歪んだ月が愛しくて1
◇
初めて日本に来た日は雨だったことを覚えている。
(雨が嫌いなわけじゃないけど…)
燦々と降り続く雨が煮え切らない自分の心情を表しているように思えた。
「……九澄、顔色が良くないけど気分でも悪いの?」
「いいえ、大丈夫ですよ。お母さんこそ長旅でお疲れなのではありませんか?」
「そうね、こんな長時間のフライトは何年ぶりかしら」
「迎えが来るまでソファーに座って休んでいて下さい」
「ありがとう。そうさせてもらうわ」
母は不慣れなはずの日本語を駆使して僕のことを気遣うが僕としては母の方が心配だった。
ドイツから日本までの長時間のフライトは病弱な母にとって苦痛なものだったはずだ。
本当なら今すぐにでもベッドで横になってもらいたいところだが、迎えの車が到着するまでもう少し時間が掛かるため空港内の貴賓室でその到着を今か今かと待っていた。
「ねぇ…、九澄はお父さんに会うの楽しみ?」
「……ええ、勿論」
母に悟られないようにいつも通りの笑顔で答える。
その返答に母は「うふふ、私もよ」と心から嬉しそうに微笑んだ。
母は昔から僕が笑うと嬉しそうに笑い返してくれた。
生まれつき身体が弱く普段からあまり外出することが出来ないため、僕はスクールのことや友人のことをよく母に話していた。
「九澄が笑っているとママも元気が出るわ」と子供ながらにその言葉を真に受けてそれ以来母の笑顔見たさに無駄に笑う子供になっていた。
だから僕はいつ何時も笑顔を絶やさない。
例えそれが自分の心を殺すことになっても、母の笑顔を守るためなら僕は何度だって自分の気持ちに蓋をすることが出来た。
「奥様、九澄様、迎えの車が参りました」
父の秘書だと言う中年の男に促されるまま僕と母が乗る車は父が待つ皇家に向かって走り出した。
◇
皇家の本邸はドイツの屋敷より遥かに重厚感のある佇まいだった。
何よりドイツの屋敷と違って重苦しい雰囲気を醸し出していた。
外観でこれほどのものを感じると言うことは室内も相当息苦しいことだろう。
だがそれも覚悟の上だ。顔も見たことのない人間にいきなり「日本に来い」と言われた時から容易に受け入れられないのは承知していたし、この家にとって自分達が異物だと言うことも十分理解していた。
だから今この状況も想定内のことだった。
「……お前が妾の子か」
その声に振り返ると、学生服を身に纏った青年が両腕を組みながら僕を睨み付けていた。
「初めまして、ノア・九澄・フォン・グーテンベ…「お前、何様のつもりだ?」
僕の言葉を遮る刺々しい声に気付かないふりをして「何様とは?」と惚けて見せる。
すると男は僕の飄々とした態度が気に入らなかったようで一層睨みを利かせて来た。
「ここはお前のような下賤な者が足を踏み入れていい場所じゃない」
「それは僕の母が外国人だからですか?」
「お前の母親が父の愛人だからだ!」
(ああ、やはりこの男が…)
皇浬。
父と前妻の間に生まれた皇家の嫡男で、僕の異母兄弟。
確か浬は僕より4つ上のはずだから現在高校3年生。寮に住んでいると聞いていたが、まさか向こうから僕に接触して来るとは…。それだけ向こうにとって僕の存在は無視出来ないと言うことか。
「どんな手を使って父に近付いたのか知らないが、お前の母親は所詮愛人で、お前はその愛人の子供だ!父が温情をかけて同じ籍に入れてやったからってお前達は“皇”じゃないんだからな!」
言いたいことだけ言って満足したのか、浬は僕に背を向けて立ち去った。
浬の気持ちは分からなくもない。
……いや、正確にはどうでもいい。
ただ父親が自分の知らないところで別の家庭を持っていて嬉しいはずがないと言うことだけは分かる。
それもこれも全てあの男のせいだと言うことも。