恋するだけでは、終われない

第九話


 わたしはふと、部屋の置き時計に目を移す。
 もうすぐ、真夜中なのね……。

 少し、空気を入れ替えよう。
 そう思ったわたしは、勿忘草色(わすれなぐさいろ)の部屋のカーテンをそっと開けて。
 月の出ている、空を眺める。

 ……中学校に入ったあとの連休に、このカーテンを新調した。
「思い切ってピンク色とかにする?」
 両親が、小洒落たインテリアの店に連れていってくれた日のこともよく覚えている。
「その花柄より。もう少しい落ち着いたもののほうが、寝やすいんじゃないか?」
 父と母が。カラフルな色や、たくさんの柄について会話を繰り広げる中で。
 わたしはむしろ、サンプルに添えらている『色名』に夢中になった。


「勿忘草色?」
 ふたりがどこまでわたしの本心を理解していたのか、わかならかったけれど。
「この『色名』が気に入りましたので、お願いします」
 そう自分から店員に告げた、わたしを見て。
 ふたりは安心したような笑顔と、哀しそうなほほえみを複雑に混ぜ合わせた顔をしていた。

 両親は恐らく、中学校に入って更に落胆しているわたしを見るのが、辛かったのだろう。
 同時に、わたしがそれでも想いを変えない。
 いや変えられない不器用さを、認めようとしてくれたのかもしれない。


 それまで使っていた、銀白色のカーテンから。
 可憐な明るい青色に変わった日の、母親の言葉も忘れていない。
「あら?」
「どうかしたの?」
「思ったより、月子(つきこ)にあう色ね」
 ……本心から出た言葉だと、わたしは思った。
 そして母は続けて、こうも口にした。

「そのうち、お母さんがこのカーテンをもらうから。そのときは、月子のをまた新しくしましょうね」

 あの夜もいまと同じ時間に、空を眺めた。
 あの日ときょうは、似たような月が見えている。

 わたしはあの夜、もう一度心に決めた。
 そして、月に願った。
 同じ空を、近くで見ているはずの『彼』と。
 いつかもう一度出会いたいと。


 ……わたしの唯一の救いであり、ある意味生き甲斐だったのは。
 彼の声と、笑顔を忘れなかったことだ。

 勿忘草色のカーテンは、中学時代のわたしの。誰よりも親友だった。
 その結果手に入れた、『丘の上』への進学。
 そこから続いているこの奇跡をもう一度、振り返ろう。



 ……高校生活にも、というよりようやく揺れる列車に慣れた、二学期のある日。
「ウソっ……」
 わたしは、何気なく見ていた窓から。
 中学三年になった彼が、プラットフォームにいたのを偶然見かけた。
「どうかしたの?」
 いま思えば隣の高尾(たかお)先生が、わざわざそう聞いてきた気もする。
 それくらい、わたしは動揺した。

 彼はわたしにはまったく気づかないまま、わたしたちのうしろの列の席に座る。
 あのときに、声をかける勇気があれば。
 いまとはまた違った景色が、広がっていたのかもしれない。
 でも、わたしにとってはずっとずっと。長いあいだ探していた彼だけれど……。
「どなたですか?」
 ほんの一瞬を、ともにしただけのわたしを。
 彼が思い出してくれるはずはないだろうと思うと。
 声に出すのが、怖かった。

 次の日も、その次の日も。
 彼はプラットフォームで、いつもなにか本を読んでいた。
 だから列車の窓からわたしが見ていても、気がつくことはない。
 次の週も、次の月も。
 わたしはただ、彼の前の列に座る、ただの女子高生だった。


 そうして、ときを過ごしているうちに。
「雨の日は、アンタが窓側!」
 彼の乗るひとつ先の駅から、栗色の髪の毛の女の子が、彼の隣に座っていることに。
 わたしはようやく、気がついた。

「眠いから寝る。起こすの忘れないでよ!」
 ……わたしが座りたかった場所は、あっ気なく取られてしまっていた。
 ただ自分でも意外なほど、わたしはそのことがショックではなかった。
 なぜなら彼が、わたしのようにずっとひとりで大人になってしまえるほど。
 孤独で寂しい人間ではないのだと、安心したからだろう。
 だからわたしは涙が出なかった。

 でもわたしは、彼から離れてしまえるほど強くもなくて。
 そのあともわたしは、自分の気配を消すようにして。
 慎重に、決して彼らに気づかれないようにしながら。
 彼と栗色の髪の毛の女の子の前列に、座り続けた。


 ……とはいえ、ごめんなさい。
 ふたりの会話。
 いえ、いまなら高嶺(たかね)さんの声というべきね。
 結構大きいから、色々聞こえてしまったわ。

 それに、彼女には感謝していることがある。
「……なぁ。なんでここだけ、ひらがななんだ?」
「ちょっと! アンタがどうせ決めてないだろうから、わたしの班に名前書いといてあげたのに。文句あるわけ?」
「いや、班分けはいいんだけどさ。名前くらい漢字で書いてくれよ……」
「はぁ? 『(すばる)』って、常用漢字じゃないから書けなくていいとか前にいったよね?」
「べ、別に。覚えても損はないだろう?」
「だいたいアンタさぁ! 苗字だって(うみ)(はら)っぱなのに。なんで『ウナハラ』なわけ?」
「なんでっていわれても……。でも苗字は逆に、書きやすいからいいだろう?」
「いやだ。『海原(うなはら)(すばる)』なんて、読みにくいし書きにくい!」

 高嶺さんが、漢字まで添えて連呼してくれたおかげで。
 海原昴。
 わたしが知りたかった、『彼』にやっと。

 ……名前がついた。

 ちなみに、この先も高嶺さんは知らなくていいのだけれど。
 わたしは、いつか彼女に。
 この『借り』を必ず返さなければならないと、心に決めている。


「……え? アンタ『本校』いかないの?」
「『丘の上』に、しようと思う」
 ある日、海原くんが『丘の上』への進学を目指しているとわかって。
 わたしは思わず、声が出そうになった。

 また、別の日には。
 どうやら同じ学園内とはいえ、追加の試験があることもわかって。
「どうしよう? わたし、成績足りないかも!」
「『本校』なら、問題ないだろう?」
「なんでよ? わたしだって、『丘の上』いくから!」
 栗色の髪の毛の女の子も、同じ学校を目指すことも知って。

「ここ教えなよ!」
「なんだよ、その上から目線は……」
「ねぇ、いまのままだと結構ギリギリかも……」
「いや、解ける問題が増えてきているから、心配し過ぎだ」
 そんな会話が聞こえてきて、静かに応援していて。
「ま、余裕だった!」
「お前がいうか……」
 そうやって、ふたりの進学が決定したときは。
 正直、それより前にふたりが『ただの仲良し』でしかないと知ったとき以上に、うれしかったかもしれない。

 あと、こんなときでも。
 声をかけずに隣にいてくれた高尾先生って、本当にやさしい人なのだと思っていた。
 まぁ、いまとなっては……。
 密かに藤峰(ふじみね)先生と『ネタ』にしていたのじゃないかしらと、不安でしかないのだけれど……。


 こうして、ようやく。
 高校からは、海原くんと同じ時間を過ごすことができる喜びにひたったのだけれど。
 同時に、わたしはもう一度怖くなった。

 ……海原昴は。

 わたしを覚えて、いないんだ。


 ……春が、近づいていた。
 まもなく始まる現実世界を前にして、そのころは毎日悩んで過ごしていた。

 彼が新入生として同じ学校にやってきたら、わたしはいったいどう接すればよいのだろう?
 高校でようやく見つけた親友の、春香(はるか)陽子(ようこ)にも話せていないわたしの秘密を。
 どうやってこれから、扱えばよいのだろう?


 悩み抜いたわたしは。
 彼が、わたしを見つけてくれるまでは。
 わたしの過去は話さないと心に誓った。
 ただそれと同時に、彼と過ごす時間を作るんだと心に決めた。

 入学式で、講堂の機器室から海原くんを見つけたときは。
 不本意ながら、機器部へのきっかけをつくってくれた都木先輩に。
 少しだけ、感謝した。

 それからあとは。
 部活動の勧誘週間がスタートしたときから、現在に至る。
 まぁ、不器用なわたしなので。
 やりかたは少々荒かったようで色々な人を驚かせたり、迷惑をかけてしまったみたいだけれど……。


 こうして海原くんとわたしは、再び出会って。
 いまはそれなりに、同じ時間を過ごせている。
 これからどのような展開を迎えるかなんて、まだわからない。
 でも、でも……。


「……ねぇ月子、そろそろ新しい色のカーテン買いにいかない?」
 夕食後に食器洗いを手伝っていたとき。突然母が聞いてきた。
 娘を気にかける、母の気持ちの存在くらいは、わかるけれど。
 いま聞かれた意図が、まだよくわからない。

 だからわたしは、朝になったら。
「お母さん、まだこのままがいい」
 いまはそう、答えよう。

 そう思ってから、ふと。
 もしかして、お母さんって……。
 わたしの応援をしてくれている、のだろうか?

「……当たり前じゃない」
 なんだか急に、母のそんな声が聞こえた気がして。
 わたしは少し、ほほえんだ。



 海原昴と、再び出会た。


 ずっと願っていたことが、かなったのなら。
 あと少しだけ、欲張ろう。



 もうひとつの願いが、かないますように。

 そう、彼が。


 ……彼がわたしを、見つけてくれますように。


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