八王子先輩と私の秘密

第10話 八王子先輩と私と部長の脅迫

私――村崎薫子が、会社の先輩であり恋人である八王子秀一と同棲生活を始めてからもう一週間経つ。
 転居したため会社に連絡先の変更を届け出たわけだが、当然周囲の人間には八王子先輩と付き合っていることがバレてしまうわけで、「やっぱり二人付き合ってたんじゃん!」と経理部のみならず、会社中の女性たちは一時騒然としていた。今は落ち着いているが、あの時の女性たちの顔が忘れられない……怖いよぉ……。
 八王子先輩はそんな私の苦労も知らず、むしろ嬉しそうにしてるのがなんか腹立つ。
 今日も仕事を終えて二人でマンションの部屋の扉を開けると、不意に先輩が「ただいま」と言った。
「……?」
 私が訝しげな顔をすると、「ただいまって言われたらなんて言うの?」と、先輩が愉快そうな声音で返す。
「……おかえりなさい?」
「うん。薫子さんも言って」
「……ただいま帰りました?」
「おかえり」
 先輩は蜂蜜を煮込んだような甘い顔で微笑んでいるが、私としては何がしたいのか分からず困惑するばかりである。
「はぁ、なんかいいね、こういうの」
「何がですか」
「こうして、誰かと『ただいま』『おかえり』って言い合えるのがさ」
「はあ」
 なんと返したらいいのか分からないのでそう答えると、「薫子さんってホント……そういう素っ気ないところが可愛い」と玄関で抱きしめられた。
「変わった趣味をお持ちなんですね」
 まあ、匂いフェチって時点で十二分に変わった趣味嗜好ではあるのだが。
「薫子さん以外の女の人ってみんな俺に色目を使ってくるから、薫子さんみたいな人は貴重なんだ」
「自慢ですか?」
 どう考えても自分がモテてる自慢というか、自分がモテてる自覚ある人って本当に厄介だな。
「ほら、とりあえず靴脱いでください。いい加減部屋の中に入りたいんですけど私」
「薫子さんのいけずぅ」
「引っぱたきますよ」
 実際には八王子先輩を狙っていた女性たちに何されるか分からないのが怖いので引っぱたいたりはしないが、一応脅してみる。
 すると、先輩はいきなり耳にキスしてきた。
「ひゃっ、」
「ふふ、薫子さんって強気なくせに耳が弱いの可愛いよね」
 耳元で囁かれて、背すじがゾクゾクと粟立つ。まずい、足元がふらついてきた。
「っ、ここ、玄関なのでやめてください!」
「玄関じゃなきゃいいんだ?」
 あああ、言質を取られた!
 そして私は今日も八王子先輩に食べられるのであった。

 さて、先輩とそんな生活を繰り返していたある日のことである。
「村崎くん、ちょっといいかな」
「あ、はい」
 経理部で仕事をしていて、男の人の声で振り向いた私は、その声の主が経理部の部長であることに気づいた。
 ――金子清。正直私は、この人がちょっと苦手だ。
 顔はいいのだが、声質が少し苦手というか、私の耳と相性が良くない。
 会議や説明会など、騒がしい環境でもよく通る声なのだが、私は何故かこの声が受け付けなかった。よく通るぶん、耳に刺さるのだ。鼓膜が痛くなってくる。
 そして、私は声が苦手な人間を避けがちになってしまう性質があって、部長にもあまり近寄らないようにしていた。この人もこの人でモテるしな……。
「私になにか……?」
「ちょっとここだと話しづらいから、応接室に行こう」
 部長の言葉に少し警戒心を抱いたが、「君も人のいない場所のほうが都合がいいだろうから」と言われて、大人しく従うことにした。
「……部長、お話とは?」
 部長と応接室に入って、単刀直入に話を伺う。
「君、営業部の八王子くんと付き合ってるんだってね」
「それがなにか?」
「――これはどういうことかな」
 部長がタブレットを私に見せる。
 そこには、資料室で八王子先輩と密会していたときの映像が映っていた。
 八王子先輩に唇を奪われ、首すじを撫でられて『んぅ……っ』と悶える私がそこにいた。
「ウワーーーーッ!?」
「村崎くん、静かに」
 顔を真っ赤にして叫んだ私を、咄嗟に部長が抑える。
「ぶ、ぶちょ、これは、」
「警備部の若いのが資料室の監視カメラに映ってたのを私に報告してきたんだよ。君たち、付き合ってるのはいいが、こういうのはちょっと」
 部長は苦い顔をしていた。私が悪いわけじゃないのにすごく恥ずかしい。なぜ私がこんな屈辱を受けねばならぬ。八王子秀一、絶対に許さんぞ……。
「部長……申し訳ありませんでした……」
 私は羞恥で涙目になりながら謝る。
「うん、まあ、君が悪いわけではないのは分かる」
 部長は口元を押さえながらうなずく。多分笑いたいのをこらえている。ちょっと肩がピクピク震えているのでわかる。
 ううう、と唸りながら俯いていると、「こんな奴じゃなくて、僕にしないか?」と、思いがけない言葉が降ってきた。
「はい……?」
 何かの聞き違いか、と顔を上げると、至近距離で部長と目が合った。部長の目が、弧を描いている。
「え、ええと……?」
「この映像、警備部から僕が差し押さえたんだが、これを上に報告したら、どうなるか分かるよな?」
「……まあ、最悪クビですかね」
「物わかりが良くてよろしい」
 部長は私の頭をポンポンと撫でた。気安く触らないでほしい。
「君に拒否権はない。八王子くんを守りたいならね」
 耳障りの悪い声が耳を撫でると、部長は応接室を出た。
 私は応接室の中で立ち尽くしていた。

 ――状況を整理すると。
 八王子先輩と私は恋仲で、部長もどうやら(私の思い上がりでなければ)私を好いているらしい。で、部長は私と八王子先輩の密会動画を餌に、私を脅して八王子先輩と別れさせ、自分のものにしようと。
 ……いや、なんだこの状況?
 私は紙に書いても理解に苦しむ現状に、頭を抱えたくなってきた。
 モテ男二人が私を奪い合って争うとか、ドラマじゃあるまいし。
 もしかして、今までの全部ドッキリか夢なのではないか?
 しかしほっぺたをつねっても痛いので夢では無さそうだ。ドッキリにしたって人の処女まで奪うのはやり過ぎだろう。ポケットの中の合鍵を確かめながら私は思案する。
 ……うーん、八王子先輩も金子部長も私を好きなのが事実として、私はこれからどうしたらいいんだろう?
 正直なところ、私は途方に暮れていた。
 先輩か部長か、どちらかを選べということ……?
 匂いフェチのド変態なイケメンか、声が耳障りな馴れ馴れしいイケメンか……。
 ……正直どっちもどっちだなー。
 でももう前に住んでたアパートは引き払ってしまったから、先輩に捨てられたら住む場所ないんだよなー。
 などと悩んでいるうちに、本日の業務終了。ほぼ無意識で生きているので考え事をしていても仕事の手は休まない。
 そして、「薫子さん、一緒に帰ろう」などと八王子先輩が来てしまうわけである。
「……えーっと、先輩……」
「八王子くん」
 私が口を開きかけると、あの耳障りの悪い声が私の耳を突き刺す。
 見ると、まあ予想通りというか、部長がいた。
「営業部の王子様が、こんなところまでご足労だね」
「ははは、まあ、薫子さんのためですから」
 二人とも笑顔だが、背景がバチバチ火花を飛ばしている錯覚を覚える。男同士の争い、怖いなー。
「悪いが、今夜は僕が村崎くんを貰っていく」
「は……?」
 部長の言葉に、先輩は殺気立った声を出す。
「いいよね? 村崎くん」
「薫子さん、どういうこと?」
 やめて……二人していい笑顔で私のことを見ないで……。
「……え、えーっと……ちょっとお手洗い行ってきます」
 二人が制止する前に、私はトイレの中に駆け込んだ。流石に男二人はここまで追ってこられないだろう。
 そして、便座に座りながら、メッセージアプリで先輩にこっそり状況を説明する。
『あー、そういうことね。オッケー、俺に全部任せて』
 八王子先輩は、そんなメッセージを寄越してきた。
 この状況をどうするというのだろう、と思いながら、いつまでもトイレに籠城しているわけにもいかないし用も足したので二人のところに戻った。
「おかえり、薫子さん。じゃ、帰ろっか」
「待て待て、僕の話を聞いてたのか? 村崎くんは今夜僕がいただくと――」
「えー? でも薫子さん疲れてるだろうし、今日はもう家に帰ってゆっくり寝たいよね?」
 どうせ八王子先輩は寝かせる気など無いのだろうが、私は『話を合わせろ』と言われた気がして、黙ってうなずく。
「村崎くん? 話が違うぞ、八王子くんがどうなってもいいのか?」
「えー? 僕なにか悪いことしました?」
「とぼけるな、証拠はここに――!?」
 金子部長はカバンの中を漁って、だんだん顔色が悪くなっていく。
「――ない、ない!? 馬鹿な、ちゃんとカバンに入れたはずなのに!」
「あれれー? 何か失くしたんですか? ダメですよ、ちゃんと保管しとかないと」
 先輩は意地悪な顔でわざとらしく笑う。
「八王子、貴様……」
「探し物に時間かかりそうだし、俺たちは先に帰ろっか、薫子さん。それじゃ、お先に失礼しまーす」
「お、お疲れ様でした……」
 今にも牙を剥き出しそうな顔で睨む部長を後目に、先輩に肩を抱かれて私は二人で経理部を出た。
「……先輩、何をしたんですか?」
「えー? 薫子さんまで俺を疑うの? 俺、傷ついちゃうなー」
「とぼけないでください」
 私がため息混じりに言うと、先輩は「あはは、バレちゃあ仕方ねえ」と、自分のカバンからタブレットを取り出した。
「盗んだんですか?」
「人聞きが悪いな、ちょっと借りただけ。例の映像を消したら明日には返すって」
 そう言ったあと、先輩はしばらく映像を眺めていた。
「……この動画、俺の端末に移してから消してもいいかな。いいオカズになりそう」
「今すぐ消してください」
「冗談だって」
 私が睨むと、「おーこわ」と全く怖がってない顔で先輩はタブレット内のデータを消したのであった。

〈続く〉
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