでそんなに苛めるんだ」
「……」
「ずっと気に掛けていたじゃないか。ヒギンズ家の凋落やアシュリー嬢のことを」
「俺は……借りを返したかっただけだ。それと、見返してやりたかった!」
*
リアムの脳裏に浮かぶ暗い記憶。
10年前のことを今も鮮やかに思い出せる。
空腹と恥辱と苛立ちと恐怖と――自分を含めて醜悪なものしかなかった世界に突如現れた美しいもの。
それがアシュリーだった。
日の光を浴びて輝くよく手入れされた艶やかな金色の髪、宝石を思わせる淡い紫色の瞳。
真っ白な肌をしたこの世のものとは思えない、まさしく聖なる美少女だった。
初めて人に対して『眩さ』を感じ、同時に強烈な想いが込み上げてきた。
あのとき感じた気持ちが何だったのか、突き詰めて考えたくない。
リアムはイライラと手を口元にやった。
「彼女はきみの命の恩人なんだろ?」
「ムカついたんだよ、人を見下しやがって」
まだ幼かったにもかかわらず、アシュリーは明らかに自分を憐れんでいた。
傷ついた獣を見るような、そんな目で見られたくなかった。
痛みをこらえ、地面にはいつくばるしかない惨めな自分に心の底から怒りが沸いた。
どんなに金や地位を与えられても、決して拭い去ることができない感情だ。
「彼女に一人の男として認めてもらいたかったんだろ。もしくは、憧れられるような人間になりたかったんじゃないのか」
「……っ!!」
「きみは見事に叶えたじゃないか。騎士見習いから成り上がり、今や国一番の戦士と名高く、若くして騎士団のトップ。爵位も得て城と領地を持つ。誰もが憧れる人間だ」
ジェラルドの言う通りだ。
惨めな思いをせずに済むように、騎士見習いとして必死で修練に励み、さまざまな仕事や礼儀を学んだ。
ただただ、上に行きたくて必死だった。
願いを叶えたはずなのに――心の奥底では満たされていない自分がいた。
その中心にいるのはアシュリー。
彼女の憐れみに満ちた悲しげな眼差しが杭のように刺さって抜けない。
「きみはアシュリーを助けられるような人間になった。立派だよ」
「そんないいものじゃない」
リアムは吐き捨てた。
恩人に恩を返す。そんな美しい話や感情ではない。
自分の胸に渦巻くこの強烈な感情は、10年前と変わらず激烈で醜悪だ。
「俺のものにしたい。でも、俺に媚びを売ってほしくない。俺に怯えるあいつを見ると、めちゃめちゃにしてやりたくなる。でも同時にあいつを傷つけようとする奴は許せない」
*
自分の想いをまくし立てるリアムに、ジェラルドは苦笑した。
過酷な生い立ちのせいで、リアムは自分の気持ちを整理できないでいる。
ずっと焦がれていたアシュリーを手に入れて、その混乱に拍車がかかってしまっているのが手に取るようにわかった。
「独占欲だね」
「あ?」
「きみはアシュリー嬢を助けた。そして手に入れた。きみは彼女の心も欲しいんだろうけど、焦ることはないよ。彼女はきみのものだ」
「ああ。俺が金が買ったからな!」
リアムが歪んだ笑みを浮かべた。まるで自分を嘲笑い、責めるかのように。
(ああ、おまえは今も変わらず苛烈だな。ずっと手負いの獣のままだ。どんなに見た目を整えても、立派な騎士のように振る舞っても、心は血を流している)
そんな荒ぶる心を外にいる時は押し隠してはいるが、リアムの仄暗い激情はその目や仕草に滲み出ている。
それが更にリアムを輝かせ、魅力的に見せている。
(目が離せない……。手なずけてみたい、と思ってしまう。フレイア姫が執着するのも無理はない)
猛々しい魅力的な獣を見ると、手元に置いておきたい、自分だけに心を許してほしいと思ってしまう人間がいる。
危険なものほど蠱惑的なのだ。
だがフレイア姫の恋心は家令として友人として、見過ごせる事態ではなかった。
相手は王が溺愛する姫なのだ。
(慎重に対処しなければ、王家の刃が向くことになる。賢姫と噂されてはいるが、フレイア姫も若い女性だ。恋心をコントロールできるかわからない)
無言で考え込んでいると、リアムがぼそっと呟いた。
「おまえ……よく許可したよな。100万ギニーの出費を」
ジェラルドは肩をすくめる。
「おまえのわがままには騎士見習い時代から慣れてるからな」
軽口を叩いたが、ジェラルドはその出費が必要経費だと判断したのだ。
(うまく、フレイア姫を諦めさせなければならない)
それには婚約者が必要だ。
誰からも文句のつけようのない血筋と美しさ、聡明さを兼ね備えた相手がいる。
しかも、形だけでなく、リアムが心から執着している相手が。
聡いフレイア姫なら、リアムのアシュリーへの想いが本気だと気づくだろう。
アシュリーを手に入れてホッとしているのは、何もリアムだけではないのだ。
「近々、王城に呼ばれているんだったな」
「ああ。社交パーティーだとさ」
「アシュリー嬢を連れていって皆に紹介しろよ」
「もちろん俺の公式の婚約者として、お披露目するつもりだ」
リアムがわかっているというように頷いた。
この若さで成り上がったのだ。リアムも馬鹿ではない。
なるべくフレイア姫のプライドを傷つけないよう、自然な流れで諦めさせようとしている。
「幸せな二人だと、皆に周知させる必要がある。だから、あまりアシュリー嬢を苛めるな」
「俺は別に苛めてな……わかった」
心当たりがあるのか、ムッとしかけたリアムが大人しく頷く。
「彼女は奴隷だ。だが、聖女令嬢の婚約者として振る舞ってもらわなくてはならないんだからな」
「機嫌を取れというのか。ごめんだな」
「丁重に扱え、と言っているんだ」
ジェラルドはしっかとリアムの目を見つめて念を押した。
「彼女の代わりなどいないんだ。わかったな?」
(少なくとも、おまえにとってはな……)
*
ドアがノックされ、アシュリーはびくっとした。
「は、はい!」
「俺だ。……入ってもいいか?」
なぜか少しおどおどとしたリアムの声がした。
「え? ええ、もちろん……」
なぜ奴隷の自分に許可を取るのだろう。
理解できないまま、アシュリーはドアを開けた。
リアムの手にお茶と菓子を置いた盆をあるのを見て、アシュリーは目を丸くした。
「……腹がすいたろう。夕食の前に軽くつまめるものを持ってきた」
「あ、ありがとう……」
アシュリーとリアムはテーブルを挟んで向かい合った。
湯気のたつティーカップや美味しそうな焼き菓子を見ていると、お腹がぐう、と鳴った。
(そうだわ……空腹なのをすっかり忘れていた)
「さっきはその……乱暴に扱って悪かった……」
アシュリーは決して目を合わせようとしないリアムを驚いて見つめた。
少しうつむき加減のリアムは、しょんぼりしているように見えた。
(すごく立派になったけれど、不器用なところは変わっていないのね……)
「いいえ。私は奴隷ですから」
「……っ!」
何か言いたげにリアムが顔を上げたが、唇をかんで再びうつむいてしまった。
「いただきます」
ティーカップを手に取ろうとしたアシュリーは、ズキッと痛んだ手首に顔をしかめた。
「いたっ!」
鎖で繋がれていたせいで、手首には赤いすり傷ができていた。
リアムが無言で立ち上がると、箱を持ってきた。
その箱の中から塗り薬と包帯を出してくる。
「手を出せ」
リアムが慣れた手つきで、アシュリーの傷の手当てをする。
「あ、ありがとう……」
お礼を言うと、リアムが睨んできた。
「おまえは俺の所有物だ。傷なんかあったら価値が下がるからな!」
「はい……」
怒鳴られたのはアシュリーだというのに、なぜかリアムが落ち込んだように目を伏せる。
そして、バリバリと乱暴に白銀の髪をかきむしった。
「リ、リアム様!?」
「……違う」
リアムが上目遣いで見てくる。
白銀のまつげに縁取られた青い瞳は少し潤んでおり、アシュリーはどきりとした。
「そうじゃなくて、おまえが傷ついているのが嫌なんだよ!」
「……? そ、そうですか」
よくわからないが、アシュリーは頷いた。
「とにかく、お茶を飲め!」
促され、アシュリーはティーカップを手に取って口をつけた。
いい香りが鼻腔をくすぐる。口当たりはすっきりしており、かなりの高級茶葉だとわかる。
「お茶、美味しいです」
「……そうか」
「お菓子も……久しぶりに食べました」
「……」
会話が続かない。
リアムはむすっとした顔をしているが、機嫌は悪くなさそうだ。
なので、アシュリーは思いきって口を開いた。
「あの……質問をしてもいいですか?」
「なんだ」
「なぜ、形だけの婚約者に私を選んでくれたんですか?」
ずっと気になっていた。
今の彼なら、婚約者など選び放題のはずだ。
「どうして100万ギニーもの大金で私を買ってくれたんですか?」
奇跡の力があれば、100万ギニーの価値はあるかもしれない。
だが、もはや今のアシュリーは普通の、いや、落ちぶれた令嬢なのだ。
「それは――」
なぜか狼狽したように、リアムがごくりと唾を飲み込んだ。
アシュリーは息を呑んでリアムの言葉を待った。
会場となった城の大広間は稀少な商品を求めて集まった客たちでぎっしり埋まり、むせ返るような熱気が渦巻いている。
客たちは皆選ばれた裕福な人間たちで、男性はタキシード、女性はドレスに身を包んでいる。
いずれも身元を隠すため目元を仮面で覆っており、さながら仮面舞踏会の様相を呈していた。
だが、ほとんどの者が互いに誰かは知っていた。
何せ参加するには多額の費用とコネが必要なのだ。大金を持つ好事家は限られている。
秘密保持契約の書類にサインをしてあるため、互いにそ知らぬ振りをしているだけだ。
壇上に仮面をつけた司会の男が登場すると、わっと会場が沸いた。
「さて、今回の目玉商品、18歳の貴族の令嬢です!」
壇上に連れてこられたのは、美しい金色の髪をした少女だった。
商品価値を高めるためか、豪奢なドレスに身を包んでいる。
だが、無惨にも両手には鎖が巻かれていた。
「ご存知の方もいらっしゃるでしょう。アシュリー・ヒギンズ嬢です!」
*
いきなり明るい場所に出されたアシュリーは、眩しさに目を細めた。
思わず手で目を覆いたくなったが、じゃらりと音を立てる鎖が重くてうまく手を動かせない。
鎖には逃亡を阻む意図もあったが、それよりは見世物的な意味合いの方が大きかった。
要はアシュリー自身に自分は『奴隷』だと思い知らせること、また客たちを喜ばせるための演出だ。
(アシュリー、しっかりするのよ。自分で選んだ道じゃない)
己を鼓舞し、小さく震えながらもアシュリーはしっかと顔を上げ、会場を見回した。
仮面をつけた客たちは軽く50人を越えるだろう。
皆、一様にアシュリーに好奇の眼差しを向けている。
落ちぶれた貴族の令嬢を値踏みしているのだ。
司会がアシュリーにさっと手を向ける。
「ご覧ください、この美しい金の髪と薄紫色の瞳を持つご令嬢を!」
客たちが薄笑いを浮かべてアシュリーを見つめる。
「彼女は哀れにも実家である公爵家が破産し、売りに出されました!」
アシュリーはぐっと手を握った。
父が亡くなってから、ヒギンズ家は転がるように落ちぶれていった。
領地や事業のことなど興味がない義母に意見しようにも、アシュリーの言葉など届かなかった。
「アシュリーは『奇跡の聖女』とも呼ばれる予見の能力持ちです!」
それも過去の話だ。
アシュリーの予見のおかげで領地は災害被害を最小に抑えることができたが、父が亡くなった10歳の頃から力は発現していない。
「滅多に出ない高貴な出自の聖女、美しき純潔の令嬢です!!」
アシュリーは屈辱に顔を歪めた。
聖女の力と呼ばれるこの人ならざる力は、純潔の乙女でなければ消えるとされている。
(私は確かに純潔だけれど……力はもうない)
だが、珍しい『聖女の力』がなくとも、純潔の貴族の令嬢というだけで欲する者もいる。
アシュリーは、客たちの中でもひときわ熱い視線を送ってくる男を見つめた。
(ランデール公爵……)
仮面をつけていてもわかる、印象的な波打つ栗色の長い髪。
ショーン・ランデール公爵で間違いないだろう。
年齢はアシュリーの倍、36歳になる。
彼には『黒いネクタイ――ブラックタイ――』の二つ名がある。
これまで娶った妻は8人。全員が結婚して一年足らずで亡くなっているのだ。
金と権力でもみ消しているらしいが、どうやらひどい暴力で殺したという噂だ。
そして、ランデール公爵はアシュリーを欲しがっていた。
彼の好みは『純潔の貴族令嬢』だ。
公爵家が没落するや否や、何度も求婚の申し込みがあった。
立場が弱い相手ならば、自分の好きなようにできると考えたからだろう。
だが、アシュリーは他の縁談と同様、頑なに断った。
結納金目当ての義母たちからは散々なじられたが、アシュリーはまだ聖女である自分にすがっていたかったのだ。
だが、もはや相手を選ぶ余地すらない立場に落とされた。
アシュリーは最前列に座ったランデール公爵から、そっと目をそむけた。
(彼に競り落とされたら私は――)
ぎゅっと強く拳を握る。
自分の体や命が金を持った他者に委ねられていると思うと、屈辱と絶望が込み上げてくる。
司会の男が意気揚々と声を張り上げた。
「さあ、皆様ご参加くださいませ!」
すっと司会が人差し指を立てる。
「1万ギニーからスタートです!」
「50万ギニー」
間髪入れず手を挙げたのは、ランデール公爵だった。
(ああ、やっぱり私は……)
目の前が暗くなっていく。
いきなり提示された破格の値付けに、場内がざわめいた。
競りは通常、少しずつ上げていくものだ。
いきなり大金を提示するのは、ライバルたちを意気消沈させ、なんとしてもアシュリーを競り落とそうという意気込みの表れだろう。
50万ギニーあれば、大きな屋敷が一つ買える。たかだか奴隷の女一人にポンと出せる金額ではない。
「50万ギニーの方が出ました! 他にいらっしゃいませんか?」
司会がガベル――オークションハンマー――を握りながら言う。
競りの終了を告げるガベルが今にも振り落とされそうだ。
ランデール公爵の口角が上がる。もはや競り落としたと確信しているのだろう。
今にも心臓が破裂しそうに痛み、アシュリーはきゅっと目をつぶった。
「100万ギニー」
澄んだ声に、アシュリーははっと目を開けた。
手を挙げているのは真ん中辺りに座っているタキシード姿の若い青年だ。
薄暗い場内でもはっきりわかる輝く白銀の髪をした青年は、余裕の微笑みを浮かべている。
提示された桁違いの価格に、しん、と会場は静まり返った。
100万ギニーあれば、城が一つ買える。
客たちは驚きの顔で、片手を挙げている白銀の髪をした青年を見やった。
「ひゃ、100万ギニーが出ました!」
司会の声も驚きに引きつる。
「他にいらっしゃいませんか?」
手を挙げる者は誰もいない。
さしものランデール公爵も、苦い表情を浮かべ腕を組んだままだ。
そもそも、100万ギニー以上の金をポンと出せる者は闇オークションの客でもそう多くはない。
司会が会場を丁寧に見渡し、ガベルを振り下ろした。
「それでは100万ギニーで落札!」
会場がざわめくなか、白銀の髪をした青年がすっと立ち上がる。
「おめでとうございます! そちらの紳士がアシュリー嬢の主です!」
あまりの急展開についていけないアシュリーは、用心棒たちに支えられながら呆然と舞台上から控え室へと移動させられた。
(私……買われた……)
(100万ギニーで……)
(いったい、誰だろう?)
社交界では見たことのない男性だ。だが、この会場にいるということは、貴族か何らかの有力者であることは間違いない。
(ううん、誰でも関係ない。今日から、私は奴隷……)
破格の大金で買われたのだ。
自分がいったいどんな目に遭わされれるのか想像するだけで震えがくる。
そのとき、控え室に白銀の髪の青年が入ってきた。
すらりとしているが、タキシードの上からでも鍛え上げられているのがわかる。
青年が軽く手を振ると、屈強な見張りの男たちが部屋を出ていく。
アシュリーと二人きりになると、青年は黒い仮面を外した。
「久しぶりだな、お嬢様」
アシュリーは驚きにラベンダー色の目を見開いた。
青年の整った顔立ちと剣呑な光を帯びる青い目に見覚えがあった。
「まさか、リアム……!?」
10年前、自分を憎々しげに見上げてきたボロボロの少年の姿が浮かぶ。
まるで飢えた白い子狼のようだった。
「ああ、そうだよ」
「信じられない……見違えたわ」
21歳になったリアムは、元浮浪児とは思えない立派な紳士となっていた。
リアムを最後に見たのは8年前だ。
(たった8年でこんなに背が伸びて、風格ができて……)
(しかも100万ギニーを出せる財を成したなんて……)
それはリアムが必死で努力してきた道のりを彷彿させるに充分だった。
「あなたは騎士見習いとして、ドーンウォール城に行ったと聞いたけど……」
「ああ。14歳で従騎士として戦場へ行った。18歳で騎士に叙任。今は騎士団の団長をしている。この前の戦争で武勲を立てて爵位と領地をもらった」
華々しい経歴だったが、リアムの口調は淡々としていた。
ただ事実を羅列し、冷ややかにアシュリーを見つめている。
「つまり、立場が逆転したってことだよ。お嬢様」
わざとらしい『お嬢様』呼びに、アシュリーはきゅっと手を握った。
(やっぱり憎まれているのね……)
アシュリーの脳裏にリアムとの10年前の出会いが浮かんだ。
アシュリーは当時8歳。父に連れられ、領地の町へ行ったときのことだ。
広場の方が騒がしく、何事かと父と共に向かうと罵声が聞こえてきた。
「この盗人が! ようやく捕まえたぞ!」
「ただじゃ済まさないからな!」
興奮した大人たちに囲まれていたのは、ボロボロになった白銀の髪の少年だった。
顔には殴られたアザがいくつもあり、腕は乱暴に縄でぐるぐる巻きにされている。
彼の足元にはパンが2個落ちていた。
どうやらパンを盗んで捕まったらしい。
「腕を切り落としてやる!」
「いっそ殺しちまえ!」
物騒な言葉に、アシュリーはびくりとした。
少年の命が風前の灯火なのは、火を見るより明らかだった。
「待ってください!」
アシュリーは幼かったが、ぱっと見ただけで少年の事情はおおよそ察しがついた。
親がいないか、いたとしても面倒を見てくれず、やむを得ずパンを盗んだのだろう。
同情の余地はあるものの、町民たちの憤りからすると何度も繰り返されたのは想像に難くない。
殺気立った町民たちから彼を救う手立ては一つしかない。
アシュリーは父であるキーファを見上げた。
「お父様、この少年を買ってください」
アシュリーの凜とした表情と決意を込めた声音に、キーファは意図を汲んでくれたようだ。
「わかった」
領地を治める公爵であるキーファが進み出ると、町民たちはしん、と静まり返った。
「この子が盗んだぶんは私が弁償する。だから彼を私に引き渡してくれないか?」
町民たちが戸惑ったように顔を見合わせる。
「こ、こいつには以前からいろいろ盗まれて――」
「では、1万ギニー払おう。それでこの少年を買い取る。どうだね?」
1万ギニーという大金は、損害の補填と慰謝料に充分だったようだ。
異を唱える者などおらず、すぐさま少年は繋がれたままアシュリーに引き渡された。
(思えば、私の人生で一番高い買い物だった……)
罪人だった少年は今や立派な騎士団長で貴族にまで成り上がった。
(でも、あの鮮烈な目だけは変わらない)
(ギラギラとした、飢えて傷ついた狼のような瞳……)
リアムの青い瞳と、アシュリーの薄紫色の瞳が交差した。
「行くぞ」
リアムがアシュリーの手に繋がれた鎖を引っ張る。
(彼の言うとおり……立場が逆転したわ)
金で買った少年に金で買われた自分に、苦い笑いが浮かんだ。
*
立派な屋根付きの馬車に乗り込むと、リアムは無言で車窓を見つめた。
まるでアシュリーのことなど、気にも掛けていないようだ。
100万ギニーという大金を出して買ったというのに、興味を示す様子はない。
無言のままが気まずく、アシュリーは口を開いた。
「あのとき、貴方を守れなくてごめんなさい……」
答えはない。
アシュリーは静かにリアムを屋敷に引き取った時のことを思い出していた。
リアムは公爵家の使用人として働くことになったが、キーファの後妻でアシュリーの義母であるハンナから執拗なイジメにあった。
「こんな浮浪児を買い取るなんて!」
ハンナはリアムの出自も、アシュリーが買ったという事実もすべて気に入らず、リアムにつらくあたった。
「命があるだけ、ありがたく思いなさい!」
粗末な食事に過酷な労働をみかねたアシュリーがリアムをかばうと、ハンナはいきり立った。
「おまえに指図される覚えはないわ!」
義母のハンナは実の娘であるミレイだけを可愛がり、アシュリーを露骨に煙たがった。
さすがにキーファがいるときは露骨な態度を見せることはなかったが、キーファが多忙なことをいいことに、何かとアシュリーにつらくあたった。
そしてそれはアシュリーの持ち物であるリアムにも波及した。
「私、お義母様に逆らえなくて……。あなたにつらい思いをさせてしまったわ」
そして、8年前に父であるキーファが急死し、すべてが変わった。
目の敵にされていたリアムは、これ幸いと追い出されるようにして知人の城に騎士見習いとして預けられた。
「貴方を守れなかったこと……本当に申し訳なく思っているわ」
「おまえなんかに守られる筋合いなんかない!!」
リアムがいきなり激高したので、アシュリーはびくっと肩を上げた。
「ご、ごめんなさい……」
リアムは不機嫌そうに、再び車窓に顔を向けた。
「……鎖がじゃらじゃらとうるさいな」
そう言うと、リアムがポケットから鍵を取り出し、鎖についている錠前を外した。
重い鎖から自由になり、アシュリーはホッと息を吐いた。
「あ、ありがとう……」
リアムの青い瞳が冷ややかにアシュリーを見つめる。
「鎖を外したからといって逃げられると思うなよ」
「逃げるなんて……」
あんなに大金を使わせてしまったのだ。しかも、恐ろしいランデール公爵に競り落とされずに済んだ。
「感謝してるわ」
あれほどの大金分の価値が今の自分にあるとは思えないが、できるだけ彼の役に立ちたいとアシュリーは思っていた。
「ありがとう、リアム」
頭を下げるアシュリーに、リアムはつまらなさそうにそっぽを向いた。
一時間ほどして、馬車が止まった。
「下りろ」
言われるがまま馬車を降りたアシュリーは目を見張った。
周囲を高い壁で覆われた、立派な城がそびえ立っている。
「すごい……これがあなたの城?」
「ああ、そうだ。この辺りすべてが俺の領地だ」
大金を使って自分を競り落としたことから想像はついていたが、リアムは短い間にかなりの武勲を上げ、褒賞を受け取ったようだ。
(まだ21歳なのに、自分の力だけでこれほどのものを得るなんて……)
アシュリーは傍らを堂々と歩くリアムを見上げた。
ピンと背筋を伸ばし堂々と歩くリアムからは、ガリガリに痩せた浮浪児の面影はない。
頭を下げる門兵に軽く手を上げると、リアムが城内に足を踏み入れる。
城の前には執事服を着た若い青年が待ち構えていた。黒髪をきっちりと後ろでまとめており、いかにも有能そうだ。
「お帰りなさいませ、リアム様」
柔和な笑みを浮かべた執事服の青年のはしばみ色の目が、アシュリーの方を向いた。
「……今日からここで暮らす、アシュリーだ」
リアムがふいっと顔をそらせながら、アシュリーを紹介する。
何やらきまりが悪そうだ。
執事服の青年が丁重に頭を下げてくる。
「初めまして、アシュリー様。家令のジェラルドと申します」
「あっ、アシュリーです。あの、私……」
買われた奴隷というのに、屋敷を切り盛りする家令から頭を下げられ、アシュリーは困惑した。
リアムが不機嫌そうに顎をくいっと上げた。
「おまえは俺の婚約者、ということになっている」
「えっ……」
意外な言葉にアシュリーは絶句した。
(奴隷ではないの……?)
「あくまで表向きは、だ」
リアムがじろりと睨んでくる。およそ、婚約者に向ける眼差しではない。
「一応爵位持ちの貴族になったんだ。闇オークションで女を買ったなんて言えるか」
「あ、あの、でも……」
なぜ使用人ではなく婚約者なのかわからず、アシュリーはおろおろした。
「だが、調子に乗るなよ」
リアムがぐっとアシュリーの顎をつかむ。
「おまえが金で買われた奴隷だというのは変わらない」
「は、はい……」
「立ち話もなんですから、お二人はどうぞ中に」
ジェラルドが柔らかい口調で割って入ってきた。
リアムがハッとしたように口を閉ざす。
「……説明は後でする。来い!」
リアムに腕を引っ張られ、アシュリーは転ばないように必死で廊下を進んだ。
城内は広く、その立派さにアシュリーは驚いた。
リアムがようやく足を止める。
と、同時にアシュリーは高価そうな絨毯の敷かれた部屋に引きずり込まれた。
「っ!!」
そこは豪奢な家具が置かれた応接室のようだった。中央にはソファとテーブルが置かれている。
リアムが乱暴にアシュリーを大きなソファの上に放り投げる。
「あっ」
鍛え上げられたリアムの膂力に、アシュリーは軽々とソファの上に倒れ込んだ。
間髪入れず、リアムが覆い被さるようにしてソファに手をつく。
「リ、リアム……」
アシュリーはごくりと唾を飲み込んだ。
リアムが挑戦的にアシュリーを見下ろす。
「おまえは今でも穢れなき乙女のままか」
リアムがそっとアシュリーの金色の髪を一房つかむ。
「!!」
「答えろ。奇跡の聖女様」
その言葉に、リアムが自分に大金を支払った理由がわかった。
「私は……乙女のままよ。でも……聖女の力はあれから発現しなくて……」
アシュリーはぎゅっと目をつぶった。
奇跡の力がないと知れば、リアムはさっさと自分を売り払うかもしれない。
だが、嘘はつけなかった。
「ふん……」
いきなり首筋に温かい湿った感触があった。
リアムに舐められたのだと気づいたアシュリーは叫んでいた。
「や、やめて!」
だが、相手は鍛え上げられた騎士だ。
身長で30㎝近く、体重も倍ほど違うだろう。
押さえつけられたアシュリーはほとんど抵抗らしいものができなかった。
だが、それでもアシュリーは必死で、体をまさぐるリアムの手から逃れようと暴れた。
(どうして……? 聖女の力が欲しかったのではないの!?)
(嫌だ……! 純潔を失いたくない!)
純潔を失うということは、『奇跡を起こす聖女の力』を失うということ。
このとき、アシュリーははっきりと悟った。
あの奇跡の力が、自分にとって唯一のよすがであることを。
たとえ、過去の栄光であっても、もう二度と発現しないかもしれなくとも。
それでも、純潔でさえあれば、能力が発現する可能性はある。
(もうあの能力は発現しないと半ば諦めていたつもりだったのに……!)
必死でもがいていると、急に体が楽になった。
リアムがアシュリーから手を離し、起き上がったのだ。
「俺が嫌か」
「えっ……」
アシュリーは乱れた衣服を整えながらリアムを見つめた。
リアムが嫌だったわけではない。ただ、聖女の力を失いたくなくて必死だっただけだ。
だが、アシュリーが答える前に、リアムが口を歪めて言った。
「安心しろ、冗談だ。形だけの婚約者だと言っただろう」
「……」
「誰がおまえみたいか痩せっぽちを相手にするか」
それは負け惜しみではないのが伝わってくる。
今のリアムは地位と力を持つ城の主だ。
加えて、整った顔立ちと均整の取れた体を持っている美男子ときている。
彼の妻になりたいと願う令嬢たちは少なくないだろう。
アシュリーは震えながら体を起こした。
「す、すみません……」
奴隷になっても役立たずの自分に涙が浮かぶ。
「ちっ」
舌打ちとともに、ふわっと柔らかいものが肩にかけられた。
「風邪でもひかれたら適わん。羽織っておけ」
言われてみれば、夜間に薄いドレス一枚で寒かった。
アシュリーはありがたく、投げかけられたローブを羽織った。
「あ、ありがとう」
「……俺は今、フレイア姫に気に入られている」
「えっ……」
リアムが唐突に国王の第3子である姫の名を出したので、アシュリーは驚いた。
フレイア姫は確か年齢はアシュリーと同じ18歳で、輝くような美貌を持ち、父である王に溺愛されていると聞く。
「王城のトーナメントで優勝したときに目を付けられた」
「目を付けられた、って……」
「どうやら俺を結婚相手に、と望んでいるらしい」
「えっ……」
アシュリーは驚いた。
こう言ってはなんだが、一騎士などを相手にする立場の方ではない。王族なのだ。
リアムがにやりと笑う。
「……そう。元孤児の平民で、成り上がりの騎士なんか本来相手にする御方ではない」
一瞬で表情を読まれたらしい。
だが、姫の夫となれば、王座も視野に入ってくる。
王族の婚姻は政治と切り離せない。
姫の恋心など本来入る隙間などないはずだが、父王はよほどフレイア姫が可愛いらしい。
「あ、あの……」
「おまえは俺を見下すのが得意だな」
「……っ」
冷ややかな声に心臓が凍りつきそうになる。
「俺を買って満足だったか? 殺されそうになった孤児を救ってくれた聖女様」
「ご、ごめんなさい。気を悪くしたなら謝るわ。だから――」
ぐっと髪の毛をつかまれ、アシュリーは小さく悲鳴を上げた。
「おまえは今は俺の奴隷だ。忘れるな」
「は、はい。申し訳ございません……」
「おまえを形だけの婚約者にするのは、フレイア姫の求婚を穏便に断るためだ。それ以上でもそれ以下でもない!」
「……っ!」
頭皮が引きちぎられるような痛みに声も出ない。
そのとき、ドアが強くノックされた。
「失礼します。リアム様、ちょっとよろしいでしょうか」
ジェラルドの声が聞こえたと同時に、ふっと痛みが消えた。
リアムがつかんでいた髪を離したのだ。
「おまえはここにいろ! 逃げだそうなんて思うな! 外には兵士たちが大勢いる!」
投げつけるように言うと、リアムが足早に部屋を出て行く。
応接室に取り残されたアシュリーはホッと息を吐いた。
その手の甲にぽとりと涙が落ちた。
*
「可哀想に。すっかり怯えているじゃないか」
執務室でリアムと二人きりになると、ジェラルドは敢えてくだけた口調に変えた。
リアムがそれを好むとわかっているからだ。
今でこそ、主従という立場の二人だが、もとは友人同士だった。
ジェラルドの言葉に、リアムが拗ねたようにぷいと顔をそらせた。
騎士団長となった今も、リアムはそういう子どもっぽい真似をする。
稚気を見せるリアムにジェラルドは慣れているので、肩をすくめるに留めた。
「結局、いくら払ったんだ」
「100万ギニー」
「予算全部か」
全幅の信頼を置いているジェラルドだけには、リアムはすべて相談してあった。
闇オークションに参加すること、そして予算も目的も。
「……すぐ稼ぐさ。王はまだまだ領地を増やすおつもりだ」
戦果を上げれば褒賞がもらえる。
新進気鋭の騎士団の団長であるリアムには、まだまだ活躍する場が用意されるはずだ。
「そうしてくれ。かなりの財を手放した。城の経済状況はカツカツだ」
それでも事情を知っているジェラルドは、100万ギニーを使うことを家令として許可した。
リアムにとって、人生を左右する重大事項だと見抜いたからだ。
「どうしても手に入れたかった子なんだろう? なんでそんなに苛めるんだ」
「……」
「ずっと気に掛けていたじゃないか。ヒギンズ家の凋落やアシュリー嬢のことを」
「俺は……借りを返したかっただけだ。それと、見返してやりたかった!」
*
リアムの脳裏に浮かぶ暗い記憶。
10年前のことを今も鮮やかに思い出せる。
空腹と恥辱と苛立ちと恐怖と――自分を含めて醜悪なものしかなかった世界に突如現れた美しいもの。
それがアシュリーだった。
日の光を浴びて輝くよく手入れされた艶やかな金色の髪、宝石を思わせる淡い紫色の瞳。
真っ白な肌をしたこの世のものとは思えない、まさしく聖なる美少女だった。
初めて人に対して『眩さ』を感じ、同時に強烈な想いが込み上げてきた。
あのとき感じた気持ちが何だったのか、突き詰めて考えたくない。
リアムはイライラと手を口元にやった。
「彼女はきみの命の恩人なんだろ?」
「ムカついたんだよ、人を見下しやがって」
まだ幼かったにもかかわらず、アシュリーは明らかに自分を憐れんでいた。
傷ついた獣を見るような、そんな目で見られたくなかった。
痛みをこらえ、地面にはいつくばるしかない惨めな自分に心の底から怒りが沸いた。
どんなに金や地位を与えられても、決して拭い去ることができない感情だ。
「彼女に一人の男として認めてもらいたかったんだろ。もしくは、憧れられるような人間になりたかったんじゃないのか」
「……っ!!」
「きみは見事に叶えたじゃないか。騎士見習いから成り上がり、今や国一番の戦士と名高く、若くして騎士団のトップ。爵位も得て城と領地を持つ。誰もが憧れる人間だ」
ジェラルドの言う通りだ。
惨めな思いをせずに済むように、騎士見習いとして必死で修練に励み、さまざまな仕事や礼儀を学んだ。
ただただ、上に行きたくて必死だった。
願いを叶えたはずなのに――心の奥底では満たされていない自分がいた。
その中心にいるのはアシュリー。
彼女の憐れみに満ちた悲しげな眼差しが杭のように刺さって抜けない。
「きみはアシュリーを助けられるような人間になった。立派だよ」
「そんないいものじゃない」
リアムは吐き捨てた。
恩人に恩を返す。そんな美しい話や感情ではない。
自分の胸に渦巻くこの強烈な感情は、10年前と変わらず激烈で醜悪だ。
「俺のものにしたい。でも、俺に媚びを売ってほしくない。俺に怯えるあいつを見ると、めちゃめちゃにしてやりたくなる。でも同時にあいつを傷つけようとする奴は許せない」
*
自分の想いをまくし立てるリアムに、ジェラルドは苦笑した。
過酷な生い立ちのせいで、リアムは自分の気持ちを整理できないでいる。
ずっと焦がれていたアシュリーを手に入れて、その混乱に拍車がかかってしまっているのが手に取るようにわかった。
「独占欲だね」
「あ?」
「きみはアシュリー嬢を助けた。そして手に入れた。きみは彼女の心も欲しいんだろうけど、焦ることはないよ。彼女はきみのものだ」
「ああ。俺が金が買ったからな!」
リアムが歪んだ笑みを浮かべた。まるで自分を嘲笑い、責めるかのように。
(ああ、おまえは今も変わらず苛烈だな。ずっと手負いの獣のままだ。どんなに見た目を整えても、立派な騎士のように振る舞っても、心は血を流している)
そんな荒ぶる心を外にいる時は押し隠してはいるが、リアムの仄暗い激情はその目や仕草に滲み出ている。
それが更にリアムを輝かせ、魅力的に見せている。
(目が離せない……。手なずけてみたい、と思ってしまう。フレイア姫が執着するのも無理はない)
猛々しい魅力的な獣を見ると、手元に置いておきたい、自分だけに心を許してほしいと思ってしまう人間がいる。
危険なものほど蠱惑的なのだ。
だがフレイア姫の恋心は家令として友人として、見過ごせる事態ではなかった。
相手は王が溺愛する姫なのだ。
(慎重に対処しなければ、王家の刃が向くことになる。賢姫と噂されてはいるが、フレイア姫も若い女性だ。恋心をコントロールできるかわからない)
無言で考え込んでいると、リアムがぼそっと呟いた。
「おまえ……よく許可したよな。100万ギニーの出費を」
ジェラルドは肩をすくめる。
「おまえのわがままには騎士見習い時代から慣れてるからな」
軽口を叩いたが、ジェラルドはその出費が必要経費だと判断したのだ。
(うまく、フレイア姫を諦めさせなければならない)
それには婚約者が必要だ。
誰からも文句のつけようのない血筋と美しさ、聡明さを兼ね備えた相手がいる。
しかも、形だけでなく、リアムが心から執着している相手が。
聡いフレイア姫なら、リアムのアシュリーへの想いが本気だと気づくだろう。
アシュリーを手に入れてホッとしているのは、何もリアムだけではないのだ。
「近々、王城に呼ばれているんだったな」
「ああ。社交パーティーだとさ」
「アシュリー嬢を連れていって皆に紹介しろよ」
「もちろん俺の公式の婚約者として、お披露目するつもりだ」
リアムがわかっているというように頷いた。
この若さで成り上がったのだ。リアムも馬鹿ではない。
なるべくフレイア姫のプライドを傷つけないよう、自然な流れで諦めさせようとしている。
「幸せな二人だと、皆に周知させる必要がある。だから、あまりアシュリー嬢を苛めるな」
「俺は別に苛めてな……わかった」
心当たりがあるのか、ムッとしかけたリアムが大人しく頷く。
「彼女は奴隷だ。だが、聖女令嬢の婚約者として振る舞ってもらわなくてはならないんだからな」
「機嫌を取れというのか。ごめんだな」
「丁重に扱え、と言っているんだ」
ジェラルドはしっかとリアムの目を見つめて念を押した。
「彼女の代わりなどいないんだ。わかったな?」
(少なくとも、おまえにとってはな……)
*
ドアがノックされ、アシュリーはびくっとした。
「は、はい!」
「俺だ。……入ってもいいか?」
なぜか少しおどおどとしたリアムの声がした。
「え? ええ、もちろん……」
なぜ奴隷の自分に許可を取るのだろう。
理解できないまま、アシュリーはドアを開けた。
リアムの手にお茶と菓子を置いた盆をあるのを見て、アシュリーは目を丸くした。
「……腹がすいたろう。夕食の前に軽くつまめるものを持ってきた」
「あ、ありがとう……」
アシュリーとリアムはテーブルを挟んで向かい合った。
湯気のたつティーカップや美味しそうな焼き菓子を見ていると、お腹がぐう、と鳴った。
(そうだわ……空腹なのをすっかり忘れていた)
「さっきはその……乱暴に扱って悪かった……」
アシュリーは決して目を合わせようとしないリアムを驚いて見つめた。
少しうつむき加減のリアムは、しょんぼりしているように見えた。
(すごく立派になったけれど、不器用なところは変わっていないのね……)
「いいえ。私は奴隷ですから」
「……っ!」
何か言いたげにリアムが顔を上げたが、唇をかんで再びうつむいてしまった。
「いただきます」
ティーカップを手に取ろうとしたアシュリーは、ズキッと痛んだ手首に顔をしかめた。
「いたっ!」
鎖で繋がれていたせいで、手首には赤いすり傷ができていた。
リアムが無言で立ち上がると、箱を持ってきた。
その箱の中から塗り薬と包帯を出してくる。
「手を出せ」
リアムが慣れた手つきで、アシュリーの傷の手当てをする。
「あ、ありがとう……」
お礼を言うと、リアムが睨んできた。
「おまえは俺の所有物だ。傷なんかあったら価値が下がるからな!」
「はい……」
怒鳴られたのはアシュリーだというのに、なぜかリアムが落ち込んだように目を伏せる。
そして、バリバリと乱暴に白銀の髪をかきむしった。
「リ、リアム様!?」
「……違う」
リアムが上目遣いで見てくる。
白銀のまつげに縁取られた青い瞳は少し潤んでおり、アシュリーはどきりとした。
「そうじゃなくて、おまえが傷ついているのが嫌なんだよ!」
「……? そ、そうですか」
よくわからないが、アシュリーは頷いた。
「とにかく、お茶を飲め!」
促され、アシュリーはティーカップを手に取って口をつけた。
いい香りが鼻腔をくすぐる。口当たりはすっきりしており、かなりの高級茶葉だとわかる。
「お茶、美味しいです」
「……そうか」
「お菓子も……久しぶりに食べました」
「……」
会話が続かない。
リアムはむすっとした顔をしているが、機嫌は悪くなさそうだ。
なので、アシュリーは思いきって口を開いた。
「あの……質問をしてもいいですか?」
「なんだ」
「なぜ、形だけの婚約者に私を選んでくれたんですか?」
ずっと気になっていた。
今の彼なら、婚約者など選び放題のはずだ。
「どうして100万ギニーもの大金で私を買ってくれたんですか?」
奇跡の力があれば、100万ギニーの価値はあるかもしれない。
だが、もはや今のアシュリーは普通の、いや、落ちぶれた令嬢なのだ。
「それは――」
なぜか狼狽したように、リアムがごくりと唾を飲み込んだ。
アシュリーは息を呑んでリアムの言葉を待った。
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