My eyes adored you

10.Stratagem(聡史)①

「……っていうか、お兄ちゃん、これどういうこと?」
 ああ、やっぱりこうなるか。想定内の反応とはいえ、もう少し帰宅は遅いだろうと踏んでいたから、どう切り返すかは後で考えようと思っていた。会社の人と食事してくると言っていたのに、まさか8時過ぎに帰ってくるとは。
 通勤着のパンツスーツ姿で、美也子は居間の入り口で突っ立っていた。あんぐり口を開けたままこちらを見ている。本を傍らに置き、ソファーから動けないでいる僕を。
 肩にかかっていた革のバッグが、ずるりとひじの内側まで滑り降りる。バランスが若干崩れたせいなのか、それとも不可解な状況に混乱しているせいなのか。不自然によろめきながら、ようやく美也子はこちらへやってきた。
「ど、どうしてひとみちゃんが……」
「声が大きいよ。起きてしまう」
 僕の膝に頭をのせてすやすや眠っているひとみちゃんは、幸い目を覚ます気配はない。よかった、とほっとする間もなく、容赦ない追随が続く。
「説明してよ、どういうことだか」
「説明と言われても……いわば、偶然の産物かな」
 我ながら間抜けな返答だと思いつつも、それしか言いようがなかった。呆れたような美也子の視線から逃れるように、僕はテーブルの上の二羽の折り鶴をに目をやった。花模様の紙で折られた小さな折り鶴。『並べると、仲良しに見えて嬉しいね』なんて言いながら、バッグから大事そうに取り出してテーブルに置く様子はとても可愛かったな、と思い出しながら。
「うちを訪ねてきたってこと?」
「いや」
「じゃあ、お兄ちゃんが迎えに行ったってこと?」
「そういうわけでもない」
 美也子は天井を仰いだ。お手上げ、といった風情で。
「わけわかんないんだけど。一体どこから拉致してきたわけ?」
「拉致するわけないだろ」
「じゃあ、どうして?」
「話すと長くなる」
 一体、どこから話せばいいのか、そもそも、どこまで話したものか。さっきの川辺でのやりとりなど、とてもじゃないが美也子に話せるわけがない。
 あからさまに不審げな表情で僕を見て、それから美也子は横になっているひとみちゃんに視線を落とした。
「っていうか、なんでひざまくら?」
「不可抗力、かな」
 ついさっきまでは、ひとみちゃんは僕の隣で本を読んでいた。二階の僕の部屋から持ってきた西洋史入門の新書だ。僕が高校の時に読んでいたもので、初心者にもとっつきやすいだろうと思って渡したら、ひとみちゃんは夢中になってページをめくっていた。
『お仕事あるならしてね、聡史くん。わたしのことは、気にしないでね。邪魔したくないから』
 にっこり笑ってそんなふうに言われても、こちらとしては、とても仕事どころではないというのに。ひとみちゃんの中では、どうやら僕はいつも勉強や読書をしているイメージらしい。
 おおむね間違ってはいないけれど、今夜はとても無理だ。ひとみちゃんがあまりに綺麗だから——と、川辺で口にした台詞を繰り返しそうになって、寸でのところで思いとどまった。部屋に二人きりの状況で言っていい台詞ではない、と理性が警鐘を鳴らした。
 それで、仕方なく読みかけの本を半ば上の空で読むふりをしていると、ほどなく、ひとみちゃんが肩にもたれ掛かってきた。びっくりして見やれば、可愛い顔ですうすう眠っているではないか。
 心からの安堵とほんの少しの落胆に襲われ、正直なところ僕はいっぱいいっぱいだった。そのままではとてもじゃないが平静でいられる自信はなかったし、しかたなくそっと膝の上に寝かせた、というわけだ。
 美也子は着替えもせずにソファーの横にしゃがみこんだ。
「もー、予想通り。っていうか、予想の数段上いってるね。可愛いなぁ」
 ひとみちゃんの寝顔をしげしげと眺めて、ほうっと妙なため息を吐く。
「モデルや芸能人でもこんな綺麗な子、そうそうはいないよ? しかも、すっぴん無加工でこのクオリティだもん。美しすぎて目が眩みそう。なに、この天使……」
 僕は黙っていた。そうだよ、見た瞬間恋に落ちてしまうほどにすさまじく綺麗だ、と改めて思いながら。
 すかさず、美也子が突っ込んでくる。
「やだなぁ、その蕩けた顔。お兄ちゃんでもそういう顔するんだ」
「いいから、着替えてくれば?」
「ねぇねぇ、どうやって(たら)し込んだわけ?」
 にやにや笑いながらそんなことまで言い出す始末で、今度は僕がため息を吐く番だった。
「品のない言葉遣いだな。新聞記者のくせに」
「結局、光源氏だったじゃん。お兄ちゃんのくせに」
 誰が光源氏だ、と睨んでやろうとしたら、膝の上で「ん……」と寝ぼけたような声がした。
 小さく唇が動いて、そのままきゅっと口角が上がる。いい夢を見ているようでなによりだ。思わず僕も微笑んでしまいそうになる。無意識にひとみちゃんの髪をなでてしまうと、美也子がわざとらしく咳払いした。
「お兄ちゃんさぁ、あたしが帰ってきて、実はほっとしたでしょー?」
「別に」
「こんな綺麗な子と二人きりだなんて、うっかり、オオカミになりかけたんじゃないの?」
「あのね。寝込みを襲うような真似するわけないだろ」
 呆れた声色を演出しつつも、内心、冷や汗が出る思いだった。
 膝に寝かせたあと、なけなしの理性を総動員して懸命に本に集中しようと試みたことを思い出す。膝に伝わる柔らかな重みで胸苦しくなるわ、ほのかに立ち上る髪の香りが悩ましいわで、この上なく甘美な拷問を受けている気分だった。
 見透かしたように、美也子は口の端を上げた。
「どうだかー。くそ真面目に学者ぶってても、お兄ちゃんだって男だもんね、一応」
「学者ぶってるんじゃなくて、正真正銘、学者だよ。駆け出しだけど」
「はいはい、失礼しました、博士さま」
「いいから、着替えてきたら。ケーキ買ってきたんだ」
「お。気が利くぅ」
 立ち上がる前にしばしひとみちゃんの寝顔を眺めて、美也子はぽつりと言った。
「……よかった。ちゃんとひとみちゃんだ」
 今の今までの軽口とは打って変わって、とても静かな声だった。こっそり見やると目が微かに潤んでいたが、僕は気づかないふりをした。ただ、ふわふわのくせ毛をなでていた。

 ほどなく目を覚ましたひとみちゃんは、着替えて下りてきた美也子を見るなり駆け寄って抱きついて、しばらく静かにすすり泣いていた。美也子も、今度ははっきり涙声になって「おかえり、ひとみちゃん」と背中をぽんぽん優しく叩いていた。
 ようやく落ち着いた二人がお茶の準備をし始めて、僕は冷蔵庫からケーキの箱を出した。皿とフォークを3人分用意して居間のテーブルまで運ぶ。
「うっわー、これ新しくできたとこのでしょ? やったぁ」
 箱を見るなり美也子は歓喜の声を上げる。
「有名なの、このケーキ屋さん?」と尋ねたひとみちゃんに、美也子は首が捥《も》げんばかりの勢いで頷いた。
「パティシエがコルドンブルー出身らしいよ、フランスの。ほら、有名な製菓学校。ついこの前、うちの文化欄で特集組んだんだー」
 リボンをほどいて箱を開けると、今度は二人そろってため息のような声を漏らした。
「おおっ、美しい……」
「おいしそう……」
 ケーキを前にした女子のテンションの高さは、年齢問わずらしい。美也子はともかく、ひとみちゃんも目をキラキラさせているから、当然悪い気はしない。喜んでもらえたならよかった、と思いながら「どれにする?」と言おうとしたところで、ひとみちゃんが不思議そうに尋ねてきた。
「ねえ、どうしてちゃんと3つあるの?」
「え?」
 美也子はいぶかし気に首を捻った。
「だって、ひとみちゃん、お兄ちゃんと二人で買いに行ったんでしょ?」
「ううん。聡史くん、川辺に来たときから、この箱持ってたよね?」
「川辺?」
 美也子がなぜか目を細めてこっちを見てくるから、ひとまず話題をそらすことにした。川辺の話はまずいだろう、と。
「うっかり帰りのバス逃して、歩いたんだよ、大学から。それで、たまたまこの店の前を通りかかったからさ。美也子、ずいぶん騒いでたじゃないか、美味しいケーキ屋ができた、って」
「すいませんね、いつも大騒ぎして」
「慣れてるから別にいいよ」
「なんかムカつく、その言い草」
「嫌なら別に食べなくてもいいよ」
「食べないなんて言ってないし!」
 いつも通りの流れになってほっとしていたのに、ひとみちゃんはまだ首をかしげている。
「二人の分だけじゃなくて……わたしの分も買っておいてくれたの?」
「ええと……その」
 大きな目で見つめられて、しどろもどろになってしまう。というか、あの時、会計する間際になってなぜもう一つ追加してしまったのか、自分でもよくわからなかったのだった。
「聡史くん、わたしがあの川辺にいるって、知ってたの?」
「いや、知らなかったよ、本当に。これ買ってから、ちょっと散歩がてら遠回りしてみたら、たまたまあの川辺を通りかかって……」
「わたしに会う前なのに、わたしの分のケーキを買ってくれたの? どうして?」
 恐ろしく可愛らしい顔で、これでもかというほど容赦のない追及をしてくる。そういえば、小さいころから、かわいいだけでなく結構鋭いところもあった。懐かしくもあり、今は少しだけ恨めしくもある。
「あのさ、全然話が見えないんだけど?」
 美也子がイライラしたように割って入ってくる。
「川辺って、よく昔ピクニックしたあそこのこと?」
「うん。美也子ちゃんとバドミントンしたり、お花摘んだりしたところだよ」
「懐かしいねー!」
 ぱっと顔を綻ばせたかと思うと、次の瞬間、美也子は僕を睨んできた。
「っていうか、せっかくのピクニックで、本ばっか読んでた無粋な人が約一名いたけどねー」
「わざわざ遡ってまで文句言うことないだろ」
「聡史くんが本読んでるところ、見てるの好きだったよ、わたし」
 昔とほとんど変わらない様子でにっこり笑うひとみちゃんに、美也子は小さくため息を吐いた。
「そういえば、あそこでよく寝ちゃってたよね、ひとみちゃん。で、目が覚めるとお兄ちゃんが横にいる、っていう……罰ゲームだ」
「罰じゃなくて、ご褒美だったよ。いつも嬉しかったの」
 さも幸せそうにふわっと微笑むひとみちゃんは、文句のつけようがないくらい可愛い。ただし、美也子の前でこれ以上は勘弁してほしかった。冷や汗が出そうな僕に、その可愛い笑顔でさらにこうも言ってくる。
「だから、さっきもあの川辺でね、ずいぶん久しぶりだったけど、すごく嬉しかった。目が覚めて、聡史くんが横にいて」
 川辺の話はまずいんだ、ひとみちゃん。もうその辺でやめてほしい、と祈るように視線を向けた僕などお構いなしに、可愛い声の爆弾がさく裂した。
「それにね、本当に嬉しかったの。好きだよ、って言ってくれて」
「ちょっと、お兄ちゃん」
 すごい形相で睨まれていた。呆れたような、うんざりしたような——つまり、美也子のよく言う、いわゆる「ドン引き」というやつだ。
「外で一体なにやらかしてんのよ? 12も年下の子に」
「変な想像するんじゃない。言っとくけど、何もしてない」
 僕が慌てて言うと、ひとみちゃんは相変わらずの笑顔を今度は美也子に向けた。
「あのね、聡史くん、ぎゅってしてくれただけだもん。それだけだよ。でも、すごく幸せだったの」
 とどめの一言で、僕は頭を抱えて下を向くしかなかった。美也子に再び睨まれる前に。
 天使はどこまでも無垢だ。だからこそ、ある意味罪深い。
 けれど、始末の悪い事に、腹を立てるわけにもいかない。というか、そんな気には到底なれない。惚れた弱みというやつだ。
 ふと、僕の手に何かが——ひとみちゃんの手が触れた。思わず顔を上げてしまう。
「わたしも大好きだよ、聡史くん」
 にっこり微笑んだひとみちゃんは相変わらずあまりに綺麗で、僕はぼんやり見とれてしまった。はたから見れば相当間抜けな顔だっただろう。
 美也子のわざとらしい咳払いが聞こえてくるまで、そんなふうにして僕はひとみちゃんに見とれていた。

 最後に追加したフルーツタルトはひとみちゃんに、美也子には洋酒のいい香りがするチョコレートケーキを、僕は甘さ控えめのチーズケーキ。それぞれ皿にのせて、紅茶と共に3人で仲良く食べた。
 結局、あの川辺でプロポーズしたことまで美也子にばれてしまい、驚かれるやら呆れられるやら心配されるやら、面倒くさいことになってしまった。
 当然、美也子の「心配」は「本当にお兄ちゃんでいいの?」というひとみちゃんに対するものだった。
「あのね、聡史くんがいいの。だって、小さいころからずっと好きだったから」
 川辺のベンチで聞いたのと同じ言葉が、美也子の前で繰り返される。これこそ罰ゲームではないか、とこっそり思いながらも、この際だから美也子を味方につけてしまおう、と半ば開き直ることにした。
 しばし昔の調子に戻って楽しく過ごして、9時半前にひとみちゃんを今夜泊まる教会まで送り届けることにした。
 家を出る前、さっきの西洋史入門の新書を貸してほしい、とひとみちゃんに頼まれたから、もちろん喜んで貸してあげた。興味を持ってくれるのは単純に嬉しい。「寝る前に読むね」と嬉しそうにバッグにしまう姿は、やっぱりとても可愛かった。
 教会まで美也子にも一緒に来てもらって、現在管理人をしている神父と会ってもらった。あらかじめ頼んでおいたとおり、勤務先の名刺を神父に渡してもらった。
 明日、午前中に迎えに来る約束をして、僕は美也子と教会を出た。ひとみちゃんは笑顔で僕たちを見送ってくれた。
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