My eyes adored you
6.聡史
公園を出てから、しばらくあてもなく歩いた。いつもなら素通りする繁華街で、ふとケーキ屋が目に入った。そういえば、美也子がすごくおいしいケーキ屋ができたと騒いでいたのを思い出して、ふらりと中に入った。
色とりどりのケーキが並ぶケースから、適当に二つ選んで注文した。待っている間に、見るともなしに喫茶コーナーに視線を向けると、高校生らしき集団が談笑していた。どの子も楽し気で、微笑ましい光景だった。
それなのに、なぜかひどく落ち着かない気分になっていた。ただの何気ないその光景が、僕の心を激しく揺さぶった。
あの中にあの子が——ひとみちゃんが混ざっていてもおかしくないな、となぜか思ってしまっていた。あれから7年になる。ちょうどそれくらいの年齢だ。
「お待たせしました。お客様、お会計をよろしいでしょうか」
声をかけてきた店員に、僕は気づくとこう言っていた。
「すみません、もうひとつ追加していいですか?」
なぜそんなことをしたのか、自分でもわけがわからなかった。
果物がたくさん載ったカラフルなタルトをひとつ追加してもらって、ケーキの箱を手に僕は外に出た。
賑やかな通りを抜けて家へ向かう途中、ふと川辺へ寄ってみようと思いついた。草の匂いが心地よいあの場所がなんだか懐かしく思えた。今日は昔のことを思い出してばかりだ。
昔を懐かしむのは今に満足していないからだ、と言う人もいるけれど、僕はそうは思わない。現に、仕事に関して言うなら、僕は今の自分にまずまず満足している。大満足、とまではいかなくても、好きな研究をこうして続けていられるのは幸せだ。
けれど、どんなに今が幸せでも、あの子と過ごした日々は僕の中でいつまでも色褪せない。ただの思い出として美しいだけでなく、あんなふうに突然失われてもう二度と手に入らないからこそ、何かのきっかけがあれば心を揺さぶられる。
今日はたまたま園田さんの一言が引き金だったけれど、実際、ふとしたことで僕はあの子を思い出す。それこそ、本を読み耽って時間を忘れてしまった時などは、我に返ると無意識に辺りを見回すことがある。どこかにあの子がいるのではないか、と。
もちろん、いるはずもないのに。
川辺はすっかり日が落ちて静まり返っていた。この辺りは外灯もまばらだ。そんな優しい夕闇の中で、川のせせらぎが耳に心地いい。
以前、ピクニックで何度か来たことがある。美也子とひとみちゃんがボール遊びやバドミントンに興じる横で、僕はだいたい本を読んでいた。美也子が呆れ、ひとみちゃんは時々なぜか嬉しそうに僕の方を見ていた。そうだ、よく、あのベンチで——
見れば、古い木のベンチに何かが、誰かが横たわっている。
横たわっているというか、眠っているようだ。規則正しく、肩が上下している。暗がりでよく見えないが、ほっそりしたシルエットだ。
まさか、こんな時間にこんなところで居眠りする人がいるわけがない。いぶかしく思って近づいて、次の瞬間、僕は呼吸が止まりそうになった。
そこには、水色のワンピースを着た女の子がいた。といっても、小さな女の子ではない。高校生くらいの、おそろしく綺麗な女の子だった。
短めにカットしてあるふわふわしたくせ毛、伏せられた長いまつげ、ふっくらしたほお。そして、暗がりでもはっきりわかる、白い肌。綺麗な形をした唇は、夜目でなければきっと鮮やかな椿の色をしているだろう。そんなふうに思わせるほど美しかった。
まるで、両足を鋲で打ちつけられたようだ。それどころか、身動き一つできない。瞬きもできない。いや、瞬きする間すら惜しい。いま目にしている美しい姿を一瞬たりとも視界から外したくない。このままずっと見ていたい。
そして、誇張でもなんでもなく、呼吸の仕方がわからなくなりそうだった。
そんなふうに目を奪われるほど綺麗な女の子が、古いベンチで眠っている。
僕には一目でわかった。ひとみちゃんだ、と。
小さなバッグを腕に抱えている。大事そうに柄をつかむ手さえも綺麗だ。小さい手、そしてほっそりした指。この指が鍵盤を滑って紡ぎだすメロディーが懐かしい。
天使みたいだ、とむかし美也子が言っていた。悔しいけれど、そのとおりだった。昔は、宗教画に描かれた子供の天使のようだと微笑ましく思っていたけれど、今はとてもそんなふうに穏やかに見てはいられない。心がざわざわして落ち着かなくなる。
月並みな表現だけれど、神々こうごうしいとはこういうことだ、と思えた。何もかもが精巧な作りもののように整って、あまりの美しさに見ているだけで胸が苦しくなる。夢のように綺麗で、次の瞬間消えてなくなりそうなほどだ。そして、それが怖くてたまらない自分がいる。
陳腐な物語の表現だ、と我ながら情けなくなる。けれど、これ以外に今の自分を表す言葉はない。
僕は、一目で恋に落ちた。
意志も理性も、分別も良識も、なんの役にも立たない。
押し流され、あっという間に堕ちていく。そこは奈落か、それとも果て無き沼か。
いや、どちらでもいい。この際、もうどうだっていい。奈落でも、底なし沼でも。
僕は、一目で恋に落ちた。ただ、それだけだった。
起こさないようにそっと傍らに腰を下ろしかけて、開いたスペースに何か置いてあるのに気付く。二羽の折り鶴だった。何かの包み紙で折ったらしいそれは、花模様をしている。拾い上げて、ひとみちゃんのバッグに入れておく。
腰を下ろした僕の目の前を、小さな光が漂っていた。見れば、あたりにもいくつもいくつもある。蛍か、と気づいてなんだか不思議に穏やかな気分になった。
美しい寝顔も、時折小さな光で照らされる。目覚めてほしい一方で、このままでずっと傍にいたいとも思ってしまう。
やはり夢なのかもしれない。本気でそんなふうに思えてしまう、現実味のなさに困惑する自分がいる。
ケーキの箱を傍らに置き、ひとまず僕は鞄から本を取り出した。当然ながら、この暗がりでは読めるわけがない。それでも、僕は本を開く。昔、この子の傍でいつもそうしていたように。
安心しておやすみ。僕はここにいるから。傍を離れないから。
目が覚めたとき、君が寂しくないように。