My eyes adored you

3.ひとみ



 横浜の教会で、わたしは12の時に洗礼を受けた。ラクロア先生に何か言われたわけではなく、自分でそうしたいと願い出た。
 ルドヴィカ、と洗礼名をつけてもらって、ベールがほしい、とすぐにラクロア先生にお願いした。志願者の証である白いレースのベールを被ってミサに出るわたしを、ラクロア先生は相変わらず「ひとみさん』と呼んだ。
 小学校を卒業して、そのまま横浜の中学に通った。真面目に勉強はしたけれど、特に何か打ち込みたいものがあるわけではなかった。部活にも入らず、友達も作らなかった。学校が終わるとまっすぐ教会に戻って、ラクロア先生を手伝った。
 親切にもピアノを教えてくれる信徒のひとがいて、こちらでも続けることができたのは幸いだった。小さいけれどちゃんとしたアップライトが教会にはあって、帰宅後は毎日弾くことができた。毎週日曜の礼拝では、オルガンを弾いた。オルガンに合わせて歌われる讃美歌に包まれて、ベールの下でやすらかで真っ白になっていく自分を思い描いた。
 聖書を読んで勉強しながら、毎日神様に想いを馳せた。そして神様のもとにいる、お父さんとお母さんにも。

『ひとみへ。恨んではいけない。悲しんではいけない。お父さんも、お母さんも、何も怖れてはいないから。私たちは、一足先に、神様のもとへ行く。ただそれだけだよ。あとのことは、ラクロア先生、よろしくお願いします。ひとみを、どうかよろしくお願いします』
 あちこち焼け焦げてくしゃくしゃになった手帳に書かれた、乱れた文字。確かにお父さんの文字だった。
 恨んでも、悲しんでもいけないなら、一体どうすればいいのだろう。
 わけもわからず、泣き続けた。美也子ちゃんの腕の中で泣いて、泣いて、泣き疲れると眠った。美也子ちゃんは優しかった。その優しさが嬉しい反面、いずれは離れなくてはならない現実が苦しかった。
 聡史くんがいないことが、さらに苦しかった。苦しくて息ができなくなりそうだった。
 聡史くん、聡史くん、聡史くん。
 何度も泣いているうちに、両親が亡くなって悲しいのか、それとも聡史くんがいないのが悲しいのか、自分でもわからなくなっていた。
 いま一番いてほしいひとがいない。それだけで心が空っぽになっていく気がした。そして、とうとう涙が枯れてしまうと、本当にわたしはからっぽになっていた。
 言葉がふっつり消えてしまっていた。見えているはずなのに、何も見えなくなっていた。聞こえているはずなのに、何も聞こえなくなっていた。ただぼんやりと、わたしはそこにいるだけだった。ただの抜け殻だった。
 ひどく心配そうな美也子ちゃんと別れて、迎えにきてくれたラクロア先生とともに久しぶりに隣の自分の家に戻った。誰もいなくなった家は、どこもかしこもうっすら埃をかぶっていた。綺麗好きのお母さんが隅々まで掃除していつもぴかぴかだった居間は、もうどこにもなかった。
 これからのことだけれどね、とソファーに座ったラクロア先生は優しく言った。
『お父さんとお母さんの代わりになれるとは思っていないけれど、せめてあなたが大人になるまでは、あなたを見守るつもりだよ。もちろん、神様はどこにいても見守っていてくださるけれどね』
 お父さんもお母さんも、ラクロア先生とはずっと親しくしていて、もちろんわたしも、幼いころからお世話になっていた。ずっと近所の教会で神父をしていたラクロア先生は、少し前に長野を離れて横浜に移り住んでいた。
 そうして、わたしは横浜で暮らすことになった。何もかも、あっという間だった。聡史くんに会えないまま、ラクロア先生に連れられて長野を離れた。何も見えず、何も聞こえず、抜け殻のままで。

 お父さんとお母さんに会いたい。わたしも神様のところへ行ってしまいたい。漠然とそう思ったりもした。ラクロア先生はそんなわたしを見透かしたように、ことあるごとに繰り返し言った。神様はいつも見守ってくださっている。だから、神様の傍にいるご両親も、ひとみさんを見守っている、と。
 見守られている。ほんとうに? ならば、なぜこんなにも苦しいのだろう。なぜやすらかになれないのだろう。
 ラクロア先生にはとても訊けなかった。だからひたすら祈った。何も考えずに、ただただ、祈った。
 神様、どうか、傍においてください、と。レースのベールを被るわたしを、傍においてください、と。
 高校には行かず、修道院に入って修行をしたい。そう伝えると、ラクロア先生は寂しそうな顔をした。強く反対はしなかったものの、『もう少し考えてみてからではどうだろう?』と何度も何度も言った。
『高校を卒業してからでも遅くはないよ。正直、ピアノを続けないのは、もったいないと思うね』
 そう言って、教会の近くのとある音楽高校への進学を勧めてくれたこともあった。ラクロア先生が週に何度か音楽理論を教えに行っている高校だ。でも、もう学校に行くつもりはなかった。一刻も早くこの世界から逃げ出したかった。
 そうしてわたしは、函館の女子修道院へ修練女として入ることになった。正式な修道女になるための、見習いだ。
 中学の卒業式が終わってすぐに、制服のまま電車に乗った。席に着いてかばんを置くと、なぜかほっとした。これからはもう、よけいなことを考えなくてすむ。ただひたすら祈って、働いて、聖書を読む。
 神様の花嫁になる。そうすればやすらかになれる。真っ白になれる。
 一番好きなひとと二度と会えないわたしには、もうそうするしかなかった。 
 不純だと言われれば、そのとおりかもしれない。でも、両親のもとへ行くことも許されないのなら、せめてこうするしかない。この世界から逃げ出すには、こうするしかない。
 聡史くん。
 これが最後と思って、わたしは一番好きなひとの名前をつぶやいた。
 電車に揺られながら目を閉じ、そのまままどろみに身を委ねたのだった。

 両親を事故で亡くしたわたしを、先輩姉妹たちは温かく迎えてくれた。みな親か祖母のような歳の姉妹たちで、優しくそして時に厳しくわたしを導いてくれた。
 祈り、働け。ここでは、ただひたすらそれを従順に行う。聖書の勉強や、祈り、黙想、そして労働。農作業も、バター飴やマダレナをはじめとするお菓子作りも、刺繍や編み物などの手仕事も、すべて日々の糧を得るための勤めだった。
 まだ暗いうちから始まり、日が落ちてそれほど間もないうちに最後の勤めが終わる。自由な時間のほとんどない毎日は、本当にやすらかだった。何も考えなくてすむ日々が、うっとりするほど幸せに思えた。教会で被っていたレースのベールから、白い布のベールに。そして普段着から、少し丈の短いトゥニカへ。全身を包む純白の衣服と同じように、心のすみずみまで真っ白になっていくことを夢見て、わたしは毎日を修練にささげた。
 一日の終わりに神の祝福を受ける儀式がある。灌水(かんすい)と呼ばれるそれは、就寝前の祈りを終えた後、院長から聖水を受ける儀式だ。一人ひとり、列に並んで順番に聖水を受ける。修練女であるわたしは、先輩姉妹たちの後ろに並ぶ。つまり、最後にひとりで聖水を受ける。この時間は、とても緊張する。
 ここに来て初めて対面したときから、修道院長のシスター・セシリアが苦手だった。見透かされている、とすぐにわかった。
『……召命なき者は、神様の花嫁にはなれませんよ』
 穏やかだけれど、きっぱりとセシリア院長はわたしに言った。
『ルドヴィカ。あなたはあまりに若すぎる。やはり、あなたには、まだ……』
 わたしは懸命に修練に励んだ。
 聖書を繰り返し読み、祈り、黙想した。日々の労働に全身全霊で打ち込んだ。召命がない、という言葉を忘れようと、寝る間も惜しんで祈った。神様、どうかわたしを傍においてください、と。わたしを呼んでください、と。
 祈っているときだけは、やすらかで真っ白になれそうな気がした。でも、それでも、毎晩の灌水の儀式で聖水を受けるとき、セシリア院長の前では後ろめたくなる。
 そのうち、院長は何も言わなくなった。それでも、時折わたしをじっと見た。
 あなたはあまりに若すぎる。やはり、あなたには、まだ……
 セシリア院長の目は、そう言っていた。
 それがわかってもなお、わたしは希こいねがった。神様の花嫁になることを。やすらかで、真っ白なこの場所での暮らしを。


『……に到着致します。お降りの方は、お忘れ物のないようお仕度願います』
 アナウンスで一気に目が覚めた。とっさに窓の外を見やると、見覚えのある風景が広がっている。同じ姿勢でずっと眠っていたようで、やっぱり左耳が痛い。小さく伸びをしてから、かばんを持って席を立つ。
 駅に降りると、不思議と懐かしいにおいがした。函館とも横浜とも違う。特に空気が澄んでいるわけでもなく、人が多すぎてごみごみしているわけでもない。小さなころからずっと、当たり前のように包まれていたにおい。いろんなことを思い出してしまうにおいでもある。
 駅構内はかなり様変わりしてるのに、懐かしいにおいだけは変わらない。そのおかげか、ほぼ7年ぶりに来たというのにずいぶん落ち着いていられた。
 バスが来るまで、待合室で座って待つことにする。また水筒のお茶を飲んだ。まだ十分温かくて、ほっとした。マダレナを食べようかと思って取り出しかけて、ふと売店が目に入って誘われるように席を立った。外で買い物するのも本当に久しぶりで、覗いてみたくなったのだった。
 すぐにお菓子のコーナーにある懐かしい箱が目に入って、思わず手に取った。黒地にお花模様のついた、手のひらくらいの大きさの薄い箱。つるっとした四角い飴がたくさん入っている。小さいころ好きだったチェルシーだった。
 バタースカッチ、コーヒー、そしてヨーグルト。少し迷って、美也子ちゃんとよく食べたヨーグルト味を選んで一つ買った。
 ベンチに座って、さっそく開けて一粒取り出した。包み紙もお花模様でやっぱりかわいい。丁寧にはがして口に入れると、昔と同じ甘酸っぱくて幸せな味が広がった。口の中で転がしながら、包み紙を丁寧に折ってポケットに入れる。
 ターミナルにバスが滑り込んでくるのが見えて、わたしはベンチから立ち上がった。
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