My eyes adored you
7.ひとみ
夕飯のあと、すぐにピアノの蓋を開いた。お風呂に入ったら、とお母さんに言われたけれど、すぐ練習したかった。窓を少し開けて塀の向こうを見ると、二階の左側の部屋に明かりが点いている。なんだかほっとして、ピアノに向かう。
少し前から練習しているメヌエットは、それほど難しくないけれどとてもきれいな曲だ。できたらここのトリルを入れてごらん、と先生に言われたところを楽譜で確認した。最初、難しくて省いていたのだった。
何度か指を動かしていると、慣れてきた。トリルが入ると、ちょっとかっこいい感じになる。
うん、できそうだ、と思って楽譜の先頭に目を移した。そして、はじめから通して弾き始める前にちらりと窓を外を見ると、二階の左側の部屋の窓も少し開いていた。
聡史くん、聞いてくれるかな。でも、勉強の邪魔にならないといいんだけど。
『ピアノを聴きながら勉強するよ。今ひとみちゃんが練習してる曲、好きだから』
公園で聞いた言葉を思い出した。そして、聡史くんのことを考えながらメヌエットを弾き始めた。
すっと膝を折ってわたしの前に屈んでくれたとき、聡史くんの顔が茜色に染まっていた。
眼鏡の奥で、すうっと目が細くなった。
『好きだよ』
バッハが、じゃなくて、ただその言葉をもう一度言ってほしかった。
なぜなら、わたしはあのとき恋に落ちたから。
「ん……」
ピアノを弾いていたはずなのに、なぜわたしは横になっているんだろう。こんな格好でピアノを弾けるはずがないのに。それに、肩が少し痛い。身体の下が、なぜか硬い。ここはどこだろう。
ゆっくり目を開くと、ひどく懐かしい気分になった。ひとりではないことに驚いて、すぐにひどく安心した。こんなふうに目が覚めて、傍に誰かがいるのはずいぶん久しぶりだった。しかも、そのひとの膝の上には本がある。分厚くて、難しそうな本が。
気づくと、まるで当たり前みたいに、何の疑問も持たずにわたしは呼びかけていた。
「聡史くん?」
「おはよう、ひとみちゃん」
同じように、まるで当たり前みたいに懐かしい声が降ってきた。
膝の上の本を閉じて微笑んだそのひとは、間違いなく聡史くんだった。少し髪型が変わっているし、顔もずいぶん大人っぽくなっているけれど、でも、聡史くんだった。
なんて幸せな目覚めなんだろう。いや、もしかしたら、まだ夢なのかもしれない。だとしたら、すごく幸せな夢だ。ずっと覚めないでほしいくらいに。
草の香をのせて、心地いい風が吹いている。辺りが暗いのを除けば、あの頃と何も変わらない気がする。
ピクニックに来てもずっと本を読んでいた聡史くんと、その隣でうたたねをするわたし。
隣でわたしを見下ろす聡史くんに、訊いてみる。
「風が気持ちいいから、読書、はかどるんだよね?」
「いや、今日は無理かもしれない」
聡史くんは静かに言った。
「どうして?」
不思議に思って問いかけると、そっと手が伸びてきてわたしの髪に触れた。
「……ひとみちゃんが、あまりに綺麗だから」
とても遠慮がちに、おずおずと聡史くんの手が髪を梳いてくれる。すごく素敵なしぐさで、なんだかうっとりした。
「夢なのかと思った。でも、夢じゃないみたいだ。こうして触れても消えない」
安心した、と聡史くんは何度も何度もわたしの髪をなでてくれる。
聡史くんの声なのに、聡史くんじゃないみたいなことを言う。しかも、その顔はずいぶん真剣だ。
昔から、聡史くんはいつだって真面目だった。頭がよくて、いつも難しそうな本を読んでいて、たくさん勉強をしていた。
横顔を見ているのが好きだった。言葉を選びながら丁寧に話してくれるのを見てるのが、聞いているのが好きだった。
でも、こんなに傍でじっと見つめられたのは初めてだ。わたしを見てくれている。それが嬉しい。そして、なんだかドキドキする。
「わたしも夢かと思った。でも、夢じゃないんだね」
「うん」
「夢じゃなくてよかった。目が覚めて、聡史くんがいてくれて嬉しかった」
「目が覚めてひとりだと、寂しいよね。誰かが傍にいると……」
わたしは起き上がった。髪を梳いてくれている聡史くんの手に、そっと自分の手を重ねた。
「誰か、じゃなくて、聡史くんがいいの」
「ひとみちゃん……」
「聡史くんがいてくれるから、安心するんだよ」
昔から、ずっとそうだった。ずっと、ずっと。
今ようやく言葉にできた。