My eyes adored you

4.聡史

 4講目が終わって研究室に戻ると、ぐったり疲れていた。そもそも、中庭からどうやってこちらの校舎まで戻ってきたのか、まったく記憶にない。ゼミで何を話したのかも、実はほとんど覚えていないありさまだった。ゼミで助かった。しかも、優秀な学生ぞろいだから、僕は半ば聞き役で十分というわけだ。
「大丈夫ですか? なんか顔色がすごく悪いですよ」
 研究室に残っていたさっきの院生に心配そうにされて、居心地悪かった。なるべく平静を装っておく。
「いや、大丈夫。疲れているだけだから。君こそ、論文少しは進んだ?」
「あー……まあ」
 資料の砦は、昼と同じで相変わらず。けれど、今はそれを皮肉る元気もこちらにはない。
「乗らないなら、すっぱり諦めて帰って寝るのもありかもしれないよ」
「え」
 奇妙なものでも見るような視線を向けられて、思わず苦笑してしまう。
「ええと……どうかした?」
「……芹沢先生の口から出た言葉とは思えなくて」
「僕だって、そういう気分になることはある」
 本当はレポートチェックにとりかかるつもりでいたけれど、さすがに何もする気になれない。片付けもそこそこに、鞄を抱えた。
 まだ腑に落ちない様子の彼に、研究室の鍵を渡した。
「ここの施錠、お願いしていいかな? 先に失礼するよ」
 帰れるかどうかわからない、と美也子に言った手前、まっすぐ帰宅するのもなんだか気が引ける。5講目はないし、幸い明日の授業は午後からだ。先週の続きだから準備もとっくに済んでいる。
 本の続きを読むつもりで喫茶店に入ったものの、さっぱり集中できなかった。こんなことはまれにもほどがある。昔から本を読み始めれば、たいていのことは忘れてしまえたはずなのに。
 諦めて店を出てバス停に向かったものの、あいにく次のバスまで30分以上もある。どのみち早く帰ったところで仕事も読書も今日はできそうになかった。
 たまには歩くか。そう決めて、バスの路線に沿って歩き出した。15分ほどのところに母校があるけれど、向かったのは卒業した高校ではなく、よく帰りに寄り道した公園だった。
 5時を回ったいま時分には、子どもの姿はなかった。ここに来たのはずいぶん久しぶりなのに、遊具の配置を含めてほとんど何も変わっていなかった。砂場がやたらと広くて、滑り台やぶらんこがなんだか申し訳なさげに縮こまっているような不思議な児童公園だ。銀杏の木が植わっていて、秋になると目に鮮やかになる。
 ぶらんこの傍のベンチに腰を下ろし、鞄から本を取り出した。もちろん、今日は集中できそうにないとわかっている。でも、ここに来ると必ず本を読んでいた高校時代を僕は思い出していた。

 高3になった頃から、僕は学校が終わるとほぼ毎日ここへ来ていた。言ってみれば、受験勉強の合間の息抜きだ。
 図書館で少し勉強してから来るとだいたい5時過ぎで、遊んでいる子どもはいない。座って本を読むにはとてもいい場所だった。特に今のような初夏は過ごしやすくて、しかも日が長いから読書がはかどる。それで、ついつい読み耽ってしまうのだった。
 気づくと、ひとみちゃんがぶらんこに乗っている。そういうことがしょっちゅうだった。待ち合わせているわけでもないのに、まるで僕を迎えに来たみたいにそこにいる。どうしたの、と尋ねるのが憚はばかられるくらい、あたりまえみたいな顔をして。
『びっくりした。いつ来たの?』
『わすれちゃった』
『そんなに前からいたの? 声、かけてくれればいいのに』
 申し訳なくなる僕に、ひとみちゃんはにっこり笑ってこう言ったのだった。
『じゃまになるの、いやだから。さとしくん、むちゅうになってるし』
『ごめん』
『どうしてあやまるの?』
『退屈だったよね? せっかく来たのに』
 ぶらんこに座ったまま、ひとみちゃんは首を振っていた。
『たいくつじゃないよ。みてるのすきだから、いいの』
 僕を? どうして?
 5歳の子ども相手にそんな質問をしても始まらない。まあ、気まぐれなんだろうな、と思ってそれ以上は触れなかった。
 ひとみちゃんはうちの隣の三倉家のひとり娘で、きょうだいがいないせいか年の離れた僕や美也子にとても懐いていた。両親ともに地元の合唱団に所属する声楽家で、主に教会関連の仕事で忙しくしていた。ひとみちゃんも3歳からピアノを習っていて、幼いながらも、すでに腕前はなかなかのものだった。
『さっきまでピアノれんしゅうしてたの』
『ピアノは好き?』
『うん。たのしい。れんしゅうすると、うまくなるから』
『いいね。好きなことなら、ずっと続けられるよ』
『だから、さとしくんはずっとよんでいられるの? ほんをよむのが、すきだから?』
『そうだね』
 一言で言うなら、知識欲だ。もちろん、ちゃんとかみ砕いて説明する。
『知らないことを、僕は知りたい。世の中にはまだまだたくさん知らないことがある。本はそれを教えてくれる。この先ずっと一生僕は本を読み続けていられる。それって、幸せなことなんだよ、僕にはね』
 ぶらんこのチェーンを両手でつかんだまま、ひとみちゃんはじっと僕を見ていた。ああ、これでも難しかったかな、やっぱり、と思っていると、次の瞬間ふわりと笑顔になった。
 小さな顔が夕日を浴びて、茜色に染まる。宗教画に描かれた天使を思い出させる無垢な笑み。心の奥が震えるような素敵な微笑みだった。
 ちゃんと伝わったのかどうか、なんてあれこれ考えるのが無粋に思えてしまった。
 こんなふうに笑いかけられたら、まあいいや、と思えてしまった。
『さて、そろそろ帰ろうか。お父さんとお母さんが心配するよ』
『うん』
 ひとみちゃんは素直にこっくりうなずいて、ぶらんこから下りる。いやだ、まだ帰りたくない、と駄々をこねたことは一度もなかった。

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