恋するだけでは、終われない
第八話
……わたしは、自室で宿題と予習を終えると。
いつもより早く、ベッドに横になる。
「……ねぇ月子?」
夕食後に、食器洗いを手伝っていると。
「そろそろ、新しい色のカーテン買いにいかない?」
突然母が、聞いてきた。
娘を気にかける、母の気持ち。
そういったものの存在くらいは、わかるけれど。
ただ、わたしは。
いま聞かれた意図が、よくわからない。
海原昴と再び出会い、自分が少し変わってきたこともわかっている。
ただそれが、当初の考えていたこととは。
微妙に違ってきた気がして、ならないのだ。
ベッドサイドのランプのあかりを、少し暗くして。
わたしは『あのとき』のことを、思い出す。
……海原くんは、きっと覚えていないのだろうけれど。
わたしたちはとても小さいときに、一度だけ会ったことがある。
「……そっか、迷ったんだね。じゃぁ北かな? 南かな?」
わたしの小学一年生が、終わりかけていた春。
すなわち彼が小学生一年生になりかけていたあの春の、出来事だ。
「キタカミナミ?」
「うん、北か南」
あのときわたしは、家の外の満開の桜並木がどこまで続くのかと。
駅の近くの和菓子屋の方角とは違う向きに、ひとりで歩き出した。
「もう終わりなの?」
いつもと逆の向きに進んだ道は、わたしの予想外に。
桜並木が短くて、途中から銀杏並木に変わってしまった。
「このまま歩いたら、またピンクになる?」
幼かったわたしは、このまま歩き続ければもう一度、満開の桜並木になると信じて。
そのまま先へ先へと、進み続けた。
冷静になれば、一本道な上、車では何度も通る道だ。
だが当時のわたしには、そんなことなどわからなくて。
「歩いてきた道って、どっち?」
前かうしろか、右か左か。
そうやって、ぐるぐるしているうちに。乗りものに弱いわたしは、なかば酔ってしまった。
「どうしよう、迷子になっちゃった……」
そういいながら、どこかの家の壁にもたれて。
途方に暮れていたわたしを。
……あの『彼』は、見つけてくれた。
わたしを見て、『彼』は開口一番。
「歩きすぎて疲れちゃったの? じゃぁいい飲みものあるよ!」
そういって、一度その家の中に戻ると。
「お待たせ!」
炭酸が効いた、よく冷えた甘い飲みものを。
淡く青みがかった紫色のコップに注いで、大切そうに持ってきてくれた。
「いつもは、土曜日しか飲めないんだ。だから内緒だよ!」
そういって笑った彼は、わたしが中身を飲み干すまで。
落ち着きなく、周囲をキョロキョロとうかがう。
あの日が何曜日だったのかは、さすがに覚えていないけれど。
きっと、海原くんのことだから。
土曜日だけの飲み物が、誰にも見つからないように。気をつかって見張っていてくれたのだろう。
少し元気を取り戻したわたしが、迷子になったと告げると。
わたしの家は、北か南かと聞いてくる。
「キタカミナミ?」
残念ながら、わたしには意味がわからなくて。まるでなにかの呪文にさえ思えた。
そんな困った顔のわたしを見た、彼の次の質問は……。
「じゃあ、右か左は?」
……海原くん。
「それがわからないから、迷子なのよ……」
わたしはベッドの上で思わず、そんなことを口にする。
きっといまの、可愛げのない自分ならそう答えてしまうだろう。
ふと、現在の彼とわたしの日頃をやり取りを思うと。
思わずひとり、笑みが出る。
「……それなら、和菓子とケーキ、どっちが好き?」
そうか、あのときから彼は。
ちょっと発想が、ほかとは違う人なのかも知れない。
わたしはもう一度、最近出会った彼を思い出すと。
またひとり、笑みが出た。
「おまんじゅうが、好き……」
「わかった! それなら、和菓子屋さんだ!」
うれしそうに、彼が『答え』を見つけてくれて。
わたしを、桜並木のほうに無事連れ戻してくれて。
やがて見覚えのある、自分の家の近くまで戻ったとき。
わたしは思わず夢中になって、彼を放って走り出した。
……それがわたしの、悔やんでも悔やみ切れない後悔の始まり。
そう、幼過ぎたわたしは。
彼の家を、覚えていない。
彼の名前を、聞いていない。
もうすぐ小学生になる、それだけは、道すがらに彼が教えてくれた。
「近くだから、会えるといいね」
父にいわれて、翌週には同じ小学校で会えるだろうと、安易に考えた。
しかし小学校の校区が桜並木と銀杏並木の境で、ばっさりとわけられていたなんて知らなくて。
「おうちの近くに行けば、思い出せるかな?」
母の提案は、名案なのに。
未熟なわたしには、並木道に沿って並ぶ家々を見分けられる力が、備わっていなかった。
人はきっとこれを、初恋と呼ぶのだろう。
甘く、ほろ苦いただの『思い出』。
だから、『次』に進めばそれでよい。
ただ、『彼だけ』を追い求めていた、頑固なわたしは。
小学校で、男子と話すことを避け続けた。
「みんな、お友達だよ?」
どれだけ先生にいわれようが、次にわたしが話す男子は、彼が最初じゃなきゃダメ。
そうかたくなに思えば思うほど、ほかの男子にとってわたしは、近付き難い存在になっていく。
「一緒のグループで、やらない?」
同時に、わたしを心配して男子との仲をなんとか取り持とうとしてくれる女子にとっても。
わたしは扱いづらい存在となる。
低学年のころは、男女を問わず仲良くしないことを不思議がられ。
やがて高学年になると、男子に冷たいばかりか、女子の空気も読まない子だと思われて。
次第に話す相手が、減っていく。
ただし、ひとりの時間が増える中で。
勉強ができるようになった。それに、本が好きになった。
中学校に行けば彼に会えるだろうと盲信し。
「キタカミナミ?」
彼の口にしそうなことを、理解できる人間になろうと。
知識を増やす努力をしたからだ。
けれども、運命の神様は残酷で。
わたしは中学校でも、彼に出会えなかった。
彼の住む銀杏並木の途中が、校区の分岐点だなんて。
彼の通う小学校の生徒は、進学先がふたつの中学校に別れるだなんて。
とんでもなく、悪い冗談だと思った。
当時、彼が私立中学校に進んだことなど露ほどにも思わなかったわたしは。
ただただ己の不運さを嘆き悲しんで。
だからなおのこと、中学校は楽しくなかった。
「三藤さん、よかったら俺と……」
容姿だけを褒めて、突然告白してくる男子と話すのが心底嫌で。
「ちょっと大人びてて、かわいいからってさぁ……」
そこから派生して、よりややこしい恋愛事情へと掻き回してくる女子と過ごすのは、さらに苦痛だった。
ただ、自分でいうのもなんだが。
どうやら、キツめの性格なのが幸いしたらしい。
中学校でも虐めという名の、本当は弱い連中が引き起こす醜い行為にだけは、巻き込まれなかった。
もっともそのせいか、他の誰かに心を許すことも、無くなったのだけれど。
わたしは特に、気にしていない。
そんなわけで、高校は。
学力一本で勝負して、『丘の上』に進学した。
朝が早かったり、列車を乗り換えたりして通うのは億劫でもあったけれど。
わたしを知らない人たちの中で過ごせて、自由に本を読む時間が取れることは悪くないと考えた。
ただ相変わらず、乗りものには弱かったので。
偶然隣に座った高尾先生には助けられた。
最近まで、その名前さえ知らなかったけれど。
毎朝隣に座ってくれる、すてきな女性と出会えたのには。
正直少し、救われた。
そして、ある日。
……わたしの運命が、大きく動いた。