運命の愛を連呼する年下イケメン社長が私を離してくれません!
目的のカフェは長蛇の列だった。
テレビで紹介され、ネットでも話題のおしゃれなお店だ。
松鳥彩夏はじろじろと視線を浴びながら行列を縫って先頭に行く。
「いらっしゃいませ。お待ち合わせですか?」
さわやかな笑顔を浮かべた女性店員に聞かれる。
「はい」
答えると、どうぞ、と手を伸ばして店内へ導かれる。
店内はヨーロッパを意識した現代的なインテリアが置かれ、藤製の椅子は丸みを帯びた背もたれに模様があってかわいい。ライトブラウンの木の丸いテーブルにはカップルや女性の友達同士の客が多い。
歩きながら見回した中に目的の人物を見つけ、彼女はけげんな顔をした。
通路を歩いて近づくと、その人物もまた彼女に気がついて驚愕を浮かべる。
席にたどりつく直前、近くのテーブルの男性が振り返り、目が合った。
二十代半ばだろうか。茶色がかった黒髪はなめらかに流れ、彼を彩る。なめらかな肌にすっきりした顔立ち。素人目でもわかる仕立ての良いスーツに身を包み、ほっそりした体は美の女神の申し子のように均整がとれている。
ただ美しいだけではなかった。人を引き付けるオーラのようなものがある。色気でもあり、同時に神秘性があって近寄りがたい。
にこっと彼は笑った。それだけで輝きが増して太陽を直視しているような気分になる。
彩夏ははっと我に返り、会釈をして通り過ぎる。
「お待たせ」
彼女は目的の人物……恋人である小田代和司に声をかけた。
三十歳の自分と同い年の彼氏。平凡な自分にふさわしい平凡な彼。
彼は取引先の社員で、仕事を通じて知り合った。仕事に支障が出るといけないから、交際は内緒にしている。
その向かいには彩夏と同じ会社で受付をしている女性が座っている。垂れ目の儚げな雰囲気が、女性の自分でも守りたくなるような庇護心をくすぐられる。
問題は、なぜここに彼女がいるのか、だった。彼女については良い評判を聞いたことがない。
「彩夏、なんでここに……」
「あなたがメッセージしたんじゃない。急いで来てって言うから来たのに」
だから慌てて準備してきたのだ。街中に出るのに充分な装いを整えて来たつもりだが、このおしゃれなカフェでは地味だった。
「俺はそんな連絡してない」
和司の声には焦りがあって、彩夏の胸に湧いた不安が濃くなっていく。
「和司さん、どなた?」
女性にたずねられ、和司はもぞもぞと体を動かす。
ろくな解答がこないだろうことを予想し、彩夏は眉を寄せた。
「この人は俺の友人で……」
ぼそぼそと言われた紹介に、終わった、と彩夏は思った。
「はじめまして。友人の松鳥彩夏です。一秒前まで恋人でした」
にこっと笑って彩夏は自己紹介をする。
「まあ……」
女性は両手を口に当てて、丸くなった目をぱちくりさせている。
そろそろ周囲が三人の様子のおかしさに気づき始めている。こちらをちらちらと見ているが、知ったことじゃない。
「お前、空気読めよ!」
「読んだ結果だけど?」
じろりと彼を見ると、恨みがましい目を向けられた。
「お前とはもういろいろ終わってたじゃん。会ってもときめかないし、おかんみたいな感じになってあれこれ口うるさいし……」
「へえ、終わってる人間と結婚の話をしてたんだ」
彩夏は皮肉っぽく言った。プロポーズとまではいかないものの、彼は結婚を口にしていたから。結婚したら引っ越さないとな、結婚したら家事はどうしようか、結婚したら……。そんなことを言われたら自分との結婚を考えていると思うに決まっている。
「それは、ただ話の流れっていうか……。もう終わったんだからさ。彼女のほうが若いし、誰だって若い子のほうがいいだろ」
和司は目をそらしてぶつぶつと言う。
「よくそんなこと言えるわね」
「仕方ないじゃないか。運命の出会いをしてしまったんだ。彼女が俺の運命の人だ」
和司はそう言って正面のふわふわな女性を熱い目で見つめる。
女性は困ったように首を傾けるだけでなにも言わない。
なんて都合のいい運命だろうか。そもそも運命だなんて目に見えないもの、どうやってそうだとわかるというのか。
「御託はいいわ。つまりあなたは私を捨てて彼女を選んだってことだから」
彩夏が断言すると、和司は顔をしかめた。
「そんなかわいげがないからダメなんだ」
綾香が言い返そうとしたとき。
「へえ、お姉さん捨てられたんだ。じゃあ僕、拾っちゃおうっと」
声が割って入り、後ろから誰かに抱きしめられた。
「ちょ、なに!?」
彩夏は慌ててふりほどこうとするが、がっちりと抑え込まれっていて離れられない。
顔をよじって確認すると、さきほどのイケメンがそこにいた。背の高い彼が体を曲げて彩夏に頬を寄せてくる。
「なんだ、お前は!」
和司が怒鳴り付けると、にやり、と彼は笑った。
「通りすがり。素敵な女性が捨てられるのが見えたから、思わず拾っただけ。これって運命だと思う」
彩夏はあっけにとられてなにも言えない。
「お姉さん、出会いの記念にデートしよ?」
「俺と別れた直後に男を作るのか! とんでもねえ女だな!」
「二股浮気野郎のほうがとんでもないと思うけど?」
イケメンに言い返され、周囲からはくすくすと笑いが漏れた。
「てめえ……」
和司は怒りでうなる。
「運命の出会いなら仕方ないんだよね? 僕のほうがあなたより若いし。誰だって若い子のほうがいいんだよね?」
彼はくすくすと笑う。侮蔑を隠そうともせず。
ああ、と彩夏は悟る。
彼は自分たちのやりとりを見て自分に加勢してくれたのだ。腹を立てたのかいたずら心なのかはわからないが。
「お前たちは運命なんかじゃないだろ!」
和司が怒鳴る。
「あなたにそれを決める権利はないよ。――壱岐、車は?」
和司に断言し、いつの間にか隣に立っていたスーツの男性に声をかける。三十半ばほど、眼鏡をかけていて無表情だ。
「社長、本日はあちらにロールスのファントムを用意してございます」
テラス席から見える位置に、高級そうな黒い外車が止まっていた。セダンのはずなのに小型のバスかと見まがうほど大きい。通称でフライングレディと呼ばれている特徴的な女性のエンブレムがフロントについている。
彩夏は混乱して彼らを見る。彼はただ笑みを返した。
「行こうか」
ハグをほどいた彼に手を差し伸べられて、彩夏は思わずその手をとる。
彼がすっと耳に口を寄せて小声で囁く。
「背筋を伸ばして、僕の花嫁。主役はあなただよ。堂々と歩いて」
彩夏ははっとした。
周囲の人達が興味に勝てずに窺うように自分たちを見ている。この観客に、勝者が誰なのかを示して歩け、と彼は言うのだ。
彩夏はピンと背筋を伸ばした。
なぜか、それだけで世界が違って見える。
隣にいるのが背の高いイケメンだからだろうか。本当に自分が主役になったかのように思え、テラスまでのただの通路が、花嫁が歩く花道のように見えてくる。
「出会った記念にホーリーウィンストンで指輪でも買おうか」
彩夏の腰を抱き、和司や観客たちに聞かせるように言いながら彼は歩く。
「うれしいわ」
彩夏は精一杯の喜びを演じて答えた。
この茶番で少しでも彼を悔しがらせたい。
自分はふられたみじめな女ではなく、運命の愛に出会った幸せな女なのだと、そう思わせたい。
彼と一緒に靴音も高く歩き、テラス席に横付けされた黒い車に近づく。
運転手が白い手袋をはめた手でドアを開けてくれたが、思っていたのと逆側、後部を起点として開いたのでびっくりした。扉の内側には花をモチーフとした幾何学のワンポイントがあった。天井には同様の幾何学模様が大きく配置され、星空のような照明がきらきらと輝いていた。
大きな白い革張りのソファは一針の歪みもなく縫製され、シミ一つない。ダークブラウンのラインがシックで高級感にあふれている。
こんな車にはエレガントに乗らなくては。
必死に記憶をたどり、上品な乗り方を思い出す。先にシートに腰を下ろし、それから両足をそろえて回転するようにさっと乗り込む。
車なのにオットマンがある、と驚いたが動揺は顔に出さないように気を付けた。前のシートの背が遠くてキャビンが広い。この車こそが自分にふさわしいのだという毅然とした態度を心がける。
運転手はドアを閉めたあと、反対側にまわって彩夏を連れ出した彼のためにドアを開け、彼が乗ってから閉めた。
秘書が助手席に乗り込み、運転手が運転席に収まる。
運転手が車を出すまで、彩夏は真っ直ぐ前を見ていた。
あの男がどんな顔をしてるのか気になるが、振り返ったら負けだ。もう気にしていない、過去の事。それを態度で示さなくてはならない。
そんな彼女を見て、彼はくすりと笑う。
「いいね、ますます僕の好み」
つぶやきに、彼女は彼を見る。
彼は嬉しそうににこっと笑った。それで張りつめていた緊張がほぐれて、彩夏も表情を崩した。
「ありがとう、助けてくれて」
「いいんだ。僕の店で別れ話なんかされて腹がたったから」
「ごめんさない、お店の雰囲気を悪くして」
この人の店、ということは店長かな? と彩夏は思う。社長と呼ばれていたから、会社化していたのだろうか。いや、秘書らしき男性をお供にして高級外車に乗っているほどだ。自分より若そうなのに。早くから起業していたのだろうか。
「いいよ。でもお茶を邪魔されちゃった、お姉さん、口直しにつきあってくれる?」
「お礼に私がおごるわ」
「僕のお茶は高いけど?」
「え?」
いたずらっぽく言われて、彩夏は戸惑う。
「壱岐、いつものホテルのロイヤルとっておいて。彼女とアフタヌーンティーする。ホーリーはまた今度」
「かしこまりました」
「え? ロイヤル?」
「安心して、運命の人に出させるようなことはしないから」
車が発進し、彼は彩夏の肩を抱き寄せる。
もう演技は必要ないのだろうに、と思いながらも彼女はその手をふりほどけずにいた。
高級ホテルのロイヤルスイートにつれてこられ、彩夏はどきどきしていた。
だたっぴろい部屋にはベージュの絨毯が敷かれ、丸みを帯びたソファが置かれている。ガラスのテーブルは脚までガラスでできていて、手入れが大変そうだな、なんて思ってしまった。
天井の照明は咲き誇る花をイメージして作られているようで、重なりながら広がる花びらの花脈すら美しく光を投げかけている。
全体的には白と黒を基調としたモダンを感じさせる部屋だった。ホテルの高い部屋はヨーロピアンなイメージしかなかったから意外だった。
こんなところは初めてだ。
さっき助けたお礼にお茶をと言ったけれど、もしかしてお礼と称してそのさきまで求められるのだろうか。
だが、自分などむしろお粗末に見えて、彼が求めてくるようにも思えない。
自分を抱きしめて縮こまっていると、くすりと彼が笑った。
「とってくったりしないよ。本当にお茶するだけだから」
「あ、はい……」
彼に勧められてテーブルに付くが、借りてきた猫のように大人しく座る。
ホテルスタッフが銀色のワゴンを押して現れ、テーブルにアフタヌーンティーセットをセッティングして帰っていった。
アフタヌーンのスタンドは金色の支柱に白いお皿が階段状に螺旋を描いていた。下から数種のサンドイッチ、きつね色のスコーン、モンブラン、キャラメルプリン、チョコレートケーキ、とグラデーションに彩られている。添えられたミントのグリーンが美しい。
コーヒーの黒いカップとソーサーには筆で書いたような一筋が金で入れられていて、部屋との調和が美しい。
「ここのアフタヌーンティーは僕の会社が監修してるんだ。おいしいよ」
「ありがとう」
彩夏はお礼を言うことしかできなかった。
アフタヌーンティーを監修していて社長だとはいうが、なんだか正体がつかめない感じがする。
「お姉さん、名前は? 僕は司城遥斗だよ」
「松鳥彩夏です」
「いい名前。僕と結婚したら司城彩夏だね」
彩夏は苦笑した。さきほどは運命だとか花嫁だとか言われたし、いつまでそれを引っ張るのだろうか。
彼の勧めに従ってアフタヌーンティーセットをいただく。あんなことがあったとで食欲などなかったはずなのに、おいしさについつい食べてしまう。サンドイッチはしっとりしていて、具剤とマヨネーズの塩味がちょうどいい。スコーンもクロテッドクリームもおいしいし、ケーキ、コーヒーもすべての調和がとれていて彩夏は舌鼓を打った。
「どれも全部おいしいわ」
彩夏が言うと、彼は満面の笑みを浮かべた。
「良かった」
彩夏はその笑顔がまぶしくてコーヒーを飲んで目を逸らした。
「あいつのせいであなたが泣いたらどうしようかと思った。いつでも泣けるように部屋をとったけど、そんなことがなくて良かった」
「そういえば……私、失恋したのに」
最初は怒りで、次には彼の登場で驚きすぎて、悲しい気持ちになる暇がなかった。
「その様子なら話してもいいかな。これからのことなんだけど」
言われて、彩夏は彼を見た。
「式はいつがいい? 会場はどこにする?」
続いた言葉に、彩夏は首をかしげる。
「なんのことですか?」
「やだなあ、僕達の結婚式だよ」
彼はにこにこと答える。
「なんで結婚式?」
「僕の運命の相手があなただから」
一瞬、硬直した。
が、すぐに気を取り直す。
「やめてよ、そんな冗談は笑えないよ」
彩夏は苦笑してツッコミを入れる。
彼はムッとして彩夏を見る。
「冗談じゃない。僕は本気」
彼の真剣さに、彩夏は動揺した。
「私たち会ったばかりよ? まだ何も知らないのに」
「じゃあ身上書をだすよ。あなたのことは興信所を入れて報告書を見るから。気になったらあなたも興信所を入れてくれていいよ。費用はこちらで出す」
彩夏は唖然とした。
「知るって、そういうことじゃないよ……」
「じゃあなに」
「なにって」
そんな説明が必要になる日が来るとは思わなかった。好きなものとか嫌いなものとか、どんな性格だとか価値観だとか、そういうものは日々を積み重ねて知り合うもので、報告書の文字列で知った気になるのはなにか違うと思う。
「あなた、何歳?」
「二十五歳」
そのわりには言動が幼く見えるが、と思いながら彩夏は言う。
「五歳も年下じゃない、駄目よ、年上をからかっちゃ」
彼は不機嫌そうに眉を寄せた。
「年下だとなんで駄目なの?」
言った直後、彼はぴこんと閃いたように顔を輝かせる。
「夜のテクニックなら自信あるよ。若くて体力あるから、絶対に満足させてあげられる。サイズは――」
「そういうことじゃない!」
彩夏は速攻で否定して続きを言わせなかった。なんでそうなるんだ、と思いながら。
「じゃあなに」
彼はまた不機嫌そうになって口を尖らせる。
「あなたも若い人がいいでしょう? 私なんてあなたから見たらおばちゃんでしょ」
「僕の愛しい人をおばちゃん扱いしないでくれる?」
一瞬、言われたことがわからなかった。
目を数度ほど瞬かせてから、『愛しい人』が自分なのだと気が付く。
「さっきから話がかみあってない」
彩夏は頭を抱えた。
遥斗は、ふう、と大きく息をついてから真面目な顔で彩夏を見る。
「年齢を理由にするのは卑怯だ。春が秋に追いつけないように、夏が冬に追いつけないように、僕達の時間は永遠に離れたままだ」
真剣なまなざしに、どきっとしてしまう。
「だから、それを埋めることができないのよ」
かろうじてそう答えたのだが。
「わかった。僕は埋めてみせる。僕とあなたの間の時間を。そうして、僕の愛を思い知って」
「会ったばっかりなのに、愛だなんて」
「あなたは話が堂々巡りだよ。壱岐、あれを」
そばに控えていた壱岐がすっと一歩を出して脇に抱えたファイルから一通の書類を取り出す。
渡されたそれを、遥斗は広げてテーブルに置く。
婚姻届だった。
「とりあえず書いて。ハンコはすぐに用意させるから」
「はあ!?」
彩夏はあきれて彼を見た。
「僕たちは運命で結ばれてるんだから。書いてくれるまで帰さない」
にこにこと笑みを浮かべる彼に、どんな悪質商法だ、とつっこみたくなる。
よくある悪質商法は絵画やエステなど数人で囲い込んで契約させるものだが、まさか婚姻届けでそれをやられる日がくるとは思わなかった。
今日は「こんな日が来るとは思わなかった」が多いな、と思いながら彩夏は気持ちを立て直す。
「断るの? うーんじゃあ、とりあえず監禁しようかな?」
「は?」
物騒な言葉に、彩夏は彼を見た。
「そしたら僕の本気をわかってくれるよね?」
「そうじゃなくて」
彩夏はまた頭を抱えた。救世主にこんな目に遭わされるとは思わなかった。
「運命の相手じゃないし、運命がくどい。勘弁して」
「僕にとっては運命の出会いなんたけど」
「運命とか、信じてるわけ?」
聞かれた彼はにやあっと笑った。
「信じてるわけないじゃん」
あっさり断言されて、彩夏はあっけにとられた。
「運命なんてかなり恣意的なものだよね。論理性も必然性もない。主観や好みで左右される都合がいい存在」
「それならどうして……」
「だから僕が運命と決めたら運命。すべてを運命にする」
彼の笑みはすぐに濃く深くなる。カフェで見た輝く笑顔とは天と地の、闇の深さを感じさせる笑み。
「僕はあなたとの運命に酔いたい」
傲然さが浮かぶ笑みはいっそ酷薄にすら見えるのに、妖艶な魅力に満ちていて、彩夏は見惚れてしまった。
「わかったらサインして」
手にペンを持たされ、彩夏はハッと我に返った。
「無理!」
「僕をふる気? 許さないよ」
彼の目に殺気が宿り、彩夏は思わず身を引いた。
「遥斗様」
それまで黙っていた壱岐が口を挟む。
「焦り過ぎでございます。レディに対する紳士の態度ではございません」
「だけどさあ」
「男たるもの、脅迫ではなく魅力で落としてくださいませ」
「魅力は充分あるだろ」
「だったらなおさらでございます。そんなふうでは逃げられますよ」
冷静で容赦ない壱岐の発言に、遥斗は口を尖らせる。
その目がじろっと彩夏を見て、彩夏はひきつりながら彼を見る。
「まずはお名刺を渡すところからお始めください」
「そんなものなくても愛し合えるのに」
ぶつくさと言いながら、仕方なさそうに遥斗は名刺を出す。
「これ、僕の名刺」
渡された名刺を見て彩夏は驚愕した。
「司城コーポレーション系列の社長!?」
日本有数の会社で、世界にも羽を広げている。事業は工業から食品業まで多岐にわたっている。珍しい苗字だとは思ったが、まさかあの司城と同じとは思っていなかった。
「僕、いわゆる御曹司。ゆくゆくは本社の社長になるけど、今は子会社の社長。飲食店をメインでやってる」
「嘘……」
「嘘じゃないよ。ああ、まどろっこしい」
ぼやく遥斗に、壱岐が冷静に言う。
「愛も恋もまどろっこしいものでございますよ」
「知った風な口をきくな」
「遥斗様よりは存じておりますかと」
平然と壱岐は答える。
彩夏は便乗することにした。
「そう、愛とか恋って、まどろっこしいものなの。だから、ね、婚姻届けとかはまだ早いの」
ぴく、と遥斗の目じりが動いた。
「まだ早い……この先ならいいってことだね」
しまった、と思ったときには遅かった。
「だったら今日はあきらめる。連絡先、教えて。あ、逃げようとしても無駄だよ。名前がわかってるんだから、調べればなにもかもわかるから」
彩夏は顔をひきつらせた。
まったくとんでもない人と「運命の出会い」をしてしまった、と。
自宅に戻った彩夏は大きくため息をついた。
乗ってきたのと同じ外車でひとり暮らしのマンションに送られて、そこでもまたひと悶着があった。
マンションが気に入らないから自分のところへ引っ越してこいだとか、部屋に入りたいだとか、わがまま放題に言って、最終的に壱岐がいさめてくれてなんとか帰ることができた。
だが、気になることを言っていた。
『また明日ね。絶対会いに行くから。婚姻届けを書きたくなるくらい愛を育ませてあげる』
とろけるような笑みで彼はそう告げて、彩夏が逃げる間もなく頬にキスをして去っていった。
「明日が怖い……」
彩夏は会社も仕事も伝えていない。だからきっとマンションに押しかけて来るのだろう。
部屋を片付けておいたほうがいいだろうか。
いや、それでは相手の言うなりだ。
これもストーカーになるのだろうか。
警察に相談してどうにかなるのだろうか。
御曹司にストーカーされてますなんて、信じてもらえるわけがない。
いや、そもそもまだストーキングされていない。
うーん、と悩んだあげく、彩夏は思考をあきらめた。
機械的にシャワーを浴びて寝る準備をしてベッドに入る。
失恋したことも連絡先を教えてしまったこともなにもかも忘れたくて、ただ泥のように眠った。
再会は思ったより早く訪れて、彩夏は驚愕した。
まさか出社したらいるなんて。
勤務先のビルの入口で待ち構えている彼に、彩夏はただ呆然と立ち尽くす。
「彩夏!」
彼女に気付いた彼が呼び捨てて駆け寄って来る。
逃げても追って来るよね、と彩夏はあきらめて彼を待った。
「来ちゃった!」
来ちゃった、じゃないし。
「私、仕事があるんだけど」
「わかってる。彩夏の仕事してる姿を見たくて、ここの社長に話をつけた。だから今日は一緒にいるよ。邪魔な壱岐は置いてきたから大丈夫」
「はあ!?」
驚く彩夏に、遥斗はにこにこと笑顔を向ける。
壱岐さんって、苗字なのかな、下の名前なのかな。
驚き過ぎて、どうでもいいことを考えてしまった。
「さ、行こうか。僕のことは社長には婚約者って言ってあるから」
まっくらな先行きに彩夏は眩暈でくらくらした。
***
樫内玲央奈は出勤の途中で思いがけない獲物を見つけた。
「昨日の……」
カフェで和司と一緒にいたときに見たイケメンだった。隣にいるのは和司の元カノの女。
「結局、あのイケメンと付き合ってるのかしら」
小首をかしげてふたりを見る。
和司と別れたばかりでつきあうものだろうか。だが、和司によればもう冷めていたというから、心が移るのは早いだろうか。とはいえ、心が冷めていたなんて言い訳は浮気男がよく使う言い訳であって、信じられるものではない。それ以前に、好きでなくてもつきあうなんてことだってよくあることだ。
昨日、和司とのデートで彩夏を呼び出したのは玲央奈だ。彼がトイレに行った隙に彼のスマホでメッセージを打った。
思ったより早く来たな、と感心していたら、目の前で修羅場を繰り広げてくれて面白かった。一秒前まで恋人でした、なんてセリフもいい。
そのあとに和司に付き合ってほしいと告白されたが、断った。そのときの彼の顔と言ったら見ものだった。
「彼女の恋を壊したら……また面白いセリフを聞かせてくれるかしら」
玲央奈はわくわくした。
他人の恋を壊すのはいつも楽しい。男なんてちょっと気のあるふりをしたらすぐに落とせるかわいい生き物だ。体の関係がなくても両想いだと思い込んで尽くしてくれる。
カップルクラッシャーとなじられても、繰り広げられる泥沼を見る楽しみに比べたらその程度の悪口などどうでもよくなってしまう。
男たちは玲央奈へ向けられる悪口を「ブスのひがみ」と断じて思考停止しているし、たまに本性に気が付く理性的な男はトラブルになるのを恐れて近寄って来ない。
「今度はイケメンか……社長って言ってたし、落としがいがありそう。たまには本当に恋人を作るのもいいかな」
玲央奈は期待に胸をふくらませ、足取りも軽く会社に向かった。
テレビで紹介され、ネットでも話題のおしゃれなお店だ。
松鳥彩夏はじろじろと視線を浴びながら行列を縫って先頭に行く。
「いらっしゃいませ。お待ち合わせですか?」
さわやかな笑顔を浮かべた女性店員に聞かれる。
「はい」
答えると、どうぞ、と手を伸ばして店内へ導かれる。
店内はヨーロッパを意識した現代的なインテリアが置かれ、藤製の椅子は丸みを帯びた背もたれに模様があってかわいい。ライトブラウンの木の丸いテーブルにはカップルや女性の友達同士の客が多い。
歩きながら見回した中に目的の人物を見つけ、彼女はけげんな顔をした。
通路を歩いて近づくと、その人物もまた彼女に気がついて驚愕を浮かべる。
席にたどりつく直前、近くのテーブルの男性が振り返り、目が合った。
二十代半ばだろうか。茶色がかった黒髪はなめらかに流れ、彼を彩る。なめらかな肌にすっきりした顔立ち。素人目でもわかる仕立ての良いスーツに身を包み、ほっそりした体は美の女神の申し子のように均整がとれている。
ただ美しいだけではなかった。人を引き付けるオーラのようなものがある。色気でもあり、同時に神秘性があって近寄りがたい。
にこっと彼は笑った。それだけで輝きが増して太陽を直視しているような気分になる。
彩夏ははっと我に返り、会釈をして通り過ぎる。
「お待たせ」
彼女は目的の人物……恋人である小田代和司に声をかけた。
三十歳の自分と同い年の彼氏。平凡な自分にふさわしい平凡な彼。
彼は取引先の社員で、仕事を通じて知り合った。仕事に支障が出るといけないから、交際は内緒にしている。
その向かいには彩夏と同じ会社で受付をしている女性が座っている。垂れ目の儚げな雰囲気が、女性の自分でも守りたくなるような庇護心をくすぐられる。
問題は、なぜここに彼女がいるのか、だった。彼女については良い評判を聞いたことがない。
「彩夏、なんでここに……」
「あなたがメッセージしたんじゃない。急いで来てって言うから来たのに」
だから慌てて準備してきたのだ。街中に出るのに充分な装いを整えて来たつもりだが、このおしゃれなカフェでは地味だった。
「俺はそんな連絡してない」
和司の声には焦りがあって、彩夏の胸に湧いた不安が濃くなっていく。
「和司さん、どなた?」
女性にたずねられ、和司はもぞもぞと体を動かす。
ろくな解答がこないだろうことを予想し、彩夏は眉を寄せた。
「この人は俺の友人で……」
ぼそぼそと言われた紹介に、終わった、と彩夏は思った。
「はじめまして。友人の松鳥彩夏です。一秒前まで恋人でした」
にこっと笑って彩夏は自己紹介をする。
「まあ……」
女性は両手を口に当てて、丸くなった目をぱちくりさせている。
そろそろ周囲が三人の様子のおかしさに気づき始めている。こちらをちらちらと見ているが、知ったことじゃない。
「お前、空気読めよ!」
「読んだ結果だけど?」
じろりと彼を見ると、恨みがましい目を向けられた。
「お前とはもういろいろ終わってたじゃん。会ってもときめかないし、おかんみたいな感じになってあれこれ口うるさいし……」
「へえ、終わってる人間と結婚の話をしてたんだ」
彩夏は皮肉っぽく言った。プロポーズとまではいかないものの、彼は結婚を口にしていたから。結婚したら引っ越さないとな、結婚したら家事はどうしようか、結婚したら……。そんなことを言われたら自分との結婚を考えていると思うに決まっている。
「それは、ただ話の流れっていうか……。もう終わったんだからさ。彼女のほうが若いし、誰だって若い子のほうがいいだろ」
和司は目をそらしてぶつぶつと言う。
「よくそんなこと言えるわね」
「仕方ないじゃないか。運命の出会いをしてしまったんだ。彼女が俺の運命の人だ」
和司はそう言って正面のふわふわな女性を熱い目で見つめる。
女性は困ったように首を傾けるだけでなにも言わない。
なんて都合のいい運命だろうか。そもそも運命だなんて目に見えないもの、どうやってそうだとわかるというのか。
「御託はいいわ。つまりあなたは私を捨てて彼女を選んだってことだから」
彩夏が断言すると、和司は顔をしかめた。
「そんなかわいげがないからダメなんだ」
綾香が言い返そうとしたとき。
「へえ、お姉さん捨てられたんだ。じゃあ僕、拾っちゃおうっと」
声が割って入り、後ろから誰かに抱きしめられた。
「ちょ、なに!?」
彩夏は慌ててふりほどこうとするが、がっちりと抑え込まれっていて離れられない。
顔をよじって確認すると、さきほどのイケメンがそこにいた。背の高い彼が体を曲げて彩夏に頬を寄せてくる。
「なんだ、お前は!」
和司が怒鳴り付けると、にやり、と彼は笑った。
「通りすがり。素敵な女性が捨てられるのが見えたから、思わず拾っただけ。これって運命だと思う」
彩夏はあっけにとられてなにも言えない。
「お姉さん、出会いの記念にデートしよ?」
「俺と別れた直後に男を作るのか! とんでもねえ女だな!」
「二股浮気野郎のほうがとんでもないと思うけど?」
イケメンに言い返され、周囲からはくすくすと笑いが漏れた。
「てめえ……」
和司は怒りでうなる。
「運命の出会いなら仕方ないんだよね? 僕のほうがあなたより若いし。誰だって若い子のほうがいいんだよね?」
彼はくすくすと笑う。侮蔑を隠そうともせず。
ああ、と彩夏は悟る。
彼は自分たちのやりとりを見て自分に加勢してくれたのだ。腹を立てたのかいたずら心なのかはわからないが。
「お前たちは運命なんかじゃないだろ!」
和司が怒鳴る。
「あなたにそれを決める権利はないよ。――壱岐、車は?」
和司に断言し、いつの間にか隣に立っていたスーツの男性に声をかける。三十半ばほど、眼鏡をかけていて無表情だ。
「社長、本日はあちらにロールスのファントムを用意してございます」
テラス席から見える位置に、高級そうな黒い外車が止まっていた。セダンのはずなのに小型のバスかと見まがうほど大きい。通称でフライングレディと呼ばれている特徴的な女性のエンブレムがフロントについている。
彩夏は混乱して彼らを見る。彼はただ笑みを返した。
「行こうか」
ハグをほどいた彼に手を差し伸べられて、彩夏は思わずその手をとる。
彼がすっと耳に口を寄せて小声で囁く。
「背筋を伸ばして、僕の花嫁。主役はあなただよ。堂々と歩いて」
彩夏ははっとした。
周囲の人達が興味に勝てずに窺うように自分たちを見ている。この観客に、勝者が誰なのかを示して歩け、と彼は言うのだ。
彩夏はピンと背筋を伸ばした。
なぜか、それだけで世界が違って見える。
隣にいるのが背の高いイケメンだからだろうか。本当に自分が主役になったかのように思え、テラスまでのただの通路が、花嫁が歩く花道のように見えてくる。
「出会った記念にホーリーウィンストンで指輪でも買おうか」
彩夏の腰を抱き、和司や観客たちに聞かせるように言いながら彼は歩く。
「うれしいわ」
彩夏は精一杯の喜びを演じて答えた。
この茶番で少しでも彼を悔しがらせたい。
自分はふられたみじめな女ではなく、運命の愛に出会った幸せな女なのだと、そう思わせたい。
彼と一緒に靴音も高く歩き、テラス席に横付けされた黒い車に近づく。
運転手が白い手袋をはめた手でドアを開けてくれたが、思っていたのと逆側、後部を起点として開いたのでびっくりした。扉の内側には花をモチーフとした幾何学のワンポイントがあった。天井には同様の幾何学模様が大きく配置され、星空のような照明がきらきらと輝いていた。
大きな白い革張りのソファは一針の歪みもなく縫製され、シミ一つない。ダークブラウンのラインがシックで高級感にあふれている。
こんな車にはエレガントに乗らなくては。
必死に記憶をたどり、上品な乗り方を思い出す。先にシートに腰を下ろし、それから両足をそろえて回転するようにさっと乗り込む。
車なのにオットマンがある、と驚いたが動揺は顔に出さないように気を付けた。前のシートの背が遠くてキャビンが広い。この車こそが自分にふさわしいのだという毅然とした態度を心がける。
運転手はドアを閉めたあと、反対側にまわって彩夏を連れ出した彼のためにドアを開け、彼が乗ってから閉めた。
秘書が助手席に乗り込み、運転手が運転席に収まる。
運転手が車を出すまで、彩夏は真っ直ぐ前を見ていた。
あの男がどんな顔をしてるのか気になるが、振り返ったら負けだ。もう気にしていない、過去の事。それを態度で示さなくてはならない。
そんな彼女を見て、彼はくすりと笑う。
「いいね、ますます僕の好み」
つぶやきに、彼女は彼を見る。
彼は嬉しそうににこっと笑った。それで張りつめていた緊張がほぐれて、彩夏も表情を崩した。
「ありがとう、助けてくれて」
「いいんだ。僕の店で別れ話なんかされて腹がたったから」
「ごめんさない、お店の雰囲気を悪くして」
この人の店、ということは店長かな? と彩夏は思う。社長と呼ばれていたから、会社化していたのだろうか。いや、秘書らしき男性をお供にして高級外車に乗っているほどだ。自分より若そうなのに。早くから起業していたのだろうか。
「いいよ。でもお茶を邪魔されちゃった、お姉さん、口直しにつきあってくれる?」
「お礼に私がおごるわ」
「僕のお茶は高いけど?」
「え?」
いたずらっぽく言われて、彩夏は戸惑う。
「壱岐、いつものホテルのロイヤルとっておいて。彼女とアフタヌーンティーする。ホーリーはまた今度」
「かしこまりました」
「え? ロイヤル?」
「安心して、運命の人に出させるようなことはしないから」
車が発進し、彼は彩夏の肩を抱き寄せる。
もう演技は必要ないのだろうに、と思いながらも彼女はその手をふりほどけずにいた。
高級ホテルのロイヤルスイートにつれてこられ、彩夏はどきどきしていた。
だたっぴろい部屋にはベージュの絨毯が敷かれ、丸みを帯びたソファが置かれている。ガラスのテーブルは脚までガラスでできていて、手入れが大変そうだな、なんて思ってしまった。
天井の照明は咲き誇る花をイメージして作られているようで、重なりながら広がる花びらの花脈すら美しく光を投げかけている。
全体的には白と黒を基調としたモダンを感じさせる部屋だった。ホテルの高い部屋はヨーロピアンなイメージしかなかったから意外だった。
こんなところは初めてだ。
さっき助けたお礼にお茶をと言ったけれど、もしかしてお礼と称してそのさきまで求められるのだろうか。
だが、自分などむしろお粗末に見えて、彼が求めてくるようにも思えない。
自分を抱きしめて縮こまっていると、くすりと彼が笑った。
「とってくったりしないよ。本当にお茶するだけだから」
「あ、はい……」
彼に勧められてテーブルに付くが、借りてきた猫のように大人しく座る。
ホテルスタッフが銀色のワゴンを押して現れ、テーブルにアフタヌーンティーセットをセッティングして帰っていった。
アフタヌーンのスタンドは金色の支柱に白いお皿が階段状に螺旋を描いていた。下から数種のサンドイッチ、きつね色のスコーン、モンブラン、キャラメルプリン、チョコレートケーキ、とグラデーションに彩られている。添えられたミントのグリーンが美しい。
コーヒーの黒いカップとソーサーには筆で書いたような一筋が金で入れられていて、部屋との調和が美しい。
「ここのアフタヌーンティーは僕の会社が監修してるんだ。おいしいよ」
「ありがとう」
彩夏はお礼を言うことしかできなかった。
アフタヌーンティーを監修していて社長だとはいうが、なんだか正体がつかめない感じがする。
「お姉さん、名前は? 僕は司城遥斗だよ」
「松鳥彩夏です」
「いい名前。僕と結婚したら司城彩夏だね」
彩夏は苦笑した。さきほどは運命だとか花嫁だとか言われたし、いつまでそれを引っ張るのだろうか。
彼の勧めに従ってアフタヌーンティーセットをいただく。あんなことがあったとで食欲などなかったはずなのに、おいしさについつい食べてしまう。サンドイッチはしっとりしていて、具剤とマヨネーズの塩味がちょうどいい。スコーンもクロテッドクリームもおいしいし、ケーキ、コーヒーもすべての調和がとれていて彩夏は舌鼓を打った。
「どれも全部おいしいわ」
彩夏が言うと、彼は満面の笑みを浮かべた。
「良かった」
彩夏はその笑顔がまぶしくてコーヒーを飲んで目を逸らした。
「あいつのせいであなたが泣いたらどうしようかと思った。いつでも泣けるように部屋をとったけど、そんなことがなくて良かった」
「そういえば……私、失恋したのに」
最初は怒りで、次には彼の登場で驚きすぎて、悲しい気持ちになる暇がなかった。
「その様子なら話してもいいかな。これからのことなんだけど」
言われて、彩夏は彼を見た。
「式はいつがいい? 会場はどこにする?」
続いた言葉に、彩夏は首をかしげる。
「なんのことですか?」
「やだなあ、僕達の結婚式だよ」
彼はにこにこと答える。
「なんで結婚式?」
「僕の運命の相手があなただから」
一瞬、硬直した。
が、すぐに気を取り直す。
「やめてよ、そんな冗談は笑えないよ」
彩夏は苦笑してツッコミを入れる。
彼はムッとして彩夏を見る。
「冗談じゃない。僕は本気」
彼の真剣さに、彩夏は動揺した。
「私たち会ったばかりよ? まだ何も知らないのに」
「じゃあ身上書をだすよ。あなたのことは興信所を入れて報告書を見るから。気になったらあなたも興信所を入れてくれていいよ。費用はこちらで出す」
彩夏は唖然とした。
「知るって、そういうことじゃないよ……」
「じゃあなに」
「なにって」
そんな説明が必要になる日が来るとは思わなかった。好きなものとか嫌いなものとか、どんな性格だとか価値観だとか、そういうものは日々を積み重ねて知り合うもので、報告書の文字列で知った気になるのはなにか違うと思う。
「あなた、何歳?」
「二十五歳」
そのわりには言動が幼く見えるが、と思いながら彩夏は言う。
「五歳も年下じゃない、駄目よ、年上をからかっちゃ」
彼は不機嫌そうに眉を寄せた。
「年下だとなんで駄目なの?」
言った直後、彼はぴこんと閃いたように顔を輝かせる。
「夜のテクニックなら自信あるよ。若くて体力あるから、絶対に満足させてあげられる。サイズは――」
「そういうことじゃない!」
彩夏は速攻で否定して続きを言わせなかった。なんでそうなるんだ、と思いながら。
「じゃあなに」
彼はまた不機嫌そうになって口を尖らせる。
「あなたも若い人がいいでしょう? 私なんてあなたから見たらおばちゃんでしょ」
「僕の愛しい人をおばちゃん扱いしないでくれる?」
一瞬、言われたことがわからなかった。
目を数度ほど瞬かせてから、『愛しい人』が自分なのだと気が付く。
「さっきから話がかみあってない」
彩夏は頭を抱えた。
遥斗は、ふう、と大きく息をついてから真面目な顔で彩夏を見る。
「年齢を理由にするのは卑怯だ。春が秋に追いつけないように、夏が冬に追いつけないように、僕達の時間は永遠に離れたままだ」
真剣なまなざしに、どきっとしてしまう。
「だから、それを埋めることができないのよ」
かろうじてそう答えたのだが。
「わかった。僕は埋めてみせる。僕とあなたの間の時間を。そうして、僕の愛を思い知って」
「会ったばっかりなのに、愛だなんて」
「あなたは話が堂々巡りだよ。壱岐、あれを」
そばに控えていた壱岐がすっと一歩を出して脇に抱えたファイルから一通の書類を取り出す。
渡されたそれを、遥斗は広げてテーブルに置く。
婚姻届だった。
「とりあえず書いて。ハンコはすぐに用意させるから」
「はあ!?」
彩夏はあきれて彼を見た。
「僕たちは運命で結ばれてるんだから。書いてくれるまで帰さない」
にこにこと笑みを浮かべる彼に、どんな悪質商法だ、とつっこみたくなる。
よくある悪質商法は絵画やエステなど数人で囲い込んで契約させるものだが、まさか婚姻届けでそれをやられる日がくるとは思わなかった。
今日は「こんな日が来るとは思わなかった」が多いな、と思いながら彩夏は気持ちを立て直す。
「断るの? うーんじゃあ、とりあえず監禁しようかな?」
「は?」
物騒な言葉に、彩夏は彼を見た。
「そしたら僕の本気をわかってくれるよね?」
「そうじゃなくて」
彩夏はまた頭を抱えた。救世主にこんな目に遭わされるとは思わなかった。
「運命の相手じゃないし、運命がくどい。勘弁して」
「僕にとっては運命の出会いなんたけど」
「運命とか、信じてるわけ?」
聞かれた彼はにやあっと笑った。
「信じてるわけないじゃん」
あっさり断言されて、彩夏はあっけにとられた。
「運命なんてかなり恣意的なものだよね。論理性も必然性もない。主観や好みで左右される都合がいい存在」
「それならどうして……」
「だから僕が運命と決めたら運命。すべてを運命にする」
彼の笑みはすぐに濃く深くなる。カフェで見た輝く笑顔とは天と地の、闇の深さを感じさせる笑み。
「僕はあなたとの運命に酔いたい」
傲然さが浮かぶ笑みはいっそ酷薄にすら見えるのに、妖艶な魅力に満ちていて、彩夏は見惚れてしまった。
「わかったらサインして」
手にペンを持たされ、彩夏はハッと我に返った。
「無理!」
「僕をふる気? 許さないよ」
彼の目に殺気が宿り、彩夏は思わず身を引いた。
「遥斗様」
それまで黙っていた壱岐が口を挟む。
「焦り過ぎでございます。レディに対する紳士の態度ではございません」
「だけどさあ」
「男たるもの、脅迫ではなく魅力で落としてくださいませ」
「魅力は充分あるだろ」
「だったらなおさらでございます。そんなふうでは逃げられますよ」
冷静で容赦ない壱岐の発言に、遥斗は口を尖らせる。
その目がじろっと彩夏を見て、彩夏はひきつりながら彼を見る。
「まずはお名刺を渡すところからお始めください」
「そんなものなくても愛し合えるのに」
ぶつくさと言いながら、仕方なさそうに遥斗は名刺を出す。
「これ、僕の名刺」
渡された名刺を見て彩夏は驚愕した。
「司城コーポレーション系列の社長!?」
日本有数の会社で、世界にも羽を広げている。事業は工業から食品業まで多岐にわたっている。珍しい苗字だとは思ったが、まさかあの司城と同じとは思っていなかった。
「僕、いわゆる御曹司。ゆくゆくは本社の社長になるけど、今は子会社の社長。飲食店をメインでやってる」
「嘘……」
「嘘じゃないよ。ああ、まどろっこしい」
ぼやく遥斗に、壱岐が冷静に言う。
「愛も恋もまどろっこしいものでございますよ」
「知った風な口をきくな」
「遥斗様よりは存じておりますかと」
平然と壱岐は答える。
彩夏は便乗することにした。
「そう、愛とか恋って、まどろっこしいものなの。だから、ね、婚姻届けとかはまだ早いの」
ぴく、と遥斗の目じりが動いた。
「まだ早い……この先ならいいってことだね」
しまった、と思ったときには遅かった。
「だったら今日はあきらめる。連絡先、教えて。あ、逃げようとしても無駄だよ。名前がわかってるんだから、調べればなにもかもわかるから」
彩夏は顔をひきつらせた。
まったくとんでもない人と「運命の出会い」をしてしまった、と。
自宅に戻った彩夏は大きくため息をついた。
乗ってきたのと同じ外車でひとり暮らしのマンションに送られて、そこでもまたひと悶着があった。
マンションが気に入らないから自分のところへ引っ越してこいだとか、部屋に入りたいだとか、わがまま放題に言って、最終的に壱岐がいさめてくれてなんとか帰ることができた。
だが、気になることを言っていた。
『また明日ね。絶対会いに行くから。婚姻届けを書きたくなるくらい愛を育ませてあげる』
とろけるような笑みで彼はそう告げて、彩夏が逃げる間もなく頬にキスをして去っていった。
「明日が怖い……」
彩夏は会社も仕事も伝えていない。だからきっとマンションに押しかけて来るのだろう。
部屋を片付けておいたほうがいいだろうか。
いや、それでは相手の言うなりだ。
これもストーカーになるのだろうか。
警察に相談してどうにかなるのだろうか。
御曹司にストーカーされてますなんて、信じてもらえるわけがない。
いや、そもそもまだストーキングされていない。
うーん、と悩んだあげく、彩夏は思考をあきらめた。
機械的にシャワーを浴びて寝る準備をしてベッドに入る。
失恋したことも連絡先を教えてしまったこともなにもかも忘れたくて、ただ泥のように眠った。
再会は思ったより早く訪れて、彩夏は驚愕した。
まさか出社したらいるなんて。
勤務先のビルの入口で待ち構えている彼に、彩夏はただ呆然と立ち尽くす。
「彩夏!」
彼女に気付いた彼が呼び捨てて駆け寄って来る。
逃げても追って来るよね、と彩夏はあきらめて彼を待った。
「来ちゃった!」
来ちゃった、じゃないし。
「私、仕事があるんだけど」
「わかってる。彩夏の仕事してる姿を見たくて、ここの社長に話をつけた。だから今日は一緒にいるよ。邪魔な壱岐は置いてきたから大丈夫」
「はあ!?」
驚く彩夏に、遥斗はにこにこと笑顔を向ける。
壱岐さんって、苗字なのかな、下の名前なのかな。
驚き過ぎて、どうでもいいことを考えてしまった。
「さ、行こうか。僕のことは社長には婚約者って言ってあるから」
まっくらな先行きに彩夏は眩暈でくらくらした。
***
樫内玲央奈は出勤の途中で思いがけない獲物を見つけた。
「昨日の……」
カフェで和司と一緒にいたときに見たイケメンだった。隣にいるのは和司の元カノの女。
「結局、あのイケメンと付き合ってるのかしら」
小首をかしげてふたりを見る。
和司と別れたばかりでつきあうものだろうか。だが、和司によればもう冷めていたというから、心が移るのは早いだろうか。とはいえ、心が冷めていたなんて言い訳は浮気男がよく使う言い訳であって、信じられるものではない。それ以前に、好きでなくてもつきあうなんてことだってよくあることだ。
昨日、和司とのデートで彩夏を呼び出したのは玲央奈だ。彼がトイレに行った隙に彼のスマホでメッセージを打った。
思ったより早く来たな、と感心していたら、目の前で修羅場を繰り広げてくれて面白かった。一秒前まで恋人でした、なんてセリフもいい。
そのあとに和司に付き合ってほしいと告白されたが、断った。そのときの彼の顔と言ったら見ものだった。
「彼女の恋を壊したら……また面白いセリフを聞かせてくれるかしら」
玲央奈はわくわくした。
他人の恋を壊すのはいつも楽しい。男なんてちょっと気のあるふりをしたらすぐに落とせるかわいい生き物だ。体の関係がなくても両想いだと思い込んで尽くしてくれる。
カップルクラッシャーとなじられても、繰り広げられる泥沼を見る楽しみに比べたらその程度の悪口などどうでもよくなってしまう。
男たちは玲央奈へ向けられる悪口を「ブスのひがみ」と断じて思考停止しているし、たまに本性に気が付く理性的な男はトラブルになるのを恐れて近寄って来ない。
「今度はイケメンか……社長って言ってたし、落としがいがありそう。たまには本当に恋人を作るのもいいかな」
玲央奈は期待に胸をふくらませ、足取りも軽く会社に向かった。


