それは麻薬のような愛だった
燻る感情を抱えつつもなんとか料理を全て胃の中へ収め、雫は店の外で颯人達と別れた。
「じゃあな」
そう言って手を振り、山中と去っていく颯人の背を少しだけ見送って雫も事務所へ戻るために足を進める。
晴れない気持ちのまま歩みを進めていると、ふと目の前に見えた景色に足をとめた。
——ここ…いっちゃんの会社だ…
多くの企業が集まるオフィス街、その中でも一際の存在感を放つ大きな建物は伊澄の在籍する法律事務所で、その荘厳さに思わず身がすくんだ。
こんな近くにあったんだと久しく鼓動を打ちつけながら思う。雫の担当する顧問契約先は近辺には無く、この辺りにはまず足を運ばない。
まずエンカウントする事は無いとは思うが、早くその場を去りたい衝動に駆られ雫は歩みを進めた。
視線を落とし、いつもの何倍もの速さで足を前に出していると、その勢いで何かを蹴り付けてしまった。
「あっ…」
再び立ち止まり、飛ばしてしまったそれを追いかける。拾い上げると顔写真の載った社員証で、「輿水礼」と書かれた名前の上には目の前のビルの社名である法律事務所の名前が書かれていた。
酷く迷ったが、同じ社会人として社員証を無くせばどれほど面倒かは察しがつく。仕方なくそれを手にしたままビルの自動ドアを抜け、中へ入った。
運のいいことに受付があったのでそこに預けようとしたのだが、セキュリティゲートの前で鞄の中を漁りながら慌てふためく女性が目に入り、おそらくと当たりをつけて雫は歩み寄った。
「あの…探されてるのはこれですか?」
おずおずと声をかけると焦りの表情を浮かべた女性が雫に目を向け、その手に持つものを見るや否やパアッと表情を明るくした。
「!そ、そうです!ありがとうございます!ああ、良かった…」
「外に落ちてました。ただ…すみません。落ちてるのに気付かずに蹴ってしまって…」
「いえ!いいんです!落とした私が悪いので!本当にありがとうございます!あ、何かお礼を…」
おそらく輿水であろう女性は深く頭を下げながら大袈裟な事を言うので、雫は丁重に断り首を振った。
「たまたま通りかかっただけですから。無事にお渡しできたので、私はこれで」
「あ、あの!本当にありがとうございます!」
女性に軽く手を振り雫はビルのエントランスを出た。
当たり前だが伊澄に出会うなんて奇跡は無く、そのまま会社を後にし雫は自分の仕事場へと戻っていった。