成瀬課長はヒミツにしたい【改稿版】
「まりこちゃーん。はやくはやく」

 走ってマンションのエントランスを抜ける乃菜を、真理子はゼエゼエ言いながら必死に追いかける。
 今日の乃菜はいつになく上機嫌だ。
 園に迎えに行った時も、靴を履くのもそこそこに、真理子の所へ飛び出してきた。

「乃菜ちゃんは、柊馬さんが来なくて寂しくないの?」

 エレベーターの階数ボタンを押しながら、真理子は乃菜の顔をそっと見る。

「うーん。のなはね、とうたんのこと、だぁーいすきだけど、今はキョリをおくんだよ」

 乃菜は、えっへんと鼻を上に向けた。

「え? 距離!? どういう意味?」

 まるで恋の駆け引きのような乃菜の口ぶりに、真理子はぽかんと口を開ける。
 ポンという音が鳴り、エレベーターは部屋のあるフロアに到着した。

「だって、とうたんはライバルなんだもーん」

 乃菜は手を広げて飛行機のポーズをすると、フロアへ飛び出して行く。

「乃菜ちゃん! 危ないよ」

 ――ライバルって、何だろう?

 乃菜の背中に向かって声を出しながら、真理子は首を傾げた。

 部屋に入ると、早速夕飯の支度のためにキッチンに向かう。
 乃菜は洗面所に向かった後、そのまま自分の部屋に入ったようだ。

「すぐに準備しなくっちゃ」

 独り言を言いながらキッチンに入った真理子は、ラックに無造作に置かれた成瀬のカーキ色のエプロンに目が止まる。
 真理子はそのエプロンを取り上げると、そっと優しく指で撫でた。
 成瀬の佳菜への想いを知ってしまった今、ここで一緒に家政婦をするのは心が辛すぎる。

 ――きっとこれで良かったんだ。柊馬さんの側にいなければ、いつかきっとこの気持ちにも区切りがつく。

 真理子は自分に言い聞かせるように手に力を入れると、エプロンをラックに戻した。


「まりこちゃん!」

 すると突然、背中で大きな声が聞こえ、真理子は慌てて振り返る。
 着替えをすませた乃菜は、カウンターから身を乗り出して、笑顔で真理子を覗き込んでいた。

「乃菜ちゃん。今日のお夕飯は何か希望のものある?」

 真理子はわざと明るい声で、乃菜に声をかけた。

「のな、ハンバーグがいい! チーズがのってるの。あのね、パパもハンバーグ大すきなんだよ」

 乃菜は目をキラキラさせながら、嬉しそうにほほ笑んでいる。

「ハンバーグね。オッケー。じゃあ、社長の分も作っておこうね」
「うん!」

 乃菜は元気に返事をすると、スキップしながらリビングに向かった。
 真理子はその様子を目で追った後、そっと冷蔵庫を開ける。
 すると目に飛び込んできたのは、成瀬がしまっていた使いかけの食材や、作り置きのおかずだった。
 真理子は途端に、胸がキュッと苦しくなるのを感じながら、ガラス製の保存容器を一つ取り出す。
 中に入っているのは、トマトとツナのマリネだった。
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