前世で私を棄てた婚約者様に、どうやら執着されているみたいです

突然の遭遇

 青い顔のまま王立学院から帰宅したロゼリアの耳に、応接間から漏れ聞こえてくる声が届いた。どうやら、父が誰かと話しているようだ。

「……もう、これ以上は難しいですね」
「頼みます。どうかもう少しだけ……」

 思わず聞き耳を立てていたロゼリアの前で、応接間のドアが開く。ロゼリアよりもさらに青ざめた顔をしていた彼女の父が、娘の姿に気付いてはっと目を瞠った。

「ロゼリア?」
「お父様……」

 ロゼリアをちらりと横目で見た客人が、そのまま足早に玄関へと向かっていく。客人を見送ってから肩を落として戻ってきた父に、ロゼリアは尋ねた。

「どうなさったのです、お父様? クラン伯爵家の状況は、それほどまでに悪いのですか?」

 最近父が金策に走っているようだということは、ロゼリアも知っていた。父は無理矢理に口元に笑みを浮かべると、彼女の頭を優しく撫でた。

「お前は何も心配することはないよ、ロゼリア。それより、こんな時間に王立学院から帰ってくるとは珍しいな。どうしたんだ?」
「少し気分が悪くなって、早退してきたのです。でも、たいしたことはありませんから」
「確かに顔色が悪いな。ゆっくり身体を休めるんだよ」

 労わるようにそう言う父の姿を、ロゼリアは不安げに見つめた。

(本当にこの家は大丈夫なのかしら。お父様のほうこそ、血の気のない顔をしていらっしゃるのに……)

 ロゼリアの母は、彼女を産んで間もなく早逝してしまった。そんなロゼリアのことを愛情たっぷりに育ててくれた温厚な父は、彼女にとって世界で一番大好きで大切な存在だ。
 彼は正義感が強く、不実な取引を嫌う。弱い立場の領民たちから甘い汁を吸う貴族も多い中で、彼らの生活を重んじ、正当に利益を還元する父を、ロゼリアは尊敬していた。
 けれど、実直であるあまり、多少不器用なところが仇になったのか、このところますます家業の様子が芳しくないようだということに、彼女は嫌でも気付かざるを得なかった。

「お父様。私、王立学院を辞めて、お父様のお手伝いをした方がよいのでは……」
「何を言っているんだ。せっかく優秀なのだから、お前はこのまま勉学に励みなさい」

 書斎に戻る父の背中を、ロゼリアは表情を翳らせたまま見送った。
 厳しい現実を突きつけられて、その日に彼女の目に浮かんだ不思議な映像は、彼女の頭の中からいったん吹き飛んでいた。ただ、悪夢を見たような嫌な感覚だけが、ロゼリアの胸に残った。

***

 その翌朝、王立学院に登校し、馬車から下りたロゼリアの背後から声が掛けられた。

「ロゼリア嬢」
「……?」

 低くて耳触りのよい、けれど聞き覚えのない声に、戸惑いがちに振り返ったロゼリアの目が見開かれる。彼女の前に立っていたのは、イライアスその人だった。

「イライアス様……⁉︎」

 驚きに息を呑む彼女の前で、イライアスが嬉しそうに柔らかく笑う。

「俺の名前を知っていたんだね」
「ええ……はい」

 ロゼリアの喉が、緊張にこくりと動く。どうして彼が急に話し掛けて来たのか、彼女には解せずにいた。さらに一歩ロゼリアに近付いた彼は、長い睫毛に彩られた、深い海のような碧眼でじっと彼女を見つめた。

「少しだけ、君の時間をもらえないか? 君に聞きたいことがあるんだ」
 
 近くで見るイライアスは、驚くほどに美しかった。遠くから眺めるだけでも、その端整な顔立ちは十分に目立っていたけれど、間近で見ると、滲み出る自信や品の良い仕草も相まって、思わず見惚れてしまうようなオーラを放っている。

 でも、ロゼリアにはそんな彼が怖かった。身体が微かに震え、嫌な汗がじんわりと滲む。まるで、彼女の全身の細胞が彼を拒否しているようだった。

 じりと後退ったロゼリアは、俯いて彼の視線を躱すと、そのまま深く一礼した。喉の奥から掠れた声を絞り出す。

「申し訳ありません。急いでいますので、失礼いたします」

 踵を返したロゼリアは、校舎に向かって駆け出した。特別急いでいる訳ではなかったけれど、とにかく、イライアスの前から逃げ出したかったのだ。

 必死に全力で走るロゼリアの耳には、イライアスが彼女を呼び止める声は届いてはいなかった。
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