前世で私を棄てた婚約者様に、どうやら執着されているみたいです

前世の婚約者

 ロゼリアは教室に駆け込むと、息の上がったまま自席についた。額に滲む汗をハンカチで拭う。

(イライアス様は、私に何を聞こうとしていたのかしら)

 胸に浮かぶ疑問に、首を傾げる。そして、にべもなく彼の頼みを断って逃げ出してしまったことを、今更ながら後ろめたく思っていた。

(上級生の、しかも侯爵家のご子息に向かって、さっきの態度はさすがに失礼だったかもしれないわ……)

 ロゼリアが多少の申し訳なさを感じていると、教室の扉の陰からイライアスの姿が覗いた。

(……もしかして、私を追い掛けてきたの?)

 顔を引き攣らせたロゼリアの元に、彼はつかつかとやって来た。教室にいる女生徒たちの目が、美しい彼の姿に釘付けになっている。
 イライアスは身を屈めると、ロゼリアの耳元に囁きかけた。

「一限が始まるまでの間だけでいい。二人で話せないか?」

 一見すると、さもロゼリアと親密であるかのようなイライアスの姿に、女生徒たちがざわつく。かあっと頬に血が上るのを感じたロゼリアは、困惑しつつも急いでがたっと席を立った。周囲の女生徒たちからの視線が痛い。

「わかりました」

 イライアスがふっと笑みを零す。

「じゃあ、俺について来てくれ」

 ロゼリアは、渋々彼に従った。階段を上り、誰もいない校舎の屋上へと出ると、イライアスは彼女を振り返った。

「ここは、俺のお気に入りの場所なんだ」

 まだ眩しい朝陽の照らすその場所で、涼しい風が二人の頬を撫でていった。彼と一緒でなければ、確かに気持ちのよい場所かもしれないと思いつつ、ロゼリアは苦々しい気持ちで彼に尋ねた。

「前置きは結構です。恐縮ですが、ご用件だけ簡潔にお願いできませんか?」
「……君には、随分嫌われているようだね」

 警戒心を滲ませているロゼリアに、イライアスが苦笑する。きっと、普段は女生徒たちから熱い眼差しを向けられているだろう彼にとっては、自分のような令嬢は珍しいのだろうと思いつつ、彼女は硬い表情で続けた。

「嫌いも何も、お話しすることさえ今日が初めてですから」
「そうだったな」

 彼はじっとロゼリアを見つめた。

「君は、エセル王国のことを何か覚えてはいないか?」

 ロゼリアの顔が、すうっと青ざめる。
 昨日甦ってきた、前世の記憶らしきものを思い出しながらも、彼女はしらを切ることにした。それが気のせいではなく確かなものだという証拠など、どこにもない。

「ちょうど昨日の世界史の授業で、エセル王国のことを習ったところですが、それだけです」

 しばし思案気に口を噤んでから、イライアスは再び口を開いた。

「では、リュシリエールという名前に……リュシーという呼び名に聞き覚えは?」
「……!」

 ロゼリアは、足下の地面がぐらりと揺れたような気がした。前世の名前が、そして王太子からかつて呼ばれた愛称が、新たに記憶の底から甦ってくる。

(私の前世の名前は、リュシリエールだわ。彼にはいつもリュシーと呼ばれて……)

 前世の彼が、低くややハスキーな声で彼女の愛称を呼ぶ声が、ロゼリアの頭の中で遠く響く。
 無自覚のうちに、彼女は前世で愛した王太子の名前をぽつりと呟いていた。

「エルドレッド、様」

 彼女の言葉を聞いたイライアスの瞳が、みるみるうちに輝く。

「ああ、やっぱり君は……」

 感極まったようにロゼリアに向かって伸ばされたイライアスの手を、彼女はすぐに冷たく振り払った。

「私には関係ありません」

 彼の顔を、ロゼリアはきっと睨み付けた。

「もう、私には関わらないでください」

 それだけ言い捨てると、くるりとイライアスに背を向けて、彼女は小走りに教室へと戻った。

 その後も、ロゼリアは事あるごとにイライアスから話し掛けられたけれど、ジェマとクライドの陰に隠れるようにして、彼のことをできる限り避け続けたのだった。
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